03
狩りというのは割と大仕事であり、同時に面倒も多い。
まず、最も重要なのが馬の安全確保だ。魔物に対して、馬はあまりにも無力である。つまりは、絶好のエサだ。当然馬もただで食われるわけではないので、見つかれば逃げ出す。一度去った馬は、逃げ切れようがそうでなかろうが、二度と帰ってこない。
馬の喪失は、つまり帰還方法の喪失だ。魔力マッピングのおかげで、道を見失うと言うことだけはありえない。が、そんなものは、何の慰めにもならないだろう。食料がつきるか、魔物に襲われるか、何にしろまともには死ねない。
次に、狩りの対象に大きな損傷を与えてはならない、というのもある。当たり前だが、大きなダメージを与えては、それだけ取れる部位が減る。何も考えずに魔物を消し飛ばせば、得られるのは魔力結晶だけだ。魔力結晶は需要が多いものの、供給も多い。はっきり言って、あまり金になるようなものではなかった。安定して稼ぐには、魔物を最小限のダメージで倒して、スマートに素材を取る事だ。狩った魔物は、種類によっては処理方法も考える。死体をそのまま放置しておけば、血臭につられて魔物があつまる。下手をすれば囲まれて、その場で終わりだ。
さらに、今度は帰還の問題もある。はぎ取った素材は、基本的に馬に括り付ける。と言うのも、個別魔力領域というのは、基本的にそう広くはないのだ。一人前でやっと回復アイテムと予備の装備、あとは食料を積める余裕が得られる。半人前では、自分の分の食料だけを積むこともできないだろう。
あまりに荷物を増やしすぎると、馬の動きが鈍る。やはり、魔物の襲撃の危険を増やす行為に他ならない。場合によっては、刈り取った素材も断念せねばならない。
これらの理由によって、狩りの為に遠出をする冒険者は、かなり少なかった。個人で行うのはかなり無謀である。大抵はギルドが専門の編成をして、慎重に慎重を重ねて行う行為だ。それとて、あまり頻繁には実行されない。敵地に籠もって警戒を続けながら戦闘するというのは、恐ろしい負担だ。
と、これが一般的な、狩りの方法なのだが。
ノスとアリアには、一切当てはまらなかった。
「お兄ちゃん、こっちもできたよー」
ぶんばかと、子犬が尻尾で喜びを表現するように手を振っている少女。それに手を振り替えしながら、引きつった顔で答えた。
「もうやんなくていいからこっちを手伝ってくれー」
「ん、もっとがんばって倒す!」
「やめろって言ってるんだよ!」
絶叫する。が、アリアはきっぱりと無視して、喜び勇んで作業に戻っていった。
「あああぁぁ……あの子はもう……。こっちがどんだけ大変だか分かってないな」
愚痴りながら、しかしノスは手を緩めなかった。手にはナイフを持って、魔物から皮を剥いでいる。
素材にはならないが、上質な毛皮で、衣服によく使われる。他にも肋骨は素材になり、肝臓を乾燥させたものは調薬屋で引き取って貰える。かなりおいしい魔物だった。……剥ぎ取りの労力を度外視すれば。
手は血と油でぎとぎとだし、ナイフも魔法で保護していなければ、とっくに使えなくなっている。周囲は血の臭いで満たされており、ノスの鼻はとっくに狂っていた。今では何をかいでも鉄くさい。
また一匹剥ぎ取り終えて、死体を放り投げた。そこには、すでに十数体、同じように解体された死骸がある。
腰に手を当てて、伸びをする。服に血がつくが、それも今更だ。
と、その時。そらがぱぱっと薄青色に輝くのが見えた。一瞬遅れて、獣の断末魔が、それも複数。
また仕事が増えた――それを思い知って、ノスは肩を落としながら、アリアの方に歩いて行った。
彼らの狩りの方法は、至極簡単である。まず一匹獣を狩る。そして、血をばらまきながら放置し、それを食いに来る魔物を待つ。魔物も馬鹿ではない。いくら隠れても、周囲に別の生き物がいれば、そちらを先に狩ろうとする。と言うわけで、彼らは隠れず血だまりの側で待機。襲いかかってきた魔物を、かたっぱしから迎撃だ。あとは、ノスがそれらを集め、魔法で臭いを遮断して剥ぎ取り作業。終わった一匹をアリアが持って行き、また待ち伏せ。ノスが剥ぎ取りを終える頃には、アリアが倒した魔物も山になっている。位置を交代し、また狩りと剥ぎ取りを開始。餌は素材を奪われた魔物の残りなので、問題ない。
多彩な魔法という優位、圧倒的な戦力、あとは、ばかげた個別魔力領域。これらがあって始めて可能な無茶であった。
「あー、風呂入りてぇ」
思わず愚痴を漏らす。周囲には川があり、石けんも持っている。体を洗うことはできるが、さすがに湯を沸かすのは面倒だ。水を浴びるのがせいぜいである。
血まみれのままアリアの方に向かうと、ちょうど彼女もこちらにくる頃だった。ぱたぱたぱた、と非常に忙しなく走っている。
「はい待った」
彼女の進路――つまりは魔物だったものの山の方――に割り込んで塞ぐ。道を閉じられたアリアが、急ブレーキをかけた。
「なに?」
「だからもういいって。兄ちゃんいろいろと限界だよ」
「まだだいじょうぶだよ」
むふー、と自信満々に語る。そして、脇を通り抜けようとした彼女の前に、再度割り込んだ。
「うるせえ。もういいって言ってるだろ。あんまり我が儘言うと、この格好で抱きつくぞ」
全身が血でべたべたの格好で、大きく手を広げる。アリアは「きゃー」と、どこか嬉しそうな悲鳴を上げながら、反転していった。
とにかく、今日はこれで終わりだ。それを確認して、ノスは大きく深呼吸をした。彼女がやめても、彼女が狩った分の魔物の処理は、まだ終わらない。あとどれだけかかるか分からないが、まあ、やらない訳にはいかなかった。
「ひーふーみー……十四匹か」
転がって死んでいる魔物を数える。それなりの大きさを持つものに全て、目立った外傷はない。
直接的打撃力のある魔法を使うと、素材を損なう。それどころか、内臓が周囲に飛び散って、酷いことになる。なので、最近は雷撃タイプのスタン系魔法で仕留めるよう言い含めていた。ちなみに属性は考えていない。威力的に、いちいち属性を調べて放つ必要もないし、それ以上に面倒くさくなっている。
「しかしまぁ」
ノスは、なんとなく自分の姿を確認して呟いた。何体もの生物を解体して血まみれになり、しかしそれに眉一つ動かさずに、また生き物の解体をしようとしている。
「お兄ちゃん、どうかした?」
「いや、たくましくなったなあと思って」
ただの高校生であった頃からは、考えられない事だった。多少なりとも命の危機があって戦うことも、従姉妹と子供二人で生活していることも、何日も野宿を行っていることも、当然この作業も、全て。
「手つだう?」
「いらんいらん。それより火の準備して、あとは馬を見といてくれ」
「う……わかった」
さんざん暴れ回って気が晴れたと思ったが、まだ馬は苦手なようだ。とはいえ、彼女もノスと同様に、かなりたくましくなっている。最初は解体作業を見て泣きわめいていたが、今では普通にしていた。
(何にしろ、順応してきたって事なんだよな)
悪いことではない。生きていく上で、仕方のない事でもあるのだし。むしろ、なんでそちらに慣れられるのに、対人関係は駄目なのか。そちらの方が不思議だった。
脇に散っていた意識を、魔物へと戻した。余計なことを考えていては、剥ぎ取りも滞るばかりだ。
筋力的に優れているノスの体、とは言っても、魔物もやはり魔力の恩恵をふんだんに得た生物。とりわけ、魔族や森族のような亜人よりも、遙かに魔力に適合した生物だ。最初から肉体強度が違う。綺麗にばらそうと思えば、かなり力のいる作業だった。
全ての作業を終えて、個別魔力領域にしまい込む。
仕事の終わった幸福をかみしめながら、アリアの元へ戻ろうとする。と、そちらの方向から、白い煙がもうもうと上っていた。
宿営地に戻る。アリアは、その辺の木を折ってきたのだろう、まだ青い葉のついた木の枝を、煙の中にくべていた。
とりあえず、予め作られていた水たまりに上着を落とす。血は半分乾燥してもいたし、もう綺麗に戻ることはなだろうが構わない。どうせ、解体作業専用の服だ。
「なんで生木を焼いてるんだ? 木炭があったろ」
「お兄ちゃんくるの遅いから、ぜんぶ燃えちゃった」
「そりゃアリアが火の勢いを強くしすぎてるんだよ」
少なくない量を持ってきたはずなのだが……。まあ、使ってしまったものは仕方がない。まさか、帰りの分まで消費する訳にもいかないし。
煙いのを堪えて、彼女の近くに座る。と、少女は顔をしかめ、ついでに鼻を押えた。
「お兄ちゃんくさいよ」
「洗うの面倒くさいんだ。先にメシ食うぞ」
言いながら、個別魔力領域から燻製肉と堅いパン、あとは固形スープを取り出した。何かと便利な個別魔力領域であったが、さすがに保存能力まではない。
「えー? あっちいってよ」
などと言いながら小石をぺしぺしと投げてくるアリア。
「なんだとこのやろ。この格好のまま抱きしめるぞ」
言いながら、体を広げる。血は所々固まって赤黒くなり、動くたびにばりばりと音がした。ズボンも上着ほどではないとは言え、なかなか酷い状態である。
「やだー! こっちこないでー!」
「いて、いてて! やめろやめろ俺が悪かった!」
ぼすん、音がしたかと思うと、眼前に密林が広がった。アリアが脇に置いていた枝のひときわ多きなものを持ち、ノスを突いたのだ。なおも引き離すように、ぐいぐいと押し込んでくる。
葉が皮膚と擦れ合うのは、妙にちくちくして痛い。逃げ出すように距離を開ける。彼女は追撃してこなかった。その代わり、銃剣を構えるように、枝の尖端は依然こちらに向いたままだったが。
「もうこない?」
非常に座った視線で、牽制してくる。ノスは素直に降参した。
離れた位置に座り直し、改めて食料を火に当てた。……煙が出すぎて、妙な香りがつきそうだったが。まあ、そんな失敗も含めて、もう慣れたものだ。
と――
ノスははっとして顔を上げた。見れば、アリアも同じ方向を見ている。
「気づいたか?」
「うん。だれか来てる?」
獣ではない。明らかに人間の慌ただしい足音が、少しずつこちらに迫っている。あとは、怒声とも取れる声。一つや二つではない。恐らくは――五人。
やはり、煙の立つ火はまずかったか。思っても、そんなものは今更だ。すでに位置は特定されている。
「アリア、こっちに来てろ」
少女は無言で、ノスの背後に隠れた。たき火を挟んで、人影に備える。
盗賊……という事はまずないだろうとノスは思っている。この世界は、そういう存在に酷く厳しい。魔物の支配地に居を構えるというのは、ただの自殺行為だ。必然的に、騎士の討伐が行き届く範囲に隠れなくてはいけなくなる。そうなれば、発見も容易い。仮にこんな場所で生き残れる腕があったとして、それならば冒険者にでもなった方が、遙かにマシだろう。
つまり、盗賊である可能性はまずない。そう思っていても、警戒しないわけにはいかなかった。他にこんな所で慌ただしく向かってくる人間というのも、想像がつかない……
距離はいよいよ近くなり、荒い息づかいまでが感じ取れる。
ノスは片手剣を個別魔力領域から取り出し、両手に構えた。それで戦おうとは考えていない。まだ人間を相手に斬りかかる覚悟は、できていない……。市販品のそれは、投げるためだ。一瞬でも怯ませられれば、あとは、魔法でなんとかできる自信がある。無力化を図るならば、その方が楽だ。
目前にまで迫るのを感じて、腕を引き絞る。決して直接当ててはいけない。狙うのは、周囲にある木や岩。
そして、草木をかき分けて出てきたのは、盗賊然とした格好からはほど遠い。薄汚れてはいるものの、疑いようもなく聖職者のそれ。ついでに言えば、見知った顔だった。
「やっと人が……え! ノスさんにアリアちゃん!?」
「マリー?」
予想外の相手に戸惑いながらも。後続が神官三人と騎士一人なのを確認して、とりあえず剣をしまった。
「なんでこんな所に?」
「それはこちらの台詞です! こんな奥地にどうして……いえ、今はどうでもいいです。お願いします、馬を我々に下さい!」
余裕を失った切羽詰まった声で、詰め寄ってくる。あまりの様子に、アリアも何も言えなくなっていた。
馬は二頭。それを失えば、帰還できなくなる可能性は跳ね上がる。普通に考えれば、渡すわけがなかった。それを知った上で言っている……つまりは、それだけの異常事態だという事だろう。
決断は早かった。ノスたちにとって、馬は便利な存在ではあっても、生命線ではない。居なくなったとして、それは帰るのに時間がかかって疲れるというだけ。馬の貸出料は、言い出した手前、向こうが払ってくれるだろう。
もっとも、それは異常事態を無事に解決できれば、の話だろうが。
「分かった。けど、事情は説明して貰うぞ」
「ありがとうございます!」
マリーメイアはばっと頭を下げ、すぐに戻して反転した。
「シンディ、あなたは街に戻って大至急アラナラーア大司教に報告を! これを持って行けば、すぐに取り次げます!」
言いながら、胸元に手を入れる。引っ張り出したのは、ネックレスだった。それを、有無を言わさず手に押しつける。
「騎士ジョス、もう一頭はあなたに! 大至急北部駐屯所に連絡を、できれば本土にまで連絡して貰って下さい!」
「了解しました!」
「必ずや!」
言って、二人――シンディとジョスは、馬にまたがり走り出した。脇目もふらず、それこそ馬が潰れそうな速度であることも度外視して、全力で走らせている。
「我々もすぐに移動しましょう。ここにいるのは、非常に危険です」
そう、マリーメイアが言い終わるのと、ほぼ同時だっただろう。どさり、と音がしたのは。
急に、という事でもないのだろう、本当は。マリーメイア以外の、残りの二人、彼らが同時に倒れた。まるで人形が繰り糸を失ったかのように、かくんと崩れ落ちていた。
「あなたたち!?」
マリーメイアが、悲鳴を上げながら駆け寄る。抱き起こされた一人は、しかしぐったりとしたままだった。
汚れに紛れて分からなかったが、よく見れば彼らには大小問わず、多くの傷がある。出血も少なくない。体はとっくに、限界を迎えていたのだ。彼らの顔は、青いを通り越して土気色。死体のそれだと言われても、信じられそうだった。
「我らを置いて、先に、言って下さい。我々は、もう助からない……」
もう目の焦点すら合っていない男が、消え入りそうな声で言う。本当に、最後の力を振り絞っているのだろう。
「何を言っているのですか! 今、治療を……」
手を翳し、集中する。が、何も起きなかった。マリーメイアは戸惑いながら、もう一度同じ動作をする。それでも、やはり変わらなかった。傍目からも分かる、魔力が動いていない。MP切れだ。MPがなければ、神に祈りは届かない。つまり、治療もできない。
「そんな……!」
悲壮な声を上げて、マリーメイアが戸惑った。何度も動作を繰り返す。どれだけやっても、傷がふさがることはない。
明らかに錯乱しかかっている彼女を押しのけて、彼らの前に膝を突く。調子は最悪、はっきりと瀕死状態だ。逆に言えば、まだ瀕死で踏みとどまっている。
「アリア、回復薬」
「はい」
渡されたそれを、仰向けにした彼らの口の中に、無理矢理流し込む。苦しそうな様子は見せたが、やがて少しずつ喉を通過していく。同時に、みるみるうちに傷口がふさがった。顔色こそ変わらないが、しかし呼吸は安定してくれた。
「これは……」
「ま、あまりもんだけどな。これでとりあえず、すぐ死ぬって事はない」
「いえ、ありがとうございます」
アリアが作った回復薬の売れ残り。それがこんな形で役に立つとは思わなかった。
もっと効力の高いものはあるが、彼らの体力を考えれば、どちらを使っても同じ。体力や失った血液まで補充してくれる薬はない。現状できることは、これが精一杯だ。
「ついでにマリーも飲んどけ」
二つの容器を個別魔力領域にしまいながら、残りの一つを渡す。一瞬迷った彼女だったが、しかし受け取り、中身を飲み干した。
終えるのを確認する前に、二人の内一人――体の大きな方――を背負う。
「二人は背負えないから、一人は頼むぞ」
「……申し訳ありません、何から何まで」
「見捨てたら気分が悪いってだけだ。気にするな。それより、ここを早く離れないとヤバいんだろ?」
そう言うと、彼女も人を抱えて立ち上がった。非常に危ない足取りであったが、さすがにそこまで面倒を見ることはできない。
「アリア、探索頼むぞ。お前だけが頼りだからな!」
「わかりました!」
言うが早く、彼女は索敵体制に入った。
子供という意味で精神的に未熟である彼女は、むらっ気が多い。だが、元の能力は高いのだ。集中さえしてくれれば、誰よりも信頼できる。
もう少しアリアの身長が高ければ、彼女に背負わせたのだけど――考えかけて、やめる。全く意味のない仮定だ。どちらにしろ、元気なノスかアリアが索敵をしなければいけないのだし。
「安全はあいつが保証してくれる。俺たちは進むだけでいい」
「分かりました」
言って、歩き始めた。
マリーメイアが遅れ始めたのは、すぐだった。元々体力が切れかけており、仕方がない事ではある。ほんの少しだけ、歩調を緩めた。
(こんな事なら、バフ魔法取っておけば良かった)
内心で悔やみながら、考える。聖職者が使っていたそれは、実際、非常に有効であった。
ノスにしてもアリアにしても、その手の技が一切使えない訳ではない。だが、それは自分にしか作用しなかった。魔法ではなく、あくまで技能という扱いになる。こういった場合では、何の役にも立たなかった。
それほど草木の多い場所ではないが、しかし歩く邪魔をするには十分でもあった。地面に突起があれば、転ばぬまでも足を取られる。足を取られれば、体力を消耗する。それは、ノスにとってはともかく、マリーメイアにとっては、無視できない負担になる。
「そう言えばさ」
「はぁ、はぁ……、え?」
帰ってきたのは、荒い吐息と、疑問の声だった。疲労が濃すぎて、考えることともできなくなっているのかもしれない。
「とりあえずマリーたちが進んでいた方向に向かってはいるんだが……どこに行くつもりなんだ?」
「あ、北部臨時、司令部、です」
呼吸のために一言一言突っ返させながらの言葉には、全く力がこもっていない。それこそ、体と同様に、少し押せば折れてしまいそうだ。
「分かった……。アリア! 北部臨時司令部の方に向かってくれ! ここからちょっと西の方に向かった……分かるか?」
声を張り上げる。回答は言葉の代わりに、手で大きく丸をつくったものだった。
北部臨時司令部。後方からでは情報伝達や兵糧の輸送が遅すぎるために、破棄された古城を拠点に構えられている。なんでも騎士だけではなく、聖職者や、冒険者までもが利用できるのだとか。残念ながらノスたちは寄らなかったので、どうなっているかまでは知らなかったが。
とにかく、騎士主導なだけあって、大きな拠点であるのは間違いない。
(確か……ラフェルタ? ラファルタ? だかって騎士が主導でやってるんだよな)
いまいち漠然としてて、名前が思い出せないのは。騎士の、それもお偉いさんなど関わる予定がなく、また興味もないからだった。
まあ、司令官などどうでもいい。少なくとも今は、それよりも重要な事がある。
「あとは事情だ。苦しくても、それだけは話して貰うぞ」
言葉に、小さく頷いたような気配がした。同時に、後悔と戸惑いも。
「私たちも、よく、分かりません。ただ、魔物が、一斉に、南下を、始めたのです」
呼吸に混ざり酷く聞き取りづらかったが、なんとか捉えて。ノスは、疑問符を浮かべた。
「南下ぁ?」
何でまた――とっさに出そうになった言葉は、止める事に成功した。聞いたところで、返ってくる答えはない。
魔物が大移動をする事などありえるのか、と聞かれれば、ノスには分からない。人類と魔物の領地の境界線、それは明確であるし、曖昧でもある。魔物が人間の領地で跋扈しないのは、騎士を中心とした排除努力によるものだ。これによって、進入または繁殖を防いでいる。似たような事が、魔物領にも言えた。迂闊に踏み込んでしまえば、即座に餌食となる。
いくら数があるからと言って、迂闊に人間の治める土地に踏み込んでくるか。この質問に対する回答は、ノーだ。考える余地もない。
元々獣は、人間よりも危機管理能力が高いのだ。これは単純に、人間のように本能を理性で無視しないからだろう。危機を感じたら、それを疑いはしない。打算で判断を迷わない。よほどの理由でない限り、危険地帯に踏み込もうとはしないはずだ。
(つまりは、それだけの理由があるって事だよな?)
歩調は維持したまま、一人思案する。
(例えば……食糧危機。魔物の住む場所が飽和して、養いきれなくなった。食うところがなくなって食料争奪戦にも負ければ、あとは危険を承知で向かうしかない)
自分でも、あまり信じていない事だったが。とりあえず、可能性の一つとして上げておく。
(魔物にリーダーが生まれて、それに従って侵略を始めた……とか? それにしちゃお粗末すぎるよなぁ)
つまりは、利口な個体が生まれたという事なのだが。それならば、もうちょっと上手くやっていそうではあった。行動が組織だって(単純に群れ単位の数が増えて)はいても、どれもやっている事は普段と変わらない。
それに、どちらであっても、ゴーストが大量発生した理由にはならなかった。
(後は……天敵の領土に踏み込むのを躊躇しないほど、ヤバい何かがある?)
可能性で言うならば、それこそが一番荒唐無稽だ。ただの思いつきで、根拠も何もない。
だが――
ぞわり、背筋に寒気を覚えた。理由などない。ただの勘だ。それこそ、魔物たちが本能のみで判断するのと全く同じ。確信にしてはいけないもの。しかし、この世界において、今までもっとも頼りになったもの……
頭を振って、ノスは否定した。そうしなければならなかった。
もしそうであった場合。それはつまり、ここアンスタッドという国に、対抗手段がないという意味なのだから。
少し、急いだ方がいいかもしれない。そう思ったときだ。アリアが、急に反転して近寄ってきたのは。
「どうした? 何かあったか?」
口調が早くなったのは、焦りがあったからだ。このままではいけない。早くしなくてはいけない。何とかしなくてはいけない……
まるで何かに導かれるように、そんな事ばかりが頭に浮かぶ。
「ん、あのね。とりでは見つけたんだけどね、煙がたくさんあがってるの」
もじもじと、どこか不安そうな様子で、アリア。言葉に悲鳴を上げたのは、マリーメイアだった。
「そんな、もうここまで……!」
戦端はすでに開かれている。それを知った彼女の膝が、がくがくと笑った。強い疲労に悪く鳴り続けていた顔色が、さらに青ざめる。
「急ぐぞ」
短く宣言して、さらにペースを上げようとした。
その、一瞬前。地面から、重い振動が伝わってきた。