01
「なんだありゃあ……」
ノスはぽつりと呟きながら、呆然と見上げる。
拠点の寸前。それこそ壊れて崩れている城壁を跨ごうとしている所に、それは現れた。圧倒的な巨躯。化け物。本当に、そうとしか言いようがない。
二足歩行だが、雄牛のような下半身。蹄だけはやたらと鋭角的になって、攻撃に適したものなのだと分かる。上半身は、それこそ顔まで体毛に覆われていた。人間のそれとは明らかに違う、骨太で分厚い構造。指は一応五指あるものの、これもやはり退化した指の代わりに爪が成長し、人のそれとは違っている。顔、これは完全に馬のそれだった。違うのは、側頭部と頭頂部の三点、それぞれから角が飛び出している事だった。
(なんだありゃ)
もう一度、自問してみる。今度は言葉に出さずに。
「お兄ちゃぁん……」
言葉に、はっと我を取り戻す。アリアは、呆然と立ち尽くすノスとマリーメイアに、どうすればいいか分からなくなっていた。
「とりあえず拠点に急ぐぞマリー!」
「え……? あ、ああ、待って下さい!」
あの巨大な化け物が現れる直前、拠点から多数の魔物が去って行った。その中に、体に怪我を負っている者があったのだ。擦り傷や打撲ではない、明らかに鋭利な刃物で切り裂かれた傷。つまり、それを行った人間がいる。魔物に大挙されていた拠点にどれほど人が残っているか分からないが、しかしゼロではない。
絶叫し、走り出す。マリーは遅れている様子だったが、構っている余裕はなかった。
「アリア」
もう彼女の探索は必要ない。全く危険がない訳ではないが、その危険とは、今隠れもせずに見えている。
身軽な少女は、ぴょんぴょんと跳ねながら寄ってきた。元気ではある、が、快活さはない。瞳は常に、下方で泳いでいる。努めて巨大な化け物を見ないようにしていた。呼ばれた後も、ノスを化け物との間に挟んでいる。
「なあ、あれってボスだよな?」
「……うん、たぶん」
声のトーンを落として(マリーメイアに聞かれないためだ)、話しかける。アリアの声が小さかったのは、ただ喉が震えて大きな声を出せなかったからだろう。
ノスの自信なさげな言葉に、彼女もやはり、自信なさげに答えた。
「……ファタンレスだよな、あれ?」
「……そう、じゃないかなー、と、思わなくもない」
さらに自信なさげになったノスの言葉に、同じくさらに自信のない返答。
その姿事態は、ゲームの中でもそれなりに見たものだった。体感ゲームに多い、敵の大きさを強調して作られた存在。ファタンレスは、その中の一体であった。実際、ブルークラスタ・オンラインの代表的なボスとなっている。
が、それでも断定できなかったのには、いくつか理由がある。まず、出現地点が違う事。ファタンレスはダンジョンの奥底、障害物の多い場所に出現するのだ。もう一つ、ゲーム中のファタンレスの体格はちょっとしたビル程度の大きさだ。決して、下手な高層建築物よりも大きそうなほどの体格ではない。いい加減な目算であるが、恐らくは倍ほどの高さになっていると思われた。
アリアもファタンレスと戦ったことは当然ある。それどころか、討伐に慣れていると言ってもいい。その彼女が、この反応なのだ。存在感がどれだけ違うか、如実に分かるというものだ。
(いや、違うか)
アリアと、そしてファタンレスを見比べながら。
全てにおいて、同じだった。この世界――ゲームの中のようで、全く違う場所。そこには等身大の人が住み、等身大の生活があった。そして、自分たちもそれは同じだった。いくら優れている肉体を持ったとは言っても、等身大の苦労を背負った。
享楽も、苦痛も、全て。ここにあるものは、『ゲーム』の一言で流せるものなど、何一つなかった。リセットはできない。だから、どんな小さなものであっても、リスクを回避するために動いていた。
ファタンレスに対しても、そうであるべきだ。
あからさまな危機。あからさまな危険。わざわざ危険を冒すようなまねなど、どう考えてもすべきではない。
マリーメイアが助けを必要としている? そんなものは関係がない。彼女だって、つい先日までは赤の他人だった。義理など、この時点で十分果たしていると言える。この先には死にかけた人間が大量にいるかもしれない? それこそ無関係だ。渦中に身を晒してまで、助けてやる必要なんてない。そんなことは、どこかの誰か、善人がやってやればいいのだ。
全くの本音だ。切られれば血を流すと分かっている場所で、リターンのない賭をする馬鹿などいない。
それでも……
「アリア、制限な、今は解除だ」
少女に口を寄せて、しかしはっきりと言い切る。言われた彼女は、ぱちくりと目を瞬かせる。
「いいの?」
口調は、どちらかと言うと伺うようなものだった。やってはいけないと言われている、けど自分はやっていいと思っている事を許可されたような。
危惧は当然、まだある。誤魔化すように足取りを速くしながら、ノスは確認した。
力があるというのは、それを見せつけるというのは、良いことばかりではない。むしろ、それを制御する能力がなければ、必ず誰かしらが横やりを入れて、制御権を奪おうとするだろう。もしそれが現実となれば、自分たちの自由と権利は大きく制限される。
だが――と。
この世界はゲーム的だ。魔力だ何だなんて、どこのファンタジーだという話だ。だが、そこにあるのは本物ばかり。苦痛。全ての、全てに共通するそれ。ただの痛みの苦痛から、生きるための精神的な苦痛。その全て。誰にも容赦はしてくれない。
あんな化け物は、誰にもどうにもできはしないだろう。だが……この世界の異物である二人にだけは、どうにかできるかもしれない。たった二人の、無知で無力な迷子たちであれば。
ノスもアリアも、分かっていた。見てしまった以上、見なかったことにはできない。人でなしにはなれない。
後悔する生き方は、選べない。
ずん! 音と同時に、猛烈な振動。下手をすれば、その場で倒れてしまいそうなほどに強烈だ。ファタンレスが一歩を踏み込んでいた。城の中心地に向けて。
足は、一歩で残りも少なかった城壁を粉砕し、櫓を完膚無きまでに崩していた。ただの歩行でこれである。そしてファタンレスが向かう先は、人が残っていると思われる方向、つまり城そのもの。
「くそ、やっぱりそう都合良くはいかないよなあ!」
叫びながら、速度を上げる。
ファタンレスが別の場所に向かえば、何もする必要がなかったのだが。まあ、その可能性が低いとは思っていた。今場所に現れて、何かを狙う。と、するならば、狙って意味がありそうなものなど、拠点くらいしかない。
アリアは付いてきている。マリーメイアを確認する意味はない。どうせ付いてきたところで、何の役にもたたないのだから。
「ついたらまずはCHだ!」
CHとは、サークルヒールの略である。正確に言えば、そんな魔法はないのだが――これはブルークラスタ・オンライン全体に通じる事だが――正式名称では、効果が想像できない。なので、いかにもな略称が利用されることが、ままあった。これもその一つである。
魔法使いに回復手段は少ない。だが、皆無という訳でもなかった。アリアに指示したのも、その中の一つ。徐々にHPとMPが回復するというもの。モンスターが居る場所では使えないし、回復量も多いわけではない。基本的に攻略後の回復手段であり、HP回復もMP回復のおまけだ。
それでも、高レベル魔法使いのアリアが使用すれば、洒落にならない回復量となる。低レベルが基本らしいこの世界では、下手な神官よりも回復量が高いだろう。
魔法に限らず、持っている技術は全て変化した。恐らくは世界に適合したのだろう、とノスは考えている。まあ、使用者からすれば、強くなったか弱くなったか、その振り幅が大きいか小さいか。求めるのはそれだけだが。そして、CHは強化された方だった。単純に、周囲に敵が居ても使用できるようになったのだ。
「次に最大規模の防壁! その後作った回復薬は、全部出しておけ! 持っていたものは……いざとなったら使っていい!」
続けて、指示を出す。アリアの作る防御障壁であれば、多少暴れられても、防ぎきれるだろう。
回復薬は、この世界で作れる見込みはまだない。下手をすれば、もう二度と補充できないだろう。
ファタンレスがゲーム内の能力であれば、全く問題ない。ノスの一撃でかたがつく。だが、とノスは思い出した。見たことのない魔物。見通せない的の能力。この世界が常識的であり、必ずしもゲームに忠実だとは、全く信じられなかった。それに、勘が用心するべきだと訴えている。
「後は隅っこの方で目をつぶって耳を塞いで縮こまってろ! マリーの背中に隠れててもいい!」
ノスがもっとも恐れている事は、アリアが動けなくなる事だ。その場で最適の選択、それ自体は分かっているだろう。問題は、彼女の正確や性質から、それを取ってくれると期待できない事だ。ならば、最初からやるべき事だけをやらせておけば、後は何もしなくてもいい。
黙ってしゃがみ込んでいるのは危険だ。それは分かっている。が、考慮はしないことにした。どうせ、その場に危害が及ぶのは、ノスが負けたときだ。そんなもしもが起これば、どの道未来はない。
全てを言い終えた所で、人の集まりが見えた。
城の正面で寄り添うように。中に入らないのは、倒壊の危険を考えてだろうか。逃げないのは、その場にいる全員がけが人であり、逃げられないからか……さもなくば、ファタンレスを見て、そんな反抗心すら折られてしまったか。
呆然とファタンレスを見上げる人々の正面に、二人して駆け込む。同時に、ノスは背負っていた神官を乱暴に落とした。「ぐぇっ!」カエルが潰れるような、奇妙な声が漏れる。それもきっぱりと無視だ。
「君たちは……」
誰かが言った。質問と言うよりは、呟きに近い。それも、やはり無視。
「じゃあ、頼んだぞ」
「……うん」
アリアの柔らかい髪をかき分けて、撫でながら言う。いつもと同じように、くすぐったそうにしながら、しかし大人しく撫でられる少女。その姿が、なぜかとても得がたいもののように思えた。
少女から視線を放し、正面へと戻す。ファタンレスは、首を大きく曲げなければ全容を確認できないほどに、接近していた。
全てを踏みつぶすまで、あと一歩と言ったところか。
当然、そうはならない。これから、ノスが防ぎにいくからだ。
個別魔力領域を開く。探す必要はない。それだけは、常に一番わかりやすい位置に置いておいたのだから。
取り出されたのは、一本の剣だった。白を基調にして、大人しめに作られた柄。しかし、その先が存在しなかった。
いや、存在しない訳ではない。よく目をこらせば、輪郭が確認できるだろう。うっすらと刀身の形に。剣自体が透明であって、見えなかっただけだ。
ゲーム内の装備は、全て野暮ったく造形されていた。アバターの装着を期待されているだのから、当然ではあるのだろう。だが、その例に漏れる装備も、数少ないが確かに存在した。これも、その一つ。
ノスは左足を出し、体をやや前傾にして、右手の剣を引くように構える。そして、全身に力を満たし――右手に持った剣が、強烈に発光した。剣の中で魔力が乱反射し、青い光の柱をそびえさせる。
片手剣最強の武器の一つ、乱鏡アルスト。またはクリスタル・ケージ。単純に、光の剣とも。魔力量に比例して、その威力を際限なく増幅する、正しく魔剣である。
キャラクター・ノス。魔法使いでなければ、後衛などでは当然ない。戦士系と魔法系の職全てをマスターして、始めて転職可能となる職。その名を魔法速剣士。ブルークラスタ・オンラインの中でも対個・少数で最高峰の火力を持つ、前衛火力職。
(そう言えば……)
さらに体を引き絞り、力を蓄える。
ただまっすぐ進んでいただけのファタンレスが、始めてアクションを見せた。首を曲げて、見下ろしている……。そこにどんな意図があったのかなど、ノスには分からない。敵意か、それとも他の何かか。ただひとつ、ファタンレスは、ノスを認識していた。ただの有象無象ではなく、そこにいる存在として、はっきりと。
(全力で動くのって、これが初めてだな)
そんな事を考えながら。
彼は全身に貯めた力を解放し、大きく跳ね上がった。
●○●○●○●○
ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ……
異音が響き続ける。きんきんと鼓膜を叩く耳鳴りの隙間に聞こえるそれ。働きの鈍った脳に、それの重要性は全く理解できていない。が、分かっている事はある。それが呼吸音であり、かつ自分が発しているものだという事だ。
足には、もう殆ど感覚がない。似に現一人を背負いながら走るのは、聖信仰のバックアップも満足に受けられないマリーメイアにとって、非常に苦しいものだった。恩恵が受けられなければ、それこそ鍛えた一般人の域を抜けることはできない。オルトン教の高位神官と言えども、現実はそんなものだ。
魔力は人を滅ぼしたか。これは間違いなく肯定できるだろう。
魔力は人を生かしたか。これは、回答に悩む。そうだと言えるし、違うとも言えた。
それでも、分かっている事というのはある。人は魔力に頼らなければ、この世界では生きていけない。もっとも弱い魔物の牙を受け止めるのすら、何かしら魔力の後押しが必要だった。
(なら、こんな魔物領のど真ん中で魔力切れを起こしている私は、もう死んでるのかな?)
馬鹿な考えだった。足には感覚がなくても動いているし、呼吸は相変わらず肺が潰れたような音を上げながらも、続いている。つまりは、苦痛だ。苦痛は生者の特権だ。それを感じている限り、生きている。
自分を置いてけぼりにした二人組を探す――ほどには離れていないが、気を抜けば見失いそうではあった。短時間で二人の体は、ずいぶんと小さくなっている。
まあ、見失ったところで、どれほど問題はない。そこはもう、北部臨時司令部の中なのだから。問題点があるとするならば……それは、不意に魔物に襲撃されたとき、対抗できないという事か。
(それはないけどね)
汗は乾ききり、新たなものは生まれない。全身の水分が失われたわけでもないのにそうなるのは、危険な事ではあった。
こうして走るのも、長く続けられない。独りごちながら考える。
(私だって、あんなのが目の前まで迫っておいて、悠長に狩りなんてしないし)
とは言うものの、それを主張するのは、あまりにむなしく馬鹿馬鹿しかった。
それこそ、こうしてあの巨大な存在――旧人間時代を破壊し尽くした化け物、魔の欠片。その進路上に向かおうとしているのだから。控えめに言っても、生物の生存本能が壊れているような行動である。
魔の欠片の進路上に味方が居るのは間違いない。砕けて転がった剣、ちぎれた人間の手、まだ熱と煙を蓄えている肉塊。直前まで戦闘を継続していたであろう跡は、そこかしこに見える。
この先――正確には、アリアとノスが向かった方向――に、少なくとも誰かはいるだろう。マリーメイアがそれを追い、追いついたとして、問題はその先。
背負った仲間をどうするか、ではない。北部臨時司令部に人がどれほど残っているか、でもない。もっとシンプルに、どうやって逃げるかだ。
魔の欠片に対抗する方法など思いつかない。そもそも、そんなものはない。あれば、人類の全盛期に、とっくに実行されているだろう。
仮に散り散りに逃げたとして(もしくは北部臨時司令部の人たちを囮にして逃げたとして)魔の欠片が見逃してくれる保証もない。仮に無視してくれたとして、その歩いた余波で吹き飛ばされ死ぬ可能性も低い。などと思うほど、楽観的にはなれなかった。
どうしようもなく、どこにも行き場などない。ならば進むというのは、彼女の人生哲学のようなものであった。それに、進んでいれば、どこかにはたどり着ける。
例えば、そう。北部臨時司令部残存部隊の集まりとかだ。
一言で言って、そこは悲惨だった。誰も彼もが傷に座り込み、立っていられる者も少数に見える。
魔力の回復はまだだ。それでも、応急手当くらいはできる。
すでに棒のようになっている足に意思を叩き込み、進もうとした。その時だった。
かっ――!
視界を突如、膨大な光量が占拠する。強烈な青い光が、周囲の何もかもを飲み込む。それは、マリーメイアも例外ではなかった。
とっさに顔を伏せて丸まりそうになり、それを耐える前に光は消えていた。光が消えてあとから現れた光景は、何も変わらない。そこにいる人たちも、魔の欠片も、全て相変わらず。
(何だったの?)
腑に落ちないものを抱えながらも、とりあえず合流する。その場はやはりと言うか、気絶している人が大半だった。意識があっても、無事な人間は一人としていない。
目立つのは三人だった。北部臨時司令部の司令官、大騎士ラファルタ。そして有力冒険者であり、珍しく話が通じると評判のブライヴェイン。最後の一つは、なにやらしようとしている小さな影。アリアだ。
少女は集団の先頭に立ち、完全に背を向けて集中している……まあ、これは下手に誰かを視界に入れて、集中を途切れさせないためなのだろうが。それも続いたのは僅かな時間で、少女は集めた魔力を形にした。すなわち、魔法。
「《狐性の跡蹟》」
呪文と同時に、青白い円がアリアを中心に広がった。円は地面から広がって周囲一体を一瞬で飲み込む。地面自体が青白く発光し始めて、ふわりと淡い光の粒が立ち上った。
(これは……?)
再び集中し始めたアリアの邪魔だけはしないように、内心だけで囁く。
変化は劇的だった。その場にいる人間、全ての体が急激に癒やされていく。まるで時を巻き戻すように、無事な部分が傷口を飲み込んでいった。しかも、それはどれほど深い傷口であろうと例外ではなかった。
しかも、
(魔力まで回復している!)
あまりの衝撃に、言葉を発することもできなくなる。
回復魔法だけをとっても、驚嘆すべき事だ。ただの魔法使いが、熟練の大司教クラスの回復魔法を使っているのだから。しかし、魔力を回復する魔法など聞いたことがない。魔力の回復方法は、二つに絞られる。一つは魔力回復薬によるものであり、もう一つは自然回復。他の手段は模索されているが、現状どの国家も、成果を得ていない。
つまり、この魔法は、どんな国家よりも進んだ魔法なのだ。それも、後ろ姿すら見えないほど圧倒的に。
魔力と怪我が回復する、という事は。マリーメイアには不可能だが、騎士や戦士たちはまた動けるようになる、という事だ。彼らは、魔力で肉体を運営できる。疲労を無視できるかまでは、彼女には分からなかったが。
だが、回復しても、誰も動けなくなっていた。呆然と、依然先頭に立って集中をしている少女の背中を見ている。
二つ目の言葉は、紡がれた。
「《時通す・闇流す・銀は塵・積す屍が在ろうとも・この時を終わらせない》」
八角形のクリスタルが数十生まれる。それは八方に飛び散り、その場にいる全員を囲んだ。クリスタルは線同士で結ばれて、網を作り、網に光の膜が作られて面となる。それが終わる頃には、内部は通常の空間と切り離されていた。
「なんて……」
マリーメイアは、それ以上言葉を重ねられなかった。
作られた面の連続――防御結界から感じられる魔力は、異常の一言。生まれてこの方魔力の存在など感じたことがないマリーメイア、その彼女が、明確に魔力の存在を感じている。いや、感じていたのは彼女だけではない。表情を見れば分かる。誰もが結界から、圧倒的すぎる魔力を感じていた。
――囚われた。最初の感想は、ずばりそれだ。四方八方から隙間なく寄せる魔力の圧力。それに折れそうになりながらも、必死に耐える。それが自分たちを守るためのものだと、しばらく気付けなかった。
忘れていた汗が、全身から流れる。体は熱を忘れて、芯から寒気を伝えていた。
――これが彼女の本気!
今まで見た実力など、本当にお遊びにもならない。今までの注意では、全く足りない。それこそ、魔の欠片ほどの――
と、そこでマリーメイアは気がついて、周囲を見回した。そこにはノスがいない。
アリアを見る。彼女は(なぜか)その場に回復薬をまき散らして、隅の方に走っていった。城壁面の、ちょうど柱によってできた窪みに体をはめ込み、ついでに耳を押えて小さくうずくまっている。
まるで意味の分からない行動。それを、しかしその場にいた皆が黙認した。いや、違う。誰も声をかけることができなかった。
ごくり、つばが喉を通る。やたら大きな、脳にまで響きそうな音量で。
アリアの様子は、普段と同じだった。それこそ、こんな場合ですら、今までと何ら変わらない。だから、恐れる理由はないはずだ……
彼女の背中に伸ばしかけた手が震える。ぴくり、震えた少女の背中に恐怖を覚えて、手を引っ込めた。怖い。それを自覚する。もし彼女がその気になれば、誰も止められるものなどいない。ちょっと気まぐれで、何もかもが思い通りになるだろう。そう思わせるだけの力を、彼女は見せていた。
(アリアちゃんはそんな子ではありません!)
大きく深呼吸をして、自分の思考を否定した。
くだらない。自分の考えたそれは、もう区別ですらない。ただの差別だ。自分の感情に根ざした排除。無抵抗のものを、殴打する行為。神は――いや、神でなくとも、そんな事は認めはしない。
震え続ける指先を強引に進行させて、ついにアリアの肩に触れた。そこで一度震えて、彼女が振り返ってさらに震える。少女の表情は不機嫌そのもの、つまりは普段自分に向けるものそのまま。
敵意ではあるのだろう。だが、それでマリーメイアは、逆に安心できていた。大丈夫、いつもと何も変わらない。彼女が大きな力を持っていたとして、今ばらしたとして、ただそれだけの事だ。
「アリアちゃん、全部ふさがれちゃうと逃げられないんだけど……」
「でたら死んじゃうかもよ」
ぷすぅ、と唇を尖らせながらも、律儀に回答してくる。
「でも、このまま籠もってるだけじゃ……」
「お兄ちゃんがなんとかするもん」
言われて、思い出した。この中には、ノスがいなかった。
ならば……
居る場所など、一つしかない。結界の中にいないならば、外に。こんな時に外にいて何をする? 決まっている。
戦うのだ。魔の欠片と。
マリーメイアははっとして、空を見上げた。膜に遮断されて、上手く外が見えない。風景が割れているようであり、滲んでいるようでもある。その中でも、やたらはっきりと、魔の欠片の巨体だけは確認できた。
そして、上方。太陽とはまた違う位置。そこに、小さく、しかし強く輝く何かを、見た気がした。