01
人が魔法と意思を掲げ
魔物が本能のままに牙をむき
そして、相対する者たちは本物の刃を以てこれを成す
ここは、そんな世界
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異常な状況に三半規管を狂わされる。雪崩にでも巻き込まれたようなそれは、状況が落ち着いてもしばらく続いた。それで倒れ込むことだけは何とか耐えようと、つま先に力を入れた。
努力は、一応成功したのだろう。ぐらぐらと揺れる頭を押さえながらも、なんとか立っていられている。
「なんだったんだ……?」
答えられる人間などいないのは、わかりきっていた。そして、答えを期待したわけでもない。
膝に手をつきつつ、なんとか落ち着くのを待つ。
しばらくすれば、うっすらとこみ上げるようだった吐き気も引いてきた。同じ頃に、視界もだいぶ回復する。未だ歩き回ろうという気にはなれないが、それでも、周囲を確認するには十分だ。
周囲を見回して、最初に思ったことは「広い」だった。
ブルークラスタ・オンラインのフィールドは、かなり広く作られている。と言っても、ほかのオンラインVRをプレイしたことはない。どれほど違うかと言われても、言葉に詰まるのだが。とにかく、超大型ボスを配置して、圧倒的な巨体の感覚を十分に味わえる程度には、広く作られている。
だが、今広がっている光景は、そんなものの比ではなかった。本当に視界の限界まで、つまり地平線まで、だだっ広く広がっている。
フィールドは狭いとつまらないが、広すぎてもいけない。単純に広すぎるフィールドは、飽きを作るからだ。移動のためだけに数時間かかるようなゲームを、プレイヤーは求めていない。そして、今広がっている光景は、明らかにそれどころではなかった。
違和感はほかにもあった。触覚が鮮明すぎるのだ。
一般のVRSは使用者は安全確保を考えて、感度を押さえてある。少なくとも、市販されているものは、間違いが起きないように、出力そのものが足りないように設計されているはずだ。
あえて違和感を探そうと思わなければ、何も感じはしない。つまり、逆に言えば、自覚して探せばいくらでも分かるはずなのだ。
だが、現実には。ヴァーチャルらしい感触などかけらもなく、これが現実だと伝えてくるだけだ。
「……なんだよ、これ」
いつの間にか、安定した視界。それで、自分の手を見下ろした。特別な事などない、普通の手。ただし、やたら装飾の入った煌びやかな袖が見えなければ。胸に手を当てると、堅い金属の感触。
すべてをはき出そうと、口を大きく開き息を吸って――はき出す前に、それは聞こえた。
「きゃああぁぁぁ!」
甲高い悲鳴。どこか、聞き覚えのあるもの。
そして、ふと思い出した。この場にいたのは、一人ではない――
「梨愛!」
罵声を吐くための空気は、絶叫に消費された。
声と同時に、強く足を踏み込む。
と。
自分の体が、吹き飛んだ。ぎょっとして、状況の把握に努める。理由はすぐに分かった。吹き飛んだのではない。これは、前に向かって走っているだけだ。
もう一歩踏み出すと、最初と同じようにはじけ飛ぶ。人間では、いや、生物ではあり得ない速力を生み出して、走っていた。馬鹿な、と思う自分がいる。しかし、なぜだろう、体は知っていた。これくらい、出来て当然だと。
梨愛が見えたのは、すぐだった。頭を抱えながら、地面に伏せている。その上からのしかかるように、オオカミのような獣が、襲いかかっていた。どういうわけか、何度も牙と爪を突き立てているのに、梨愛は何ともな様子で、のんきに悲鳴を上げている。
そのまま全力で駆け寄って――一瞬、迷う。
頭では分かっているのだ。あんな人ほどもある、ばかでかい獣、挑んでなんとか出来るわけがない。普通に考えるならば、すぐに立ち止まって、道具を揃えるべきだ。石なんかがあればいい。注意を引いて、あとは木の上にでも逃げる。それが正解でないとしても、このまま突き進むよりは利口なはずだ。
だが、恐怖は感じない。同時に体はそのまま進めと行っていた。
結局、選択したのは。悩むことを放棄して、そのまま突き進む方法だった。
左手が揺れる。指先が、なぜかそこにあると分かっていた剣に添えられていた。それが有効であると信じながら、大声を上げる。
「梨愛、動くなよ!」
全力で走る存在に、オオカミは今更気がつく。だが、もう遅い。
巨体の割には柔らかい横腹に、つま先をたたき込み。ぐんにゃりとした感触と、それ以上に何かがつぶれる音。内蔵の何割かがつぶれたであろう。オオカミの体が、派手に吹き飛んで宙を舞う。
次の行動も、早かった。何かを考える前に、そして蹴り終わる前に。右手はすでに、柄に添えられていた。それを抜き放つのに、意識はいらない。
一閃――行動があった事を、知ってさえいればいい。後は、何もいらない。自覚する必要すらない。結果は……
どしゃり、思い音を立てて、二つの肉塊が転がり落ちた。鮮やかなほどの断面が、一瞬だけ顔を見せて。すぐに断面は崩れて、中から内蔵と血がとばりとあふれた。
「梨愛、もう大丈夫だから」
体を丸めて怯えたままの銀髪少女に、なるべく優しく声をかける。
震えたまま、肩越しにこちらを見て。赤くした瞳からどばりと涙を溢れさせて、抱きついてきた。
「おにいちゃああぁぁぁ……こわかったよおおぉ……」
ぴぃ――と泣きわめく少女をあやしながら。彼はそっと、自分が殺したであろう(実感が全くない)オオカミもどきを見た。その体から、紫色のもやが沸き立っている。それも、獣の死と連動したように、すぐに消えたが。
彼はため息をついて、少女を見下ろした。梨愛の姿は、特徴的な重力を失ったように少し浮いた銀髪。毛先は、七色が常に入れ替わっている。どう誤魔化しようもなく、アリアの姿だ。そして、それはおそらく、自分も同様なのだろう。瀬戸恭一ではなく、ノスとなっている。
ほかにも、分かることはあった。あのオオカミもどきを包んでいたもやは、ブルークラスタ・オンラインの特徴だ。魔力操作が未熟だと体の内側に魔力を押さえきれなく、体からはみ出て見えてしまう。具体的に言うならば、敵味方関係なくレベル10までは。
もう一度、ため息をついた。認めるしかなく、誤魔化しようもない。
この世界は紛れもなく現実であり、この体も自分が作ったキャラのものであり、そして――今のところ、帰る手段はないという事だった。
●○●○●○●○
「落ち着いたか?」
「……うん」
未だ小さく鼻をすすり上げている。が、なんとか会話できる程度にはちついた。
「ここ、どこ? なに……?」
べったりと張り付いて、離れようとしてくれない。まるで、一昔前に戻ってしまったようにも見える。まあ、仕方のない事ではあった。自分だって、あんな大型の獣に襲われれば、平常心を保っている自信はなかった。
「どこって言われても、たぶんブルークラスタ・オンラインっぽい世界としか言いようがない」
言って、何度か手を振って見せた。操作パネルは、出現しない。
アリアも同じように(べったり張り付いたまま)、手を振って見せた。やはり、操作パネルは出現しなかった。真っ赤な瞳に、また涙が溢れてくる。
ノスは慌てて補足した。
「ああでも、操作パネル相当の事は、わりと出来るみたいだぞ?」
ブルークラスタ・オンラインの設定は、割と細かかった。中には、どうでもよさそうな事まで設定されている。たとえば、地図を表示するのは、魔力を扱えれば誰でも使用可能な、最も簡単な魔法だとか。
その恩恵かは分からないが。とにかく、ゲーム内で出来た事は、一通り不自由なくできそうだった。
それと、もう一つ。自分たちの強さは、使用していたキャラ基準であるという事。能力がレベル依存のブルークラスタ・オンラインでは、レベル差はまず覆せない。時の森族魔法使いという防御力最低ランクの組み合わせでも、カンストしていれば、序盤の敵では傷一つつかなかった。これは大きな武器だ。今教えると、オオカミの事を思い出してパニックを起こしそうなので、言わないが。
「ねえ……かえれるの?」
「…………」
今度は、誤魔化し方も思いつかずに、黙り込む。それが答えだった。
またぐずぐずと泣き出す。
「どうしよう……お兄ちゃん、どうしよう……」
「そうだな」
アリアをあやすのには慣れていた。だが、自分でもどうにもならないことを偽るのは、慣れていない。
少女の頭を撫でたまま、ノスは顔を向けた。遙か遠く、視界にも写らない。だが、脳内に投射された地図が、確かにそちらにあるのだと教えていた。ここが《ブルースカイ》であるならば、そこに確実にある。
プレイヤーが最初に向かう街。
「とりあえずアンスタッドに行くか」