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「世界の果てを見る覚悟はありますか?」
暗く静かな坂道の中、男の声が聞こえてきた。
***
「ねぇ、知ってる?」
放課後、居残りで勉強をしている俺に志帆が話しかけてきた。
いつも以上にキラキラした目。志帆がこの目になるのは、大抵が俺にとってろくでもないことが持ちかけられる時だ。
「ほら、街外れにある獣道の先にある坂の伝説! その急な坂を登った先には、世界の果てが見えるんだって!」
「あー、はいはい」
勢いよく話しかけてくる志帆を、俺はノートに目を離さないまま軽く受け流す。
予想通りだ。志帆はどこから仕入れたかわからない伝説やジンクスの類いを全て俺のところに持ってくる。過去にはツチノコがうんたらとか、雪男がうんたらとかもあった。
そしてその都度、俺はボディーガード役として志帆に付き合わされる。いや、いつも断りきれずに安請け合いしてしまう俺も俺なのだが。
「ちょっと昇! ちゃんと話聞いてる?」
「あー、聞いてる聞いてる」
「絶対聞いてないでしょ!」
やれやれ、と思いながら俺は変わらずノートに数式を書き込む。
志帆も俺の聞く態度に腹を立てているのか、突然小さく唸り始めた。顔は見えないが、何となくしかめっ面で俺を睨み付けていることぐらいは容易に想像がつく。
いつもならここで折れる俺なのだが、テストも近いし受験も控えているこの時期にそんなことしてる余裕もない。
「悪いが志帆、今週末は期末テストだ。それに後二ヶ月足らずで大学受験も始まる。この大事な時期に、お前のオカルト話に付き合ってる暇はないんだ」
俺は上げていた顔を下げ、再び勉強を始めた。
いつもはこう強くは言わないのだが、テストと受験という二重苦とも言えるこの状況で平静を保っていられるほど、俺は器用な人間ではない。
しばらく、俺も志帆も口を開かなかった。
珍しい、ここまで言えば志帆は必ずと言っていいほど罵倒の嵐を俺に浴びせてくるはずだ。むしろ、今みたいに俺に反抗されて黙り込むことの方がよっぽど驚きだ。
「……ねぇ」
突然、志帆が口を開いた。しかし、何故かその声はいつも聞いてる志帆の声とは少し違うように聞こえる。
「一緒の大学行こうよ。ほら、私達の家からも近いし、途中にカフェとかもあるんだよ? それに、オカルトサークルってのがあるらしくてね」
「志帆、お前もわかってるだろ? 俺は教師になりたいんだ」
「でも、だからってあんな倍率の高い大学に行くこともないじゃん」
志帆の言い分は何となく理解できる。
俺が目指している大学は、かなりのエリートが集まる有名大学であり、その中の教育学部はさらに倍率が高いことで有名だ。そこを卒業することが出来れば、教師としては大成すること間違いなしとまで言われている。
だが、志帆の言う通り、別にそこに行かなくても教師にはなれるだろう。教育学部は何もそこだけにあるのではないのだから。
まぁ、だからといって諦めるほど俺の意志は緩くない。
「俺は小学校の頃からずっと教師を夢見てるんだ。だかこのら中途半端な気持ちで教師になりたくない」
そう言うと、志帆は不満そうな表情を俺にぶつけてきた。
俺はそれを気にすることなく、勉強に集中する。今回の期末テストは、受験にもかなり響く大事なテストなのだ。志帆とこうやって会話している時間すら惜しいと言うのに。
しばらく無言の時間が続く。
「……もういい」
「え?」
「……もういい、って言ってるの! 」
突然、志帆は怒りの表情で俺を睨み付けてきた。見上げてみると、志帆の目尻にうっすらと涙のようなものも見える。
「昇のバカ! アホ! がり勉! そんなに勉強が好きなら教科書と結婚しろ!」
「はぁ? 何言ってんだよ」
「そうやって無理し続けて倒れても知らないから! このドM!」
「ド、ドM!?」
突然のことにビックリした俺を背に、マシンガンのように怒声をぶつけた志帆は大股で立ち去っていってしまった。
残された俺は、突然の志帆の怒りを理解できずに固まってしまっていた。
あんなにも怒りを露にしている志帆を見るのは、幼馴染みである俺も初めてだ。普段からあまり怒ることがないはずのなのだが。
「……全く、何なんだよ」
結局俺は、志帆が突然怒りだした理由もわからないまま、学校が閉まる時間まで動くことができなかった。
***
「はぁ……」
部屋に入った瞬間、最初に出てきたのはため息だった。
学校が閉まって俺はすぐに家に帰ってきたが、その間俺の頭の中にはずっと志帆のことが残っていた。
何故、志帆は急に怒りだしたのだろうか。あの時の俺は何がいけなかったのだろうか。
「……ったく、何なんだよ志帆のやつ」
頭の中のモヤモヤが晴れないまま、俺はそのまま仰向けに倒れ込んだ。
すると、まるで当たり前のことのように思考が志帆のことに集中する。
「昇のバカ! アホ! がり勉! そんなに勉強が好きなら教科書と結婚しろ!」
「そうやって無理し続けて倒れても知らないから!」
繰り返される志帆のあの時の言葉。忘れようとすればするほど、頭の中にしっかりと根を張って離れようとしない。
「あー! もう訳わかんねぇ!」
俺は思わず身を起こし、頭をブンブンと振る。
まずい、このままでは勉強にも支障が出る。現に今勉強しても、何も頭に入ってこないだろうことはよくわかる。そんな状態が続けば、受験はおろか期末テストすら危うい。
「あー、何とかしねぇとなぁ……どうしたものか……」
相変わらず晴れない頭のモヤモヤに悪戦苦闘する俺。何かないかとひたすら思考するが、成果は一向に上がらない。
もはや諦めかけてきたその時、俺の思考を突然の電子音が遮った。
「あっ!?」
音の正体は俺の携帯電話だった。時刻は午後九時を回っている、こんな時間に電話がかかってくることは普段はないはずだが。
「ちっ……はいはい」
思考が遮られてイライラし始めてきた俺は、ぶっきらぼうに携帯を開く。こうなったらこんな時間にかけてきやがった非常識の一つも言ってやらねば。
「もしもし……あ、おばさん?」
意外にも聞こえてきた声は、志帆のお母さんだった。
珍しい、たまたま交換する機会があって電話番号を交換したが、かかってくることは一回もないと思っていた。
「どうしたんですか? こんな時間に」
俺は当然の疑問をぶつけた。
すると、電話口から聞こえてきたのはおばさんの焦りが混じった言葉だった。
「……え? 志帆が帰ってこない?」
それを聞いた俺の体に、寒気が走った。
「はい、はい、わかりました。見かけたら連絡します」
そう言って、俺はすぐさま通話を切り、即座に志帆の電話番号に電話をかける。
しかし、聞こえてくるのは規則的に流れる音のみだった。何度も試してみたが、全て結果は同じだ。
「変だな……あいつが電話に出ないなんて……」
無意識にそう呟くと、走っていた寒気がさらに強くなって全身に襲いかかってきた。ひょっとして、何か良からぬことに巻き込まれてるんじゃないだろうか。
そう考えた俺の頭に、あの時の言葉がよみがえった。
「ほら、街外れにある獣道の先にある坂の伝説! その急な坂を登った先には、世界の果てが見えるんだって!」
「街外れの坂道……」
それは、あの時志帆が言っていた言葉だった。
あの時は軽く受け流していたが、まさか志帆はこれを確かめるために街外れに行ったのではないだろうか。
そう言えば、前にも一回似たようなことがあった。確か雪男がうんたらの時に、俺の制止を振り切って山に入ったっきり帰れなくなったことがあった。
しかし、あの時と決定的に違うのは、今は志帆が一人だということだ。
「あいつ……ったく無茶ばっかりしやがる!」
手がかりを得た俺は、すぐさま部屋を飛び出した。確証があるわけではないが、確かめにいく価値はある。もし本当にそこにいたら、無理矢理にでも家まで引っ張っていってやる。
***
俺の住む街は割りと栄えている方だ。高い建物はあるし、娯楽施設も少しだけだがある。都会と田舎の中間、みたいな感じだ。
しかし、少し外れに足を向けると、そこは整備もロクにされていないいなか道が続いている。小学生の時はよく遊び場にしていたが、大学生になろうとしている高校生が立ち寄ることはまずない。
そして今、俺はそこを走っていた。街灯も無いような真っ暗な道をひたすら走り、俺はその先にある問題の坂に向かっていた。
しばらく走り続けると、やがて俺の前にかなり長く急な坂が現れた。
「思い出したぜ……ここ」
坂の前にやって来た瞬間、俺の頭に古い記憶がよみがえってきた。
あの時は聞き流していたから気づかなかったが、この坂の話は俺も聞いたことがある。坂を登りきった先には世界の果てが見える、という伝説の坂。いつ来ても、山茶花が綺麗に咲き誇っている綺麗な坂。
「小学校の時以来か……ここに来るの」
俺は小学生の時に、この坂を一度登ったことがある。しかし、具体的にどんなことがあったかは覚えてない。引き返したのか、それとも登りきったのか、登り始めた時からの記憶がほとんどない。
しかし、ここで立ち止まって思い出す作業に耽る訳にもいかない。今はこの先に志帆がいるかどうか、それが一番重要だ。
「……よし、待ってろよ志帆」
小さく決意し、俺は坂を登るために一歩踏み出した。
「覚悟はありますか?」
「!」
一歩踏み出した瞬間、どこからか声が聞こえてきた。草木がざわめいていて静かとは言えない場なのに、その声はまるで頭に直接語りかけたかのようにはっきりと聞こえてきた。
「誰だ!?」
すぐさま周りを見渡すが、人影らしいものはない。気のせいかとも思ったが、それにしてははっきりとしている。
「覚悟はありますか?」
「……!」
また声が聞こえてきた。しかもそれは、さっきよりも大きく、さっきよりもはっきりとしていた。
「覚悟はありますか?」
だんだんと近くなる声。そしてそれは、何の前触れもなしに突然現れた。
「覚悟はありますか?」
「うわぁ!」
突然現れた影に、思わず驚いて転んでしまった。
声と共に現れたのは、黒いスーツに身を包んだ男だった。顔から察するには20歳程度なのだが、男から発せられているその異様な雰囲気は、見た目不相応に老成しているように見せている。
男は転んだままの俺の前に立つと、さっきまでと全く変わらない声で言った。
「覚悟はありますか?」
「か、覚悟……?」
「覚悟はありますか?」
何度も同じ言葉を繰り返してくる男を前に、俺は転んだままの状態を直せないでいた。
男が何を言っているのか、男が繰り返し言う覚悟の意味はなんなのか、全く何もわからないまま、いつの間にか思考がストップしてしまっていた。
「覚悟はありますか?」
「……!」
男は俺の前で、何度も何度もそう言ってきた。
そして、恐怖が完全に体を支配してしまった瞬間、俺の意識は深く暗い世界へと放り出されてしまった。
その途中、微かに残った聴覚が男の言葉を朧気に掴んだ。
「世界の果て……覚悟はあり……」