エピローグ
くあぁ――と、大きなあくびが一つ漏れた。
全身を好き勝手に脱力して、床に横たわる。うつぶせになって思い切りだらけ、それが許される時間というのを、大いに楽しんだ。
懐かしの、と言うほど住み慣れていない我が家。当然、清潔だとも過ごしやすいとも言えない。が、あらゆる意味において、そこは安全な場所ではあった。安息が保証される場所というのは、いいものだ。冗談抜きに死にかねない戦いをした後であれば、特にそう思える。
彼の背中に、どすんと何かがのしかかってきた。
「うぶっ」
吸気をしていた肺、それが押しつぶされて声が漏れる。
その正体が何かは、確認するまでもなかった。同じようにうつぶせに、しかしやや斜めになって乗っている少女。
「どいてくれー」
「…………」
彼女からの返事は無言だった。
アリアの体重は決して重くない。と言うか、はっきり言って軽い。飛び乗られたところで、それほど負担はかからないのではないかと思えるくらいに。
だがそれも、体の力を抜いていれば、話は別だ。緩みきった体には、それなりに感じるものがある。
「おーい」
「…………」
自分の体を揺らして、上に乗る彼女の体を振ってみても、反応は同じだった。つまり、徹底した無視。
――北方から帰還して、まだ一週間も経過していない。つまりは、ノスがファタンレスと殺し合いを鮮明に思い出せる程度の時間しか、経過していなかった。
あの事件があってからというもの、アリアはノスにべったりだった。今までもあまり離れようとはしなかったが、今はそれ以上である。危険がどうのと言うよりも、やはり帰ってきたときのあの姿は、それだけ印象的だったのだろう。この世界でなければ、まず死んでいるような大けがだったのだし。
死ななきゃ安いなどという言葉があるが、この世界はまさにそれだった。手がちぎれようが足がちぎれようが、生きてさえいれば再生可能なのである。だから、ノスが大けがをして帰ってきたとしても、それは『安い』のだ。
まあ、こんな言い訳が、現代日本出身のアリアに通じるわけがないが。
「アリアさーん、そろそろお退きになって頂戴な。暑いっしょ?」
ふと、ノスは窓から外を覗く。空は雲一つない快晴だ。
ここ数日、夏もかくやという陽気が続いている。二人とも薄着とは言え、べったり密着すれば当然暑い。接触面は、あせでぐちゃぐちゃだ。非常に気持ちが悪い。
背中にいるアリアから、むっとした雰囲気が漂う。が、本人も暑いのには同意なようで、大人しくどいてくれた。
そして、汗でぐしょ濡れになったそこに、張り手をひとつ。
「いてぇ!」
ぐちょぱーん! と何だか景気がよくも汚らしい音が響いた。
好き勝手に振る舞った後、彼女は仰向けになって転がった。抵抗のつもりか、真横ではなくやや斜めになりながら。顔のすぐ横に、アリアの頭頂部が見える。表情は……髪に邪魔されて見えなかった。
「……。もうかってにどっかいっちゃやだ」
哀願するような言葉。地声が高いアリアにしては、低く作った声。恐らく、それで精一杯の怒りを表している。
かわいらしい拗ね方ではあった。だが、それがどれだけ本気で案じていたかも、同時に感じていた。
「俺が勝手にどこかへ行ったことなんてないし、帰ってこなかった事もないだろ? 今までそうだったんだから、これからもそうだ。何も変わらないさ」
少しだけ体を傾けて、ゆっくりと少女の頭を撫でた。心なしか、気持ちよさそうに体から力を抜いた気がする。
(なんだかんだ言っても、こいつはいつも待たせてるからな。もう少しくらい――)
ばしん。
音は、ノスの手が叩かれた音である。
「あつい」
酷く簡潔な、アリアの言葉。してやったりという風に、鼻息を荒くしていた。
「……ああそうだよ俺が言い出しっぺだよちくしょう。」
暑さと、あとはやるせなさに耐えられなくなって、寝返りを打った。それを応用にして、アリアも寝返りを打つ。角度が違ったので頭の位置が下がり、肩に頭部が突き刺さって地味に痛い。
「おへや、涼しくする?」
うつぶせのせいでくぐもった声を出すアリア。それに、ノスは首を横に振った。まあ、彼女からは見えないが。
「やめとこ。なんかもっと辛くなるし」
相変わらずこの部屋には、隙間が多い。冷気を作るのは簡単だったが、それを室内に止めるのは無理があった。
冷気の心地よさを味わった後、すぐに暑くなる部屋のむなしさは経験済みだ。それをもう一度味わうのは、何というか、こう、ちょっと人生の意味とか振り返りたくなる。
「じゃあ、しごと」
「今日は暑いから休業な」
「きのうも同じこと言ってた」
「昨日も暑かったからな」
言って、ぐでっと力を抜いた。アリアも同時に、さらにぐでっと力を抜いていた。
今のところ、金銭にはそう困っていない。これも、ファタンレスを倒した恩恵だ、と言っていいのだろうか。
魔の欠片を倒した後、ノスは騎士団の偉い人(ラなんとか。やはり名前は覚えていない)から金一封を貰った。これはファタンレスを倒したから、というよりも拠点に残った人を助けたらという意味なのだろう。少なくとも、表面上は。
まあ、一個人が払うには過大すぎる額だったあたり、出所は他にあるのだろうが。
冒険者が依頼もなく手配もされていないモンスターを倒し、かつ報酬を求めるのは無理があった。これにはいろいろ理由があるらしいが……まあ、ノスにとってはどうでもいい事だ。ともかく、アンスタッドではそういう風になっているので、討伐報酬は期待していなかった。貰えたのはかなり嬉しい。
事情が事情なだけあり、求めればもっと貰う事はできたのだろう。だが、その場合は、公の場に出る必要が出てくる。それはつまり、権力に関わることを意味していた。いくら金が入ろうが、そんなものに巻き込まれるのはごめんだ。辞退に決断は必要なかった。
(それに、金になりそうなネタなんて、それこそ山ほどあるしな)
思い出すと、口元が自然とにやける。
ファタンレスを倒したこと自体の報酬はない。だが、素材は全部ノスとアリアのものになった。
乱鏡アルストの一撃を防ぐ爪。魔力体として大きな期待の出来る角。体毛だって、並の攻撃では傷一つ付かない優秀な防具だ。ファタンレスが死んだからか、本来の能力ほどではなくなっていたが。それでも十分だろう。
それが――倒したのが一体だから素材一つなどと言うケチ臭い事は言わない。本当に比喩でもなんでもなく、山のような量が、個別魔力領域に収められているのだ。それこそ、ノスとアリアの二人がかりで素材を回収するのに(途中、どこでかぎつけたか、冒険者が素材泥棒に来ていた。当然全て追い返したが)、不眠不休でまる二日かかった。
少量のサンプルは、すでに研究所に配っている。各所でどう利用できるか、連日大騒ぎだとか。
上手い具合に利用方法が見つかれば、まさに大もうけである。……まあ、成果が出るのは大分先だろう。それまでは、夢を見ようと思っていた。
そんなわけで、今は必死にならずとも生活くらいはできる。
が……このままでは腐ってしまいそうなのも、実だった。特にこの暑さが続けばいつまでもこうしているのか、という不安はある。主に自分に対して。やる時はやる自信はあったが、やらないときはだらけ続ける自信も、またあった。
「決めた!」
「? なにを?」
転がったまま、声を上げる。アリアもうつぶせの顔を捻って(やはり位置が低いので見えないが)答える。
ノスは寝返りを打った……少女がいる方に。そして、体を少女の上に乗せる。
「むぎー! むぎー!!」
「買い物に行くぞ!」
床と胸板に挟まれて、少女が悲鳴を上げる。それを十分に堪能して後、ノスは立ち上がった。頭をかかえてふらふらとしていた彼女も、同じように立ち上がり。そして、両手をあげてばしばしと叩いてきた。
「あほー! ばかー! まぬけー!」
ぺちぺちぺちぺち! という音を鳴らしながらの攻撃は、少女相応の威力。はっきり言って、ダメージなどない。魔力を使えば、少しへこませるくらい容易いだろうに。
はーはーと息を荒らげながら、小さな拳を握る少女。頬には、木目の後が付いていた。
「で、なにするの?」
ぷくー、と頬を膨らませてそっぽを向きながら、アリア。律儀である。
「だから買い物だよ。ほら、いろいろと必要だろう? 家具とか調理道具とか、後は服も――とにかく色々さ」
そう囁くと、少女は目をぱっと光らせた。女の子の多分に漏れず、アリアも買い物が好きだった。
「はやく! はやくいこ!」
ぐいぐいと、引っ張られながら家を出る。こんな事が前もあった……思い出そうとして、あまり意味がないことだと気がついた。こんな事は、いつでもいくらでもある。ただの日常であり、それ以上でも以下でもない。
結局――
新しい家を探す案は破棄された。その必要がなくなった、と言ってもいい。
ファタンレスは――と言うか魔の欠片は――言わば魔物の王である。ファタンレスが死んだと言う事はつまり、国家の崩壊を意味した。存在が特殊すぎる魔の欠片、その後任が簡単に出てくる訳がない。
人は魔の欠片の存在によって、少しずつ計るように、そして相手を刺激しないように領域を広げるしかなかった。だが、魔の欠片は討たれた。気を遣うべき相手は、もう存在しない。つまり、ファタンレスが支配していた土地、その全てが空白地となったのだ。
開かれた新たなフロンティア。
それこそ、一国に等しい領域が生まれた。
まだまだ魔物は多かった。特に、ファタンレスの存在を感じても恐れない、強い魔物ばかりが残っている。
魔の欠片がいなくなったと言っても、やはり冒険は出来ないだろう。内部に残っている魔物がどれほど強いか、予想もできないのだから。それらをものともしない見込みのある、ノスの存在がなければ。
ノスとアリアの護衛の元、探索隊は一気に中央まで潜り込む。計画の中心人物となっていれば、入ってくる依頼料は莫大だ。
そう。
喜ばしい事ばかりではない。だが、とりあえず金には困らない。あとは、まあ。
冒険というのは、楽しいのだ。現代日本では知らなかったこと。危険や苦労まで含めて、全て。冒険者が、冒険者をし続けている理由が分かった気がした。同時に、ただ無法者と蔑まれるのではなく、冒険者と呼ばれる意味が。
「よっし行くぞー! まず買うのは……」
「お洋服!」
「ですよねー」
腕に纏わり付いてくるアリアをぶんぶん振り回しながら。
目指す新天地の為に、準備を整えに向かっていった。




