7
意識が浮上した私は目を開けた。焦点が合うと茶色い木の天井が映った。自分の実家の寝床の天井も茶色い木だが、視界に映る天井はどこか別の場所のものだと分かる、のだが。自分のいる場所とそんな余所の天井はおいといて。
首を左右に向けて見れる範囲で室内を見回したあと、また天井を見た。ちょっと眩しいや、いま朝かな? あーあ、短時間で色々あったな、ははは。
今回の目覚めにはど忘れしていなかった。最初から覚えていた。ほぅ。
地元から車で某所へ向かい、目的地付近で車を止めて歩いた。噴水と花壇の先へ進む途中で眩暈と光に襲われた。隣りには友達……白石さんがいたのに気づいたら一人でいた。金髪碧眼の美少女と素敵服着た少年が現れたけど、体調悪くて気を失ったら次は別の友達が運転する車の中にいた。その友達がグラマラスな美女に変わると車内から一転、どこかの広い庭にいた。私が白石さんとちゃんと会えるように魔法みたいなのをかけられて死にかけて。色々と精神に負担がかかったあとに現れた茶色い犬。そいつが目の前で大きく化けてガブリとやられた時には、もーマジで衝撃過ぎて視界も意識も暗澹したわ。
うん、単にあんたんって言ってみたかっただけですはい。
まあね、少し前を振り返って思うわけよ。短い間に何度意識手放して浮上させれば気が済むのかって。あれか? 形としては寝てるけど、頭のメカニズム的なことでレム睡眠とノンレム睡眠が大きく波打って行ったり来たりしてる的な状態なの? ほとほと分からんが、数度気を失ってるはずなのに寝た気がしない、休んだ気がしない。そもそも私の場合、休息のための眠りじゃなかったからね。半ば強制された意識放棄だからな! ふんっ。
それにしても、なんていうか…………重い。重たいぞ。
仰向けに寝ていた私は、陽の射し込むどこぞの木造の部屋のベッドの中にいるようだった。それだけならまだよかったが、重たかった。とくに腹の上ら辺が。首動くし手足も動かせるみたいだから金縛りとかではない。ただ重たいのである。腹辺りが、物理的に。まるで猫か小型の犬が寝てる人の上に乗っかって丸くなってるような負荷と似ている。
「……おもたいんだけど」
目はあけど、これでも意識はもやもやの寝起き前なのでまだ起きたくなかった。外が寒いという感じはしなかったけど、あったかいお布団から出たくない症候群が発動したようだ、笑。上体を起こさずに白い掛け布団を掴んで軽く引っ張りながら身をよじったら、上で重たい何かが動いて布団越しにみぞおち付近を踏みならし、胸を踏んで上ってきた。
ひぃぃい! 何故みぞおち付近たくさん踏んだ! じゃない、なにっ、なんなの!? 猫!? 猫なの!?
布団越しとはいえ、みぞおちと胸にかかった負荷は結構きつかった。生理的な痛みと気持ち悪さに呻きそうになったけど、それよりも得体の知れない重たい何かの方が怖かった。怖かったんだけど起きたくないがために確認しない、ベッドから逃げ出ない私ってね、はは。部屋が明るいのもあって恐怖半減だわな。
布団で頭まで隠そうとしたけど、あいにく上の重さでさっぱり引き上げられなかったので、ぎゅっと目をつぶってやり過ごそうとした。目蓋越しに陰りができると、こめかみ辺りにひんやりした感触と同時に生温い風を感じた。ふんふん言ってひんやりした感触が何度も押し当てられる。その感覚に思い当たる節があった。
え、犬?
実家で飼ってる中型犬。少し肥えた雑種の犬がまだ幼かった頃、私の布団の中に入って一緒に寝てたけど、陽が昇ると閉ざされたふすまを開けろとキャンキャン鳴いて騒いでいた。それでも起きない私の頭や顔や首に冷たい鼻を押しつけて鼻を鳴らして、さらに前足で地面を掘るようにガリガリされてほんとありえないくらいウザかった! ていうか朝っぱらから煩いわ冷たいわ痛いわで寝起き最悪だったからなっ! じゃなくて。ゴホン。…………実家の飼い犬の行動と少し似てるかもって言いたかったんですはいすいません。
重さの原因が犬かもしれないと考えるといくぶん気持ちが落ち着いた。しかし今は犬は遠慮したいなとか思ってたら。
「わん!」
ひっ!?
直後に耳元で大きく吠えられてビクついてしまった私。目を開けるとすぐ傍に黒……黒い、塊? ワンて……ああ、犬、犬の顔があった。はい、犬来ましたー。あはは~、黒いからすぐに顔分からなかったよー。もおぉ、近すぎぃ。顔近いからでかく見えるよ-、離れようね?
「きゃぅんきゃぅん! はっはっ、きゅぅ~んきゅん! わんわん!」
「うお、あぐ、なん、やめっ」
「きゃんきゃんきゃんきゃん!」
「だーっ、うるせーよ痛い痛いっ、やめてくれー!!」
私と目が合ったのが分かったのか、黒犬はめちゃくちゃ興奮したようにきんきんした声で鳴き出した。だけでなく、布団越しに乗っていた私の上から顔の脇におりたこいつはなんと実家の飼い犬と同じ行動をしてくれた。つまり、首から上を頻りに舐めるだけでは起きないと思ったのか、前足でガリガリするを追加したのだ。最初の一撃二擊目が額に直撃してすぐに上体を起こしたけど、三擊四擊目は危うく目に直撃するところであった。
実家の飼い犬と同じだなっ、バカかおまえ!? と内心で叫んだ。私の上から下りたんだからベッドからも下りればいいのにっ、ともな!
「わんわん!」
ちょうどベッドの片側が木の壁だったのでそちらへ後退りして距離をとった。あまり離れてないけど逃げた私にせまってこなかったので、この犬は飼い犬より少しくらい賢いと思うことにした。とはいえ、さっきまで自分の頭があった所に座るとかよ。つーか床に下りれ、私はもうひと眠りしたかったんだよ、静かでぬくぬくに包まれて寝たかったんだよ! わーんっ。
寝起きを襲撃されてムカついたので恨めしく黒犬を見やったら、あれ? 思ったよりでかかった。小型と言うより中型犬のようだ。黒い毛は長いのかと思ってたら普通に短かった。体を覆う毛と同じ黒のつぶらな瞳が嬉々としてまっすぐ私に向けられている。こちらを窺うように首を傾げる仕草や尻尾を動かす姿は……。
ど、どうしよう、かわいい犬だったよ。わしゃわしゃしたいかも。なでなでしたいかも。ぽんぽんしたいかも。ギュッとしたいかも。
真正面からまともに見たせいか、心を射抜かれてしまった。ほら、あれだよあれ! 空飛ぶ恋のキューピット的な? 弓矢でハートを射止めるあれだよ!
黒犬に対する不満な気持ちがぶっ飛んでもふもふしたい衝動がどっとやって来た。ど、どうしよう。この犬触ってもいいのかな? 自分から近寄ったらガブリとかないかな? 茶色じゃないから大丈夫かな? どうだろう、いいかな?
自分が思っていた以上にでかくなった茶色い犬に食われた出来事が、精神に打撃を与えていたらしい。色は違えど同じ犬だから警戒してしまう。可愛いからよけいに。……え、これってトラウマなの? いやいやいや、トラウマって言うほどじゃ……え? やっぱりトラウマだって? そんな大げさな……精神的な外傷? ……な、ならそうなのかも。分かった、じゃあ軽度のトラウマてことで、うん。しかし犬可愛い、触りたい、抱きつきたい。
私はさっと部屋の中を見回した。人はいない。正面の壁には本棚とドアがあるが、本棚はともかくドアは閉まっている。開く様子はない、たぶん。部屋には自分と目の前の黒犬だけ。よし。
黒犬のつぶらな瞳を遠慮がちに見てから斜め下に逸らして、離れた距離をつめた。
「……触ってもいいかな?」
控えめに言って両手を伸ばした。首より下を両手で軽く挟むように手のひらでぽんぽん。右手を頭に乗せてぽんぽん、なでなで。黒犬が目を細めて尻尾を振った。両手で顔を挟んでぽんぽん。不思議そうに見上げてくる黒犬。ぽんぽん、指先でわしゃわしゃ、わしゃ……………………ぐ。
「あんたマジかわいいなあ!」
込み上げてくる感情を我慢できずに黒犬を抱きしめてしまった。尻尾が嬉しさを表現しているような動きをしていたので、そのあとは抱きしめたまま手を動かしてわしゃわしゃぽんぽん、離れて頭なでなでして抱きしめてを繰り返した。黒犬が嫌がる素振りをしなかったせいもあって、可愛い柔らかいあったかいふさふさ肉厚あと五キロはやせようねなどと、後半は実家の飼い犬と混同しながら悲鳴じみた高い声で口にしてたと思う。たくましくて触り心地よかったから、つい。興奮してね。
だからさ、部屋に誰かの声がするとかこれっぽっちも思ってなかったんだよ。ここが他人様のお家だってこと忘れてたわけ。黒犬に何度目か抱きついたときにしたんだよ、若干怒りも含まれてるような呆れた感じの声が。
「いつまでくっついてるんですか、あなたは。さっさと離れてください」とな。
ドアのある方を向いていたのになぜ気づかなかったんだっ。あ、いや、ええ、それは、はい、夢中で黒犬堪能してたからだよ、うぅ。
言わなくても分かるかな? 黒犬に抱きついたまま思いっきり体を硬直させた私の図とか。そんな私からするりと抜け出た黒犬がベッドから下りて声の方へ歩み寄ってその人を見上げてる図とか、さ。
……声の発信源は恐ろしくて顔を確認できません! 今の私は黒犬の後ろ姿を見てます! 飼い主を前にしてるのに尻尾の動きが止まってます。命令や号令待ってる犬の尻尾みたいです。三角のお耳はピンと立ってます。……黒犬よ、なんの合図待ってるんだ? 普通は飼い主現れたら尻尾くらい振るだろう。それともそのお人は飼い主ではないのかい? ……黒犬よ、それなら私のもとへ戻っておいで? せめて今は私を振り向いておくれ。
声から男の人だと思うけど、きっとていうかたぶん自分の飼い犬が私に好き勝手触られてたのが気に入らなかったんだよね? そうだよね? だから私が黒犬と戯れてたのを見て、なんだこいつ的な感じに思ったんだよね?
じゃ、じゃあ、このあとどうすればいいの? 謝るとか? ……え、何に謝るのかって? ……犬にかまってたことかな……え、ばか? し、失礼なっ! あ、いや、どど、どうしよう。やばいよっ、きっと!