02
ただの一足。それでノスは宙を舞っていた。
体が空中に投げ出され、上下感覚が一瞬にして失われる。だが、地面を見失うことはない。敵を見失うことも。掴んでいるのは、それだけではなかった。背後にある城の塔(今は足下だろうか?)の形状から、遠く空を飛ぶ鳥まで。感覚はどこまでもシャープになっていく。一定範囲内の何もかもが、意識の内側に治められている。
軽くはねてみた。それだけで、塔の天辺近くまで飛んでいる。それですら、ファタンレスの腰にも届いていなかったが。
(でかいな……)
砦の壁面の足をついて、思う。ファタンレスの設定身長は四十メートルほどだった。これは、簡単な目算でも七十メートルは超えている。
もう一度、今度は強く足を伸ばした。景色が急激に入れ替わり、それ以上に自分の位置が更新されていく。冗談じみた跳躍力は、軽く五十メートルを超えて、ファタンレスを見下ろす位置まで飛んでいた。
ノスは剣を構えながら、化け物を見下ろす。それと同じように、ファタンレスもノスを見上げていた。巨大な眼でしっかりと。
(ファタンレス……ブルークラスタ・オンラインの中盤ボス。能力はそこそこ高い方)
ぽつぽつと、体内の魔力を洗練させながら、読み上げる。当たり前の事を繰り返すように。
(厄介な能力とか面倒な魔法とか、そういうものは一切ない。その代わりに、奴に配られた札は圧倒的な身体能力。単純に防御力が高く、攻撃力も高い。あの巨体の攻撃範囲でやられたら、洒落にならなかったな)
懐かしみながら、思う。ゲーム内では幾度も吹き飛ばされていた。今やられれば……考えたくもない。しかも今度は、倍する射程距離なのだ。
だが、
(ボスだなんだって言っても、所詮は中盤にそこそこ厄介な、って程度だ。もし――本当にその程度の能力なら)
ノスに伸ばされる手。それを軽く蹴って、回避する。同時に加速。下方に、つまりはファタンレスがいる方に、思い切り踏み込んだ。
(弱点は頭部! ゲーム内の能力そのままなら、これで片が付く!)
呼吸を止める。世界が停止する。視界が一気に狭まって、標的しか見えなくなった。だが、それで十分だ。
とにかく力一杯腰を回転させて、渾身の一撃をファタンレスに見舞う!
ごぅん!
周囲に、恐ろしく重たい音が響き渡る。鉄柱と鉄柱を重ね合わせた上で捻り千切ったような、恐ろしく耳に触る音。鼓膜を破るような音波と、それ以上に衝撃が、空気を伝播して伝わってくる。そして、腕に残る肩までしびれるような感触と……とっさに首を捻り差し出された角、それに食い込み進んでいない刃。
防御された――! 自覚するより早く、ノスは角を蹴っていた。またしても重い感触だが、今度はダメージを与えるのが目的ではない。あっさりと体は吹き飛び、同時に剣も堅い角の隙間から引き抜かれる。
「ブモ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛!」
恐ろしく大きな絶叫。今度飛び出た腕は、差し出されるなどと言った生やさしいものではない。明確な殺意を持って、ノスに向けて振るわれている。
迫り来る鋭い爪。その尖端が正確に、こちらの胴体を狙っていた。
直撃すればまずい――勘に頼るまでもなく分かる。足を曲げて、即座にスキルを発動させた。
空歩き。戦士系全般が持つ、宙を飛ぶ技術である。空歩きと言っても、実態は魔力を炸裂させて無理矢理跳ねているだけであり、名前ほど大層なスキルでもない。ついでに言えば、序盤で多用すると魔力切れを起こす、危険なスキルでもある。ブルークラスタ・オンラインには空を飛ぶ敵や、このように巨体の敵が多く存在する。そのために、対空攻撃のない職は、空を飛ぶ技術が必ず備わっていた。
場所を入れ替えるが、その程度で巨大な爪の刃から逃げ切る事は不可能だ。剣を寝かせ、肩に当てる。腕を畳んで剣を内側から押し出すように固定し、そして歯を思い切り食いしばって備えた。
そして、一瞬意識が飛ぶ。
いや、意識自体はとても鮮明に存在した。つまりは、それだけの衝撃が、剣を固定した肩から伝わってきたと言うことだ。接触したのは、爪と剣、どちらも刃のない腹同士。それでも、ノスの体は軽々と吹き飛ばされる。
速度的には、自分で跳躍した時よりも遅いのだろう。しかし、自分の意思で飛んだのではないそれは、遙かに早く吹き飛ばされる錯覚を覚えた。とりわけ視界が全く追いつかない。先ほどは僅かにでもあった視界、それが完全に閉ざされていた。
とにかく、感覚に任せて姿勢を制御する。叩き付けられた勢いで、体がきりもみしていた。必死になって足を伸ばし、魔力を噴射する。どこに飛ばされるのであろうと、着地すらままならないのはまずい。
なんとな地面に着地して、額を拭った。びっしりと浮き出ていた脂汗。それらと一緒に、恐怖心を振り払う。
(あぶねぇ……)
背筋が凍り付くような、味わったことのない感覚。当たり前だ。あんなものをこの体以外で感じたことがあるならば、その時に死んでいる。
呼吸を一つ、それで落ち着きを取り戻し、ファタンレスを見た。化け物は、ノスを一瞥だけすると前に――つまり拠点のある方へと足を進めようとする。
アリアの構築した結界は、そう簡単に破れない自信というのはあった。だが、攻撃ができなければ、いつかは必ず破られる。ノスが今すべきこと、それはまず、ファタンレスをあの場から引き離すことだった。
「《紫旭・重なる連環の逆流》」
手のひらから生まれる、二色混合の魔力の砲撃。大した威力のある魔法ではない。が、これには他の魔法には存在しない利点があった。ある程度、魔法の方向をねじ曲げられる、という点だ。
魔力のビームは、顔の脇を通り過ぎる直前で、顔面の方向へと急転換、直撃して大爆発を起こした。
上体が傾いたのは、本当に僅かだった。少しだけ仰け反るようにして、踏みとどまる。煙が晴れ、馬面を確認して、ノスは舌打ちした。予想していた事ではあったが、顔には傷一つない。ダメージを負った様子すら感じられなかった。ただし――ノスが手を出したのはこれで二度目だ。怒りだけはこれでもかと伝わってくる。
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!」
絶叫と同時に、こちらに走り始めたファタンレス。とりあえず、気を引くことには成功した。剣を構えながら、敵の足で二歩分の距離。その中で考える。
(分かったことは三つ。こいつはゲーム内のそれより、どう考えても強い。行動パターンなんてのも信用ならない。まあ、モンスターの情報がほぼ壊滅してたから、予想できた事じゃあるけどな)
最後の一つ。それは確認という程度の事でしかなかったが。
このボスモンスターを逃がせば、確実にどこかの街が壊滅する。そうでなくても、拠点は破壊し尽くされ、誰も残らないだろう。ファタンレスは、ここで仕留めなければならないという事だった。
二歩目の踏み込み――圧迫感から、自分が射程圏内に収まったのを感じる。
ファタンレスの口が開いた。それは、言葉のつもりだったのかもしれないし、ただの絶叫だったのかもしれない。ただ一つ。その声が届く前に、五指の尖端に付いた鋭利な爪が、地面を深く抉っていた。
着弾に合わせて、再びの跳躍。大きく飛んで腕に乗り、跳ね飛ぶ。
地面は、掘り返されたという程度では済まなかった。大きな岩盤がひっくりかえされ、大地が山のように隆起する。激震が周囲を支配し、もし地面にいたら、立っていることもままならなかっただろう。
「モンスターについて……殆ど違ってはいるけど、変わらない事もある」
わざと口に出して、確認するように言った。振り切られた腕を足場にして、再度飛ぶ。その後も、とにかく連続して宙を蹴り、攪乱した。パワーで勝てないことなどわかりきっている。ならば、勝負すべきは速度だ。元々魔法速剣士とは、速度に優れた職である。
「例えば、恐ろしく基本的な事。魔物は半魔力生物と言ってもいい存在だと言うこととか。魔力の色――属性も変わらなかった」
速度に優れているとは言え、それも圧倒的という訳ではない。とにかく、ファタンレスは大きすぎた。一見鈍重に見える腕の振りですら、尖端、直線的に見れば十分ノスを凌駕していた。ただ振り回されるだけでも、脅威になる。それが、本能と勘によって、最適解に近い攻撃と体の動かし方をしてくる。
下手に踏み込めば、即挽肉にされる。
生涯で感じたどんなものよりも明確な、死の予感。しかし、ノスの足は決して退こうとしなかった。
「例えば、ボス――魔の欠片の定義。二種類以上の魔力属性を持つモンスターが、魔の欠片という存在になった」
これは実際、かなり厄介な話だ。
この世界には、どうやら分析系の魔法は存在しない様子だった。まあ、ノスたちが使っても魔力属性くらいしか分からなかったのだが。属性など総当たりで当ててしまえば、当たりを引くのはすぐだ。八種類しかないのだから。
だが、これが対魔の欠片となると話は違ってくる。弱点を有効に働かせるには、弱点となる属性を同時に当てなければならない。これを知らないと、魔の欠片は魔力による弱点なしに見えるだろう。
もっとも簡単な対抗手段は、合成魔法――つまり、二属性異常の魔力を混合した魔法、もしくはスキルである。例えば、アリアが今使った結界魔法、あれは四属性の結界魔法である。単純な威力で抜くのは非常に難しい。攻略するのであれば、四属性全ての弱点になる攻撃を仕掛けるのが、もっとも簡単だ。
ファタンレスの属性数は、三つ。あの巨体相手では同時に当てるのすら難しいだろう。
つまり――
「俺とアリアしか、あれを倒せる奴はいない!」
ファタンレスへと吠えながら、空中での体の制動に集中した。豪腕が唸り、その音すら風圧として物理的な力を作る。爪の隙間をくぐり抜けながら、同時に吹き飛ばされないよう、魔力でブレーキを効かせた。
爪が通過し、風が収まる――その前に、ノスは疾駆していた。唸る暴風すらも足場として、敵を見据える。
乱反響する剣。透明な、今は青く輝く刀身に手を当てて、ノスは唱えた。
「《告げる》」
祝詞に、剣が呼応するように輝きを増した。無軌道にではない。水晶の檻の形に収束していき、集められた分だけ力を増す。それを幾度も繰り返し、乱鏡アルストは光を発する剣ではなく、正しく光の剣へと変貌した。剣に光が宿ったのではない、光そのものが剣になる。
「《折り重ね・レッド、ブラック、ホワイト》」
高位魔法、エンチャントの重ねがけ。青かった光の剣は、属性に浸食され、赤黒白の斑模様へと変化した。これで、ファタンレスの黒緑黄属性へ、弱点ダメージを期待できるようになった。
魔力の消費を度外視して、望める最高の速度で駆ける。腕を通過し、肩を抜けて、背面。体のラインをなぞるようにして抜け、接敵した。狙うは後頭部の下、首筋、脊髄!
深い体毛に目もくれず、突きを放った。
先ほどのそれとは比べものにならない。それこそ、あらゆる面で必殺を狙える一撃。それが照準通り首を捉える瞬間だった。ファタンレスの馬面。表情など理解できるはずのないそれが、にやりと笑った気がした。
剣が接触する。そこから伝わってきたのは、肉を貫く生々しい感触ではない。ひたすらに重く堅く、同時に強烈な反発力。
狙いを貫いてなどいない。その手前で、剣は押しとどめられていた。剣の尖端、接触面。そこから大きく波紋が生まれているのを見えた。うっすらとしていて見えづらいが、それは確かに青赤緑の三色。
それを確認した瞬間、ノスは思わず悲鳴を上げそうになった。
(魔法障壁!)
絶叫を喉で押しつぶす。叫びたくとも、そのために消費する酸素など存在しない。全ては跳ね飛ぶために――それがどこでもいい。とにかく、ここでない場所へ――使用しなければならない。
風切り音、などと言うのは生やさしい。暴力を伴う音、もしくは風の戦咆。
空圧に押しつぶされながらも、回避できた幸運に感謝する。それと同時に、ファタンレスの脇当たりまで落ちたノスが、彼を見上げた。体は浮ついているようで、腰はしっかり残っている。追撃が来る。
「んなっ……!」
新たな酸素を手に入れるためと同時に、声を漏らした。足を思い切り伸ばし、空を駆け上がる。先ほどはいい加減に振られていた腕、それが折り返される。今度はしっかりとノスの位置を確認してだ。
驚異的に発展した爪での引っ掻き攻撃、今度は爪と爪の隙間を閉じられている。抜けるだけの隙間が見つけられない。いや、抜けるだけならできるのだろう。その後風に体を飲み込まれて、爪に押しつぶされる事を考えなければ、だが。
避けきれない! 認識して、剣を構える。柄と手の甲、二点で剣をしっかり支えた。上半身を固める、が、今度は威力に逆らわない。圧倒的な力そのものを受け流すようにして、宙に浮いた状態を維持。接触時、押しつぶされそうな感覚に耐えながら、きっちり攻撃方向に吹き飛ばされた。
「バカな!」
まっすぐ後方に飛び、魔力噴射を繰り返して制止しながらの言葉。
あり得ない。そして、洒落にならない。二つの感覚を押えながら、またの追撃態勢を取るファタンレスを睨む。
「魔法障壁なんぞ張りやがって! 肉体型のモンスターがやるこっちゃないぞ!」
ファタンレスが小さく踏み込む。腰が唸り、やってきたのは右のストレートに近い爪での突きだった。重ねられた爪には、当然利点がある。爪と爪の間に、逃げる隙間がないこと、そして威力の一点集中、つまりは攻撃力の上昇だ。そして、欠点もある。単純に、避けやすい。
ロケットのように加速し、右ストレートの上を通過した。すれ違いざま、腕を切りつけようと剣を走らせる。が、やはり肉に接触する手前で、圧倒的な硬度を持つ波紋に押しとどめられた。ぎりぎりという、酷く不快な音。ライン状に生まれ続ける波紋。やはり、障壁は破れない。
攻撃が通じない。それを確認して、ノスはそのまま走り抜けた。馬面を通過し、脇へと抜ける。そのまま背後へ回り込んだ。
(本当に厄介な!)
多少の余裕を得て、ノスは集中しながら絶叫した。
元のファタンレスは、当然魔法障壁など張れなかった。それどころか、こちらに感づかれず魔法を行使する、と言うのも例がない。どこまでも規格外すぎる。
想定外の自体に乱された息を整える。冷静でなければ、魔法は行使できない。とにかく、作った僅かな余裕で魔法を発動しなければ。それを達成しなければ、いつまでたっても、多少のダメージすら与えられない。
ファタンレスが取った対策は、至って単純だった。同時に、セオリーでもある。自分の弱点属性を付いた魔法攻撃、それが来るのはわかりきっている。だから、敵の魔法攻撃に強い障壁を張った。それだけだ。有効打を与えるのに最低二回の攻撃が必要だという意味において、よく使用されていた。実際、非常によく見たと言っていい。
(こんなもん、魔法使いの戦術だけどな!)
多重属性の防御魔法というのは、それだけで高等技術だ。純粋な前衛職で、それが可能な職というのは少ない。アイテムの使用を考えず、単独で攻略可能な存在と言うのは、もっと少ないのだが。ノスの魔法速剣士という職は、その一つだった。
複数の職をマスターしなければ転職できない、言わば複合三次職。確かにファタンレスの力は強大である。だが、魔法速剣士の力は、決してそれに劣るものではない。
「《パープル・ブルー・ブラック・天竺奇奏》!」
青赤緑、それぞれの弱点属性を指定した攻撃魔法だ。
三色で作られたオーロラのようなものが展開、一点が突き出すと、ファタンレスへと向かった。回避を試みるファタンレスだったが、遅い。至近距離からの攻撃魔法など、そうそう避けられるものではない。
魔法が直撃し、ガラスを引っかくような音が鳴り響く。命中したところで、ファタンレスにダメージはない。馬面がにやける――その時だ。障壁がひび割れて、次々と破片となりこぼれ落ちていく。
天竺奇奏は威力こそたいしたことのない魔法だ。だが、対防御魔法攻略能力は突出している。高レベル帯の対魔法使い型モンスターに対して、もっとも使用頻度が高い魔法の一つ。攻撃には耐えられても、これは耐えられない。
ファタンレスの様子に、始めて動揺が見えた。崩れた障壁に、目を白黒させている。
この上ない好機。ここで攻めないならば、攻める場所などありはしない。
最速の踏み込み、最高の剣捌き、理想的な一撃。三色光の揺らめく剣が、今度こそ巨獣の右目を捉えた!
あっさり過ぎるほどの柔らかい、そして生々しい眼球の感触。次に感じたのは堅く、同時に鈍らに絡みつく骨と肉のそれ。歯を食いしばり、剣を固定し、顔の右側を飛ぶように通過する。
「オ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!」
大きな口を限界まで広げ、咆吼のように響き渡る悲鳴。鋭利な切り口から、ごぼりと大量の体液が零れ出た。紅のそれがびちゃびちゃと音を立てて、半身の体毛を汚していく。だが、それだけ。致命的ではない。
(浅い!)
間違いなく最高の一撃だった。だが、それですら足りない。
ノスがファタンレスに劣る部分というのは、実のところ殆どない。いや、ほぼ全てで勝っていると言ってもいいだろう。だが、巨体からくるパワーと射程距離と、なにより生命力。それらは差を補って有り余る。巨体の割に小器用なのも厄介だった。
思考する暇などない。何かを考えつくよりも早く、足を進行方向に突き出し、魔力噴射。ブレーキと同時に、推力として利用する。剣は、もう一度鋭く構えた。必ずこれで決める。
が、考えるよりも早く動いたのは、ファタンレスも同じだった。顔の右側に巻き付けるようにして、左手が飛ぶ。押える為ではない、爪先は確実に、ノスを狙っていた。
避ける余裕がない。そのためのものは、攻撃のために使ってしまった。
歯がみしながら、体を限界まで捻る。とにかく角度を浅くして、爪との接触面を減らす。何とか剣で受け流し、この際吹き飛ばされても止むなしだ。
だが、それは失敗だった。爪が直前まで迫って、それに気がつく。
(風がない!?)
ものが動けば、空気を押しのける。それが大きければ大きいほど、早ければ早いほど強烈に。ファタンレスほどともなれば、ただ動くだけで人間など、木っ端のように吹き飛ぶだろう。ノスは今までそれを利用して、回避を続けていた。ダメージは残るが、最小限で済む。
それがなくなった、という事はつまり。今までの回避方法では躱せない、という事だ。
爪のもっとも鋭利な場所が、まっすぐノスを捕まえた。腹のど真ん中に、まるで導かれるように走る。
剣で受けられたのは、はっきり言ってしまえば偶然だった。と言っても、それも所詮、腹に爪が食い込まないよう、間に割り込ませたという程度のものだ。剣ごしに伝わった衝撃は、とても多少なりとも和らげられたとは思えない。それほどの威力。体は接触点を中心に折りたたまれ、ぐじゃりと音がする。勢い余った頭が、爪に叩き付けられた。威力は容易く背後まで突き抜けて、体内を食らいつくしてもまだ足りない。胸から下、腰から上がすっぽりとなくなった感覚。視界が消え去るそれがどういったものかも分からない。ただ、あるがままに、全ての消失を感じる……
次に感じることができたのは、急激にぶれる視界を感じてだった。
ぐらぐらと揺れる頭。何も考えられない。とにかく、無意味であっても手足を動かす。思考はできずとも、一つのことだけは脳内に残っていた。戦いはまだ、終わっていない。
下半身の感覚は全くなかった。右手にある堅いものは、恐らく剣の柄。あの状態でよく手放さなかったものだ。そして、左手。手を閉じようとすると、じゃりりと音がする。砂をかむ感触。
(まずい……)
ここはもう地面だ。直撃を食らって、墜落した。
必要な事はいくらでもある。ファタンレスへの対応。現状の把握。そして、自己の判別。さしあたって一番簡単な、そして重要な事を確認する。が、それを知ったところで、良好とは全く思えなかったが。
(地面に墜落したってのに、自覚がまったくなかった)
七十メートルほどの高さから、威力を全く減衰せずに落ちた。それなのに、ダメージに対する認識が全くない。明らかに危険な状態だ。
「ぐうぅ」
無理矢理に体を動かす。うめき声は、痛みのために出たのではない。体を僅かに傾けただけで、肺が空気を漏らす。それが喉で、勝手に音となっただけだ。
体は持ち上がらない。左手を這わせて、現状を確認しようとして。脇腹のあたりで、指が沈むのが分かった。ぬめりとした、水っぽい感触。同時に、ぐずぐずとした柔らかいものが、指先に絡んでくる。得られたのは、吐き気がするようなひたすらな不快感だった。
(これ……くそっ)
脇腹が、ごっそりと抉られていた。恐らく、爪を防御しきれなかった分なのだろう。この程度で済んで行幸だと言っても言い。が、この状況では、何の慰めにもならなかった。
起きるのは諦めて、力を抜く。どのみち、この腹では満足に動けない。
(まずは、回復を……)
個別魔力領域に干渉し、回復薬を取り出そうとする。だが、これも上手くいかなかった。ダメージと衝撃に、脳は正常に働かない。領域内部を把握できない。把握できなければ、望んだものは現れない。
ず……という振動。そして、限定された視界の中に現れるファタンレス。
(最初にこっちを仕留めてからってか)
体が動かせないままに、悪態を付く。
意識は半ば飛んでいた。だが、完全になくなっていた訳でもない。吹き飛ばされてから時間はさほど経過していないのは、分かっている。
顔の右側を無残に切り裂かれた化け物が、にやりと笑う。そして、口を開いた。
声はない。代わりに、その中に輝く魔力の塊を見る。これも、元のファタンレスにはないパターンの攻撃。
近づいて敵にチャンスを与えず、きっちり仕留めきる。どこまでも徹底的で、容赦のない戦略だった。
(うごっ……動けぇ……!)
いくら叫んでも、腰から下は動かない。それどころか、声すら満足に出せない。アイテムだって、焦り続ければ取り出せるものでもない。どうしようもないならば、これから始まる攻撃、それを避ける手段は存在しなかった。
危機に、顔が青ざめる。それは同時に、ファタンレスに勝利の雄叫びを許すものだった。
膨大な光量が、まっすぐノスへと突き刺さり。
彼の小さな体は、それに容易く飲み込まれた。