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「昇! のーぼーる!」
「志帆!」
坂道の途中、俺はやっと見つけた志帆の姿を見てすぐさま駆け寄った。
やっぱり俺の予想は間違っていなかった。志帆が都市伝説の真相を諦めて帰るなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。
「ったく、心配したんだぜ?」
「あんたがあの時一緒についてこなかったら、こんなことにはならなかったのよ」
志帆は頬を膨らませて俺を睨んできた。いつもなら少しイラっとするのだが、今はそれよりも志帆が無事であったことの方が大事だ。
時計を見ると、夜もかなり深い時間になっている。おばさんも心配してるし、とりあえず早く志帆を家に帰さないと。
「ほら志帆、帰るぞ」
「ん? 待って」
そう言うと、志帆が坂の先を指差した。
どうしたんだ、と志帆の指の先を見てみると、小学生ぐらいの男の子が泣いている姿が見えた。
俺と志帆はすぐさま男の子のところに駆け寄った。
見ると、男の子の膝が擦りむけて血が出ていた。なるほど、恐らく転んで足を擦りむいたのだろう。この年では、この程度の傷でも立派な重傷だろう。
「ほらほら泣くなって、ちょっと待ってろ」
俺は男の子の頭を軽く撫で、ポケットの中に入ってた消毒液と絆創膏を取り出し、応急処置を施す。教師を目指しているのだから、これぐらいの処置は出来る。
絆創膏を貼り終えると、男の子の泣き顔がスッと笑い始めた。
「ありがとう! 先生!」
そう言うと、男の子は元気よく走り去っていった。
「先生遊んでー!」
「先生遊ぼー!」
「先生!」
突然、後ろから子供の声が聞こえてきた。振り向くと、そこにはたくさんの子供達がキラキラした笑顔で俺を見ていた。
「先生どうしたのー?」
「先生なんか変だよー?」
「具合悪いのー?」
たくさんの子供達が、一斉に心配そうな顔で俺に近づいてくる。よほど俺のことが心配なのだろうが、教師として子供達を心配させるわけにもいかない。
「おう、先生はいつでも元気だぞ! さあ、グラウンドに行くぞ!」
「はーい!」
俺の号令に、子供達は元気よく返事をして一斉にグラウンドの方へ駆けていった。
教師を志している俺が憧れているのは、こうやってたくさんの生徒に囲まれて毎日を過ごすことだ。そして今、その憧れていたものが目の前にある。
「……先生!」
また、突然後ろから声が聞こえてきた。振り向くと、スーツ姿の若い男が立っていた。
「俺、先生のおかげで夢を叶えることができました! 本当にありがとうございました! 先生には、本当にお世話になりました!」
そう言って、スーツの男は何度も俺に向かって頭を下げてきた。
これも俺の憧れだ。受け持ったクラスの生徒が夢を持ち、その夢に向かって努力していくのを支え、成功させること。それが、教師としては満点の教育じゃないだろうか。
そして今、俺の目の前には立派に夢を叶えた生徒がいる。とても生き生きとして、未来への道に希望を抱いている目。それを見ることが出来ただけで、俺はもう満足だ。
「俺、先生があの時言ってくれた言葉に救われたんです! 目の前の未来は、必ずしも成功が約束された未来じゃない。この先には必ず失敗はあるけど、その失敗も自分の一部、輝かしい財産なんだって。その言葉があったから俺、ここまでやってこれたんです!」
スーツの男はそう言った。
その瞬間、今まで俺の体を満たしていた満足感が大きな違和感に変わった。まるで温かかった物が急冷めてしまったかのように、俺の体に大きなものとしてのしかかってきた。
「ねぇ、昇、覚えてる?」
また後ろから声が聞こえてきた。振り向くと、そこには志帆が立っていた。いつもの笑顔、いつもの志帆に見えるのだが、さっきまでと違う俺の心は何故か目の前の志帆を全く違う何かと捉えている。
その目の前の何かは、しばらく俺を見つめた後にゆっくり口を開いた。
「ほら、私が初めて都市伝説を自分で調べようとした時。その時さ、一緒について来てくれた昇にいっぱい迷惑かけたよね。それでさ、結局怪我して歩けなくなった私を、昇がおぶってくれた」
目の前の何かはゆっくりと話を続ける。
それを聞いた俺は、全てを思い出した。この時にどこに行ったのか、そして何があったのか。
そしてこの後、俺が何を言ったのか。
「その帰り道、謝り続けてた私に昇はこう言ったよね」
「失敗も迷惑かけることも誰にでもあること、そしてそれはいつか自分を勇気づける最高の糧になるから」
自然と俺の口から、あの時の言葉がこぼれ出す。
その瞬間、志帆もたくさんの子供達も体の中の違和感も、何もかもが目の前から消えてなくなり、山茶花が咲いている坂道が視界に飛び込んできた。
体がフッと重くなるのを感じる。楽しかった夢から醒め、現実に戻ってきたようなそんな感覚。
「……何で戻ってきた?」
後ろから男の声が聞こえてきた。振り向くと、そこには未だ岩に腰かけたままの男の姿があった。いつの間に片付けたのか、足元の吸い殻は綺麗に無くなっている。
「今までここに来た奴等は皆、失敗や挫折を恐れて何もかもが思い通りになるあの世界を選んでいった。だけどお前はそれを拒み、現実世界に戻ってきた」
男の顔は驚愕の表情になっている。どうやら、俺がここに戻ってきたことにかなり驚いているようだ。
何となく気持ちはわかる。誰だって失敗も挫折も怖いだろうし、そこから逃げ出したい気持ちはあるだろう。
だけど、俺はそこから逃げ出すわけにはいかない。
「お前は、この先に待っている失敗や挫折を覚悟して進むっていうのか?」
その問いに、俺はこれ以上にないほどはっきりと答えた。
「うん、俺は進む。失敗や挫折も、全部含めての俺なんだから」
その時、俺の横に突然看板が現れた。そこには坂の先を示す矢印と共に「この先頂上」と大きく書いてあった。
「頂上……これって」
どういう意味ですか、と聞こうと振り向くと、そこにさっきまで岩に腰かけていた男の姿が無くなっていた。まるで世界が変わったかのように、今まで見ていたものが幻だったかのように。
「世界の果てを見る覚悟はありますか?」
暗く静かな坂道の中、男の声が聞こえてきた。
目の前に現れたのは、最初にこの坂に来たときに出会った黒いスーツに身を包んだ男だった。
「世界の果てを見る覚悟はありますか?」
男は初めて会った時と全く変わらず、同じ問いかけを何度もしてくる。
最初は意味がわからなかった。この男は一体何に対する覚悟を俺に聞いているのか。だけど、今ならわかる気がする、世界の果てが何を意味するのか、そしてこの先に何が待っているのかが。
「世界の果てを見る覚悟はありますか?」
男は俺の答えを催促するかのように何度も聞いてくる。なら聞かせてやろうじゃないか、俺の決意を。世界の果ての意味を理解した上での俺の答えを。
俺は坂の上を再び見上げながら、静かに言った。
「あぁ、見てやるよ。世界の果てだろうが何だろうがな」
それは、心の底から出てきた自分でもわかるほどの恥ずかしいくらい本心の言葉だった。
男の声はそれ以降、一回も聞こえてこなかった。振り向かなくてもわかる、もう俺の後ろに男の姿はないだろう。おそらく、このまま進めってことなんだろうな。
俺はゆっくりと坂を登り始めた。心なしか、さっきよりも足取りは軽く、不思議な世界にいるという感覚もいつの間にか無くなっていた。風に揺れる山茶花の香りも、さっきよりもはっきりとわかる。
その時、坂の先に何かが見えた。よく目を凝らしてみると、どうやら倒れている人のようだ。
そしてそれは、俺が探していた人物のようだ。見間違うはずがない、その姿を俺はずっと探し続けていたのだから。
「志帆!」
俺はすぐさま駆け寄り、倒れてる人を抱き上げる。間違いない、それはさっき見た何かみたいな違和感がない、俺が探していた志帆の姿だった。
「志帆、おい志帆」
「……ん」
呼びかけると、志帆はゆっくりと目を覚まして周りをキョロキョロし始めた。そして俺の方を見た瞬間、安心したかのように小さく頬笑みを浮かべた。
「昇、やっぱり来てくれたんだね」
「ったく、心配掛けさせるんじゃねえよ。ほら、歩けるか?」
そう聞くと、志帆は小さく首を振っり、俺をじっと見つめ始めた。長い付き合いだから、志帆がこの視線で何を求めているかは大体分かる。
「しょうがねえな、ほら」
そう言って、俺は志帆をおぶって立ち上がる。よほど心細かったのか、俺の体に手を回している志帆の力がやけに強い。
「ねぇ、昇。せっかくだし見に行こうよ、世界の果て」
「……あぁ、そうだな」
志帆のか細い声に、俺は小さく答えて再び坂を登り始める。
「……前と同じだ、これ」
志帆が俺の背中で小さくそうつぶやいた。
小学生の時、俺はこの坂を登った。志帆が初めて、都市伝説の調査がしたいと言い出したのが、この坂の伝説だった。
そうだ、俺と志帆は一度この坂を登っていたのだ。その途中、志帆が転んで怪我をして、それを俺がおぶって坂を下りたため、あの時の調査は曖昧のまま終わった。
「その帰り道、昇が私に言ってくれたことがあったよね? 私、あの言葉があったから今の自分がある気がするの」
その言葉に、登っていた俺の足が止まる。
「私に道を作ってくれたのは、昇なんだよ」
よほど恥ずかしかったのか、志帆はそれ以降口を開かなかった。
俺は笑いを表に出さないようにし、再び坂を登り始める。正直、この笑いを表に出さないようにしながら坂を登るのはかなりきつい。だけど、悟られるわけにはいかない。
――俺も同じように志帆に、同じ言葉で救われたって。
「あ、ほら。見えてきたよ、世界の果てが」
気づけば、もう頂上は目の前だ。
この先に何があろうが、俺はすべてを受け入れる覚悟がある。あの時見れなかった景色を、あの時登れなかった坂を、そしてこの次に待っているであろう何か、その全てを。
俺は志帆をおぶったまま、その一歩を踏み出した。
そこには何もない、真っ白な世界がどこまでも広がっていた。