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しばらく、と言っても私の中ではかなりの時間の経過を感じたんだけどね、誰も何も声も音も出さずにいたもんだから緊張感が半端ない! むしろ動いたら殺されるかもしれない、相手の出方を見てからでないと命が危ういから下手に動けない。これを膠着状態と言うのではないだろうか。あれ、膠着状態って何? どんな意味? 的な。
全身に冷や汗かきながらも脳内で考える事が脱線する私は、ほんとダメな人間であった。
うん、声の主は人だとわかるが、その姿を完全に確認できないまま視線は黒犬で固定ちぅなう。なう。なう。
ああ、素敵。黒犬の後ろ姿、とても凛々しいです。飼い犬の後ろ姿は……うん、可愛いんだけどとても笑えました。がに股風な後ろ足が笑いをさそってくれるんですよね。走ってる後ろ姿なんかとくにね。爆笑もんですわ。笑いこらえるの大変なくらい、おかしいのなんのって。可愛いから余計に笑いが。いやね、笑うと飼い犬に失礼かと思ってこらえるんだけど、口元の歪みは隠しきれないというか。まあ、がに股は私のせいだったりするから、後悔してるんですがね。…………幼い頃におむつつけたこと。
……ああ、つい最近も見たはずなのに。飼い犬懐かしや。
「黄昏れてるところ悪いけど現実に戻っておいで」
語尾に名前らしき単語が聞こえたが、聞き落とした。誰を呼んだ。私のことか? それなら人違いだけど、言葉は私にかけられたらしい。
どうやら目が据わっていたようだ。黒犬と戯れていたときにいつの間にか部屋にいた人が、とうとう声をかけてきた。幾分声を和らげて、優しく。
心臓がギュッとなった。声に胸きゅんじゃない。恋とかときめきでは無く、恐怖と緊張でギュッとなった! う、ぐ、苦しいっ。ど、動悸が……。な、何か言わなければっ。言わなければ……っ!
「……ド、ドウカオタスケヲ…………」
絞り出たのがこれとかって。
何を話せばいいのかさっぱり出てこなかった。
苦しさで閉じた視界は真っ暗で何も見えない。
呼吸が少し苦しいんだけど、過呼吸じゃないよね? あれってけっこう苦しいんだよね。できれば二度とお目にかかりたくないわ。
「ふんふん、ふんふん、きゅぅん」
何気に何度目か意識が遠のき始めた頃、顔に冷たい感触があって目を開けると、黒犬の顔。ベッドに前脚をかけて私の方へ身を乗り出していた。明らかに心配そうな眼差しで、鳴き声まで私を気にかけてるように感じる。…………とても黒犬が可愛い。私を心配してくれてるらしい黒犬がとても可愛い。心がほっこりした。
「別に取って食おうってわけじゃないから、とりあえず落ち着こうか」
ここで初めて声の主へ視線を向けることができた。頑なに相手を見るのを拒んでた自分が驚くほど自然に顔を上げてしまった。これはそう。黒犬に癒やされたところへ降ってきた気づかう声に、無意識に反応したせい。
…………。
だから他に何を言えばいいか全然考えてなかった! ばっちり目が合った時にさっさと逸らしとけばよかったけど、相手の緑色の目に引き込まれて逸らし損ねちゃったよぉ! てか緑色の瞳って。あ、声の主はやはり男だった。そして新たに気づいたことが。
……う、うしろにナニカイル?
「よし、だいぶ顔色がよくなったな。ん? なんかまた青ざめたか?」
見つめあって数秒後に顔を近づけてきた男が言ったことで、彼の後ろに行きかけた意識が戻ってきた。よし、気づかなかったことにしよう。
顔色って私のかな? 私ってそんなに顔色悪かったのか。え、この人心配してくれてたわけなの? 怒ってたとかじゃなくて?
「わん!」
おおお。黒犬が元気よく吠えたからちょっと驚いた。けど、まあ、私は落ち着いたぞ。大丈夫、これでも社会人十年近くやってるから少しくらいまともに対峙できるはず。たぶん。
内心まだあたふたしてはいるものの、今度はしっかりと男を見た。茶髪で緑目の二十代の青年かな。健康的な肌色で、ファンタジーなゲームやアニメに出てくる冒険者風の格好をしている。コスプレと言うには様になる程の、なかなかに整った顔立ちの男である。つまり、カッコイイ男キター! と言いたい。がたいが良すぎるわけでもないし、細っチョロすぎないところもイイ! 外見的に剣士かな? 茶髪で緑目だけど、イケメンありがとうっ。
「うぉん?」
無言の私に黒犬が首を傾げた。私は視線を男の後ろへ流してから、控えめに戻した。
「あ、の……後ろにいるのって」
テンション上がってさっき無視した後ろの存在について聞いてしまった。何やってる自分。内心ハイテンションだが、男からその後ろへ再び向けた私の眼差しには、戸惑いがおおいに見受けられることだろう。
男は首を傾げてから視線の先を確認してくれた。確認のため男が体をずらしたので、さっき私から見えた気がしたその姿がはっきりと見えた! 気のせいでは無かった。わずかに開いた部屋のドアから、なんか変なのがこちらをおそるおそる窺っていた。人なんだけど、男と比べると余分なものが付いている。頭とおしり辺りに。それが動いたのを私は見た。あれは自前の獣な耳と尻尾? ありなのか? いや、いいや。
それよりも両方とも茶色いし髪も目も茶色い色してたのであの犬を思い出す。私を食った? でかくなった犬。個人的に拒否反応が。
「おまえ、途中で体調崩して戻ったんじゃなかったのか? 来てたんならそんな所にいないで中に入れよ」
男が部屋の出入り口にいた人……もう獣人でいいのかな? 性別は男の子かな。獣少年に入室を促した。
マジか! 心の準備が! ちょっ、入ってくるな! しばし待たれよ! ダメ!
内心で叫んだ。私の中で耳と尻尾付きの少年が、実は作り物を付けた普通の人間であるという可能性は皆無だった。獣確定していた。
そろりと足を動かして中に入ろうとした獣少年の動きは不自然に止まった。入室しようと上げた足が部屋の床を踏む手前で止まったのだ。不思議に思い見やると、目にこぼれんばかりの涙を溜めて唇を真横に結んでいた。え。全身ガクブル状態で今にも号泣必至な顔で私を見つめていた。え。頭の三角な耳は完全に垂れていて、尻尾も恐怖に怯えるように萎んでる。ほんと細部にわたるまでガクブルしてる。えー。
彼には悪いけど、私は拒否反応通りこしてドン引きした。
獣少年の様子に私だけではなく、男までが驚いているようだった。は? とか、え? とか。かける言葉に困ってごにょごにょ言ってる。焦ってるんだろうな。黒犬だけが平然としていて、戸惑う私と男を気にせずに獣少年のもとへ移動した。
黒犬が獣少年を見上げた。号泣を必死でこらえてる獣少年は私から傍に来た黒犬へ視線を移した。
「だからアレは無いと言っただろう」
「だ、だってぇ……」
「アレはすでにトラウマになっているそうだ。間が悪すぎだ。おまえはもう少し人の心に機微になれ」
「で、でもぉ……」
「アレと姿が明らかに異なっているおまえへの反応がおかしいだろう。見た目を変えようが我らの主人には無意味だ。今のおまえが謝罪しようと受けつけてはくれない。主人の精神衛生上のため、おとなしく去れ」
「や、やだよぉ~、一緒にいたいよぉ。なでなでされたいよぉ。ぼ、僕、難しい言葉分からないもんっ!」
「いい加減にしろ」
「! う、うぅ」
獣少年はとうとう泣きだした。それはもう、わんわんと。黒犬からは、気のせいかな。敵を目の前に手を出せなくて仕方なく威嚇だけに留めているような、物騒な唸り声が聞こえてきた。気のせいかな。黒犬から怒りのオーラが出ているような?
てか獣少年、さっき誰と会話したよ。まさか癒しの黒犬様と?
私がまさかと思いつつ獣少年に微妙な視線を向けていたら、途端に黒犬が振り返った。
バッ! という効果音がつきそうなくらい勢いよく振り向かれたので、ビクッとしてしまった。同じ部屋にいた男も私と似たような反応をした。普段なら笑いと入れたいところだが、無理だ。ふざけてる余裕がない。噛み殺されると思って硬直してしまった。
黒犬は黒犬で、何かやらかしてしまったような顔してる。いやいや、そんな顔して私を見ても、い、意味分からないからね? 攻撃やめてね? 怖いからやめてね?
「きゃんきゃんっ」
黒犬が縋るようにやって来た。
その後ろで獣少年が人目をはばからず号泣している。
それらを先ほどの私のように男がドン引きした様子で見ていた。
「きゅんきゅんっ」
どうしていいのか分からない私にじれたのか、黒犬がベッドに上って私の懐に体ごと入りこんできた。頭や体を頻りにすり寄せては、私の顔色を窺ってくる。まるで悪いことして怒られるのを知っていて、説教回避するためにご機嫌うかがいしてくる飼い犬のようである。とりあえず頭をなでてやった。
「ぼ、ぼくもすりすりしたいよぉ、なでなでされたいよぉ、あーんっ」
部屋の出入り口にいる獣少年が変なこと言って泣き声をさらに大きくしやがった。
ドン引きしている男はとくに何もする気配がない。
なんだこれ。
おいおい、誰かどうにかしてくれ。とくにそこで煩く泣いてる奴は静かにさせてくれ。マジかなわん。
遠い目して他人頼みなことを思ったら、獣少年が地団駄を踏んでさらに煩くなりやがった。なぜだ。マジ煩すぎる! 黒犬は無意味に甘えてくるし、男は我関せずといった感じだ。もうこの状態はカオスと言ってもいいだろうか? くそったれ!