01
一年半前・夏
『でねえ、梨愛にはもうちょっと積極的になってもらいたいのよ』
「はあ、そうっすね」
自宅にかかってきた電話は、母の妹のものだった。
一応、出だしは母宛のものではあった。だが、叔母にはそんなことは、あまり重要ではなかったようだ。とにかくしゃべりたくて仕方がないらしく、無理矢理切れば後が面倒なので、相手するのを余儀なくされていた。
受話器の近くでいすにもたれかかり、ついでにアイスなど食べながら、時折適当に相づちを打つ。
夏休みに入ってすぐ、まったりと長期休暇を堪能していたというのに。しょっぱなから、とんだ罠にかかってしまったものだ。
実のない話(そして興味もない話)を聞き続けるというのは、ちょっとした拷問だ。こんな事を好んでする母が、そして女が、たまに自分とは別の生き物ではないかと思えてくる。
『でも、こればっかりは私がしゃしゃり出てなんとかできる事でもないし。どうしたものかしら?』
「さあ、どうっすかね」
『そうよねえ。恭くんだって、こんな事言われても困るわよねえ』
受話器の向こうで、叔母の肉がたぷんと震えるのを幻視した。恰幅のいい叔母は、問いかける時、ぶるんと体を震わせながらほおに手を置くのが癖だ。なぜこんな事を知っているかと言うと、母とそっくりの癖だったからである。
恭一は先ほどからずっと「そうっすね」と「どうっすかね」しか言っていない。それでも、叔母は気にする様子はなかった。懐が広いのか、それとも気づいていないのか――あるいは、最初からどうでもいいのか。
『だから、恭ちゃんがちょっと話してみてくれない?』
「そ――。え、俺が?」
と、ここで初めて、定型文以外の回答をした。
空になったアイスのパックに、木べらを投げ込む。受話器を持ち直して、肘掛けに体重を預けた。
「つっても、年頃の女の子といきなり話せって言われても、どうすりゃいいかなんて分からないんすけど」
『そんなことないわよお! 恭ちゃんいい男だし。そうだ、それがいいわね。じゃあ今度、お願いね』
「いやちょっと待って――」
ささやかな抵抗は試みてみたものの、それは全くの無駄だった。年齢差は大きく、また叔母という立場も偉大である。学生には、年功序列の壁は大きすぎた。
『じゃあ、姉さんにも話しておくから。ウチの子をよろしくね』
まくし立てるようにして、通話は切断される。
残された恭一は、電子音の響く受話器を片手に、ひっそりとため息をつくしかなかった。
――それから三日。
叔母の車に乗って、問題の少女はやってきた。
玄関口で、小さな背丈をさらに猫背にして小さくしている。
「……こんにちわ」
彼女の声までもが、小さな背丈に劣らぬものだった。今にも消え入りそうな、儚い口調。そうである事を望んでいるようにも見える。
瀬亜梨愛。小学五年生。知っていることと言えば、それくらいだ。どこの小学校に通っているかすら、恭一は知らなかった。いや、聞いたことがあるかもしれないが、覚えていない。年に数度の、親戚の集まりで姿を見るだけの相手など、そんなものだ。あとは、ちょっとした印象。いつも人が集まるときは、どこかに隠れるか両親の後ろにいるか、それも無理なら部屋の隅に逃げるか。
改めて、まじまじと少女を見る。見直した瀬亜梨愛は、なかなかの美少女だと思えた。
邪魔にならない程度に伸びている黒髪。ほっそりとした手足を包む大きめの服は、いかにも文学少女と言った風体だ。顔もかなり整っている。大きめの瞳に、小さめだがくっきりとしている鼻、つややかな唇と、アイドルにいても違和感がない気がする。
気がする、になってしまうのは、いまいち自信が持てないからだ。梨愛は俯き加減に、時折涙目で見上げてくる――視線が交わると、とたんに目をそらしながら。
容貌がどうした以前に、やたら加虐心を刺激される。
邪な思考は、すぐに破棄した。少しでも察知されようものならば――母と叔母によって処刑される――その日が命日だ。
「ええと……ひさしぶり」
腰をかがめて、視線を合わせながら言う。だが、梨愛は怯え、隠れてしまった。
(まあ、こんなもんだろうな)
思い浮かんだのは、警戒心の強い子犬である。ちょうど先日、友人の家で遊んだ犬が、こんな感じだった。
「こら梨愛! お兄ちゃんが挨拶してるんだから隠れないの!」
「いえ、大丈夫っすよ」
怒られ、びくんと肩をすくめた梨愛に、助け船を出す。
「そう? じゃあちょっとお願いで。おばさんはお母さんと話してるから」
オホホホホ……笑いながら、叔母は脇を抜けてダイニングへと向かっていった。
残された二人、会話はない。
彼女から話しかけてくれる事を期待しない訳ではなかったが、無理だと悟る。また体制を低くして、少女にゆっくりと話しかけた。
「じゃあとりあえず、俺の部屋に行こうか。たいしたものはないけどさ」
びくんと動揺し、半歩後ずさる。周囲をちらちらと伺いながら、たまにこちらを観察していた。
急がせたりはしない。笑顔も絶やさない。そして、相手が落ち着くのを待つ。気の弱い動物に対処する方法が、同じように効力を発揮するかはわからなかったが……
「うん」
しばらくして落ち着いた少女は、小さく肯定した。
ほっと安心して、部屋に案内する。普段汚い部屋は、今日は客が来ると言うことで(母から言われて強制的に)掃除した。広くも狭くもなく、ものも少ない。
「どこでも好きに座ってて。今、ジュースとお菓子を持ってくるから」
一人残していく事に、不安がない訳ではなかったが。一番見られて問題なエロ関連は、すでに隠してある(大半はこれまた母に処分された)。
ダイニングでは、母と叔母がすでに世間話をしていた。近くまで来た恭一に、気がつくそぶりもない。親戚の集まりでは、よく見る光景だ。脇を抜けて、キッチンへ。
準備に時間はかからなかった。予め用意してあった菓子類に、あとは冷たいジュースを用意するだけ。
お盆を持って部屋に戻り、足でドアを開けて。目に入った光景は、少しばかり予想外のものだった。
部屋にあるリクライニングチェア――を、ごてごてと装飾したような椅子。その上で、梨愛が寛いでいた。姿を見られた梨愛は、はねるように椅子から降りて、別の簡素な椅子へと座り直した。羞恥心で、顔を真っ赤にしながら。
正面に座って(まあ、こちらに視線を向けてはくれないが)、梨愛に話しかける。
「テレビとかよく見るの?」
「あん、まり」
「じゃあ、本とか漫画なら?」
「本なら、少し……」
他愛のない、というにも語弊がある気がする会話。なんとなく自分が、カウンセラーになった気がした。
会話をしていても、彼女が恭一に慣れる事はなかった。と言うよりも、常に上の空だった。水滴のついたコップを両手で持ちながら、ちらちらと過剰装飾椅子を見ている。明らかに、意識はそちらに向いていた。
「あれが気になる?」
椅子をさして、問うてみる。梨愛は一瞬迷ったが、やがてゆっくりと首肯した。
反応を見て、恭一はにやりと笑った。別に、彼女についてどう思ったとかではない。自分の趣味分野を語れるとなれば、少しにやけもする。
「あの椅子はVRシミュレーター、作られた現実に『潜れる』機械さ」
シミュレーターを向いた少女の瞳が輝いたのを、恭一は確かに見た。そして、小さく頷いた。気持ちはとてもよく分かる。自分だって、当時そうだった。
「気取って言うとあれだけど、まあ、ゲーム機だよ」
とても、それだけではない、という口調で言う。梨愛も、言葉を信じていなかった。続きを待っている。
恭一は立ち上がった。梨愛も後をついてくる。シミュレーターに電源を入れて、稼働状態にしてみせた。今まで伏せがちだった少女の瞳が、大きく見開かれた。少年があこがれの人を見るように輝いている。
「このヘッドギアを落として、頭にかぶせる。ここの金属片で、脳波のやりとりをするんだ。視覚情報を直接送るから、ディスプレイの類いはなし。昔はついてたみいだけどね」
自慢げに――実際、自慢しながら一つ一つ丁寧に説明する。
つい先日、五年近く使っていたシミュレーターにガタがきて、買い換えたばかり。まだ幾度も使っていない、最新式だ。旧式とは桁違いの感度に感嘆の声を漏らしたのは、記憶に新しい。
「法規定で通信波の量はいくつまでって決まってるんだ――具体的な数値はわからないけど――強すぎると悪影響があるからってね。まあ、五感を情報で代用しようって言うんだから、当たり前だけど。だから、そういう意味で言うと、現実に一歩劣るって言うのは不満だな」
ふんふんんと、真剣な顔で頷く梨愛。こんな風に聞いてもらえると、さらに気分が良くなった。
だから、恭一はにやりと笑って、聞いてみた。
「ちょっと使ってみる?」
ぱぁ――と、今までしおれかけていた少女の顔が、一瞬で花開く。
「うん!」
今までの表情が嘘のようににこにこ笑いながら、言われるより早く座った。今か今かと待ちきれない様子で、うずうずしていた。
シミュレーターは恭一用に調整してある。つまり、小学生が使うには、サイズがだいぶ大きかった。少々苦しくはあるが、なんとか誤魔化して、ヘッドギアを被せた。まだ起動していないのだが、うれしそうな声が少女から上がる。
ヴン――起動音がするのと同時に、梨愛が脱力した。感覚をシミュレーターに持って行かれるため、絶対に起きる現象。と言っても、五感がすべて奪われているわけではない。悪戯などすれば、一発でばれてしまう。
備え付けのマイクを手にとって、それに声をかける。
「どう? おもしろいでしょ」
『え!?』
梨愛そのままの声が返ってきたのは、シミュレーター横のスピーカーから。現実にある少女の唇は、僅かも動いていない。完全に脱力したリラックス状態を維持している。
直接声をかけても聞こえるし、本人の口から返事も返ってくる。だが、それでは興ざめというものだ。制作者の粋な計らいである。
通信できる事を確認して、現在の設定を見てみた。小型液晶に映っている文字は『草原』。これを『SF・宇宙』に切り替える。
『わあ!』
驚くような声が、スピーカーから上がった。感嘆の声は、それから何度も続く。
「幻想的なのも悪くないけどさ、こういう生身じゃ絶対に味わえない事っていうのも、醍醐味の一つだよ」
『すごい……本当に、すごい』
――ヴァーチャルリアリティ・シュミレーター
そのサイエンスフィクションにしかなかった技術が、いつ現実化したのか、恭一は知らない。一般的に流通し始めたのは、およそ十年前であり、当時はとてつもなく騒がれたのを、その熱気と共に覚えている。なにより、彼も革新的技術の熱気に当てられた一人だったのだから。
VRSは、かつてパーソナルコンピューターがそうであったように、瞬く間に広まった。いや、広まる速度はそれ以上だった。なにせ、人体に影響する機械だ――完成度が、最初から桁違いだったのだ。
あらゆる事にVRSは利用される。そこにゲーム業界が割って入るのは当然であり。完全体感ゲームに――自分が本当になりたい自分になれる事に――少年少女が熱狂するのも、また必然だった。
「ねえ、次はゲームをしてみない?」
『ゲーム?』
「そそ。俺が今はまってるゲームなんだけどさ」
言ってしまえば、それはただの布教活動だった。ファン心理からきたものだ。
どちらにしろ、ほかに選択肢があったわけではない。初期から入っているVR体験ソフトなどたかがしれているし、ほかに手頃なゲームは入っていない。
かくして、梨愛は国内最大規模を誇るVRMMOゲーム《ブルークラスタ・オンライン》のチュートリアルをプレイする事となり。
たっぷり二時間、母たちの話が終わるまでプレイし続けて、その日は終わることとなった。帰り際に、一つの約束をして。
「ああ叔母さん? 俺っす俺俺。え? なんで詐欺なんすか、恭一っすよ。……分かってるからやめてくださいよ。んで、今日ちょっと話があって……あ、そうっす。先日梨愛が来たときの事っす。やましい事じゃないっすから。この前の時、ちょっとVRSやらせてあげたんすけど……ああいえ、別にかまわないっすから。俺も面白かったっすし。んで、梨愛がVRSにかなり興味持ったんですよ……いやいや、そんな事言わないで。……またまたぁ。俺、母さんから聞いてるんすからね、叔母さん若い頃は梨愛なんかと比べものにならないくらいハジけてたし、遊びほうけてたって。それに比べればかわいいもんでしょ? ゲームだって言っても、そんな変なものじゃないですよ。俺だってプレイしてるんですから。それにVRMMOなら、対人関係の訓練にもなりますよ。失敗したっていいんす。どうせ身元なんて分からないっすし、ゲームなんすから。だめならやめりゃいいんすよ。そう……そうそう! じゃあ……分かってますって。ちゃんと責任もって面倒みますよ。大丈夫、任せてくださいっす! え……え……あ、はい。そうっすね……はい……はい、どうっすかね……ええ……そうっすね…………」