弐
そして放課後。
鈴音はドキドキしながら生徒会室の扉に手をかける。
昨日は心構えだけで乗り切ってしまったので、改めて冷静になってみると緊張してしまう。
「し、失礼しまーす……」
そろりと中に入れば、そこにはすでに啓や爽、類、悟がいた。
彼らは――啓を除き――笑顔でそれぞれ挨拶をしてくれたので、鈴音は胸を撫で下ろす。
今日は補佐委員としての仕事始めだ。少しばかり気合が入る。鈴音は今まで事務作業などまともにやった事がない。昨日ある程度は教えてもらったが、それでもやはり不安だ。
「さて、と。それじゃまずは、鈴音にも色々渡さないとね」
爽は棚から次々と資料を取り出すと、新品のファイル片手に鈴音に手渡す。
「これは去年の一月からの資料。できるだけ目を通しておいて。あと、これから生徒会で使った資料は全部このファイルに入れておいてね。昨日も言ったけど、資料作る時はたいてい全部穴開けパンチで穴あけるから」
確かに資料には全部ノドの部分に穴が空いている。
鈴音は資料とファイルを受け取ると、テーブルにそれらを置いて次々にファイリングし始める。
「まぁ細かい事とかは僕らが知ってるから安心して。それにこれからまた説明するし」
「うん、分かった。とりあえず今日は何すればいいの?」
鈴音はファイルを閉じると、ぐっと胸の前で拳を作った。
それを見て類が「鈴音、やる気満々じゃん!」と何だか嬉しそうに声を上げる。
「それじゃ、今日は僕と一緒に印刷作業をしようか」
爽は部屋に一台ある印刷機の電源を入れると、棚からクリアファイルを取り出す。
そこに入っているプリントを一枚取り出すと、印刷機を開けてサイズに合わせてガラス面に乗せる。
「あ、鈴音。下にあるA4の白い紙、適当にいっぱい取ってくれるかな?」
「うん。これでしょ?」
印刷機の下部に真っ白な用紙が沢山置かれている。
鈴音が大雑把に大量の紙を取ると、それをセットするように言われた。
鈴音は印刷機に用紙をセットすると、爽に目配せする。
爽は「それじゃ、ここのボタンで枚数を入力」と手馴れた動きで印刷機に百五十枚と入力する。
製版というボタンを押せば、印刷機が音を立てて動き始める。
「へぇー、印刷ってこうやってるんだ」
知らなかったなぁ、と感心の声を上げれば、爽も「僕も最初やったときは感動しちゃったよ」と笑う。
気づけば印刷は終わっており、鈴音は印字された用紙を取り出した。
「その用紙は裏面にも印刷するから、またこっちにセットして。あ、頭と頭をごっつんこだから」
「……え?」
鈴音はまじまじと爽の顔を見つめる。
今、なんだか妙な言葉を聞いた気がするのだが。
「おい爽ー。それじゃ鈴音分からねぇだろー?」
「……うん、分からないと思う」
後ろから類と悟の窘めるような言葉が飛んでくる。
爽はそれでやっと気がついたらしく「ごめん鈴音」と少しバツが悪そうに微笑んだ。
「えっと、この原稿の上部分と、印刷用紙の上を合わせればいいって事なんだけど。……ごめん、つい先輩からの癖で」
「ううん、大丈夫だよ! ていうか、爽、ちょっと可愛かったし」
鈴音が笑いを堪えながらそう言えば、爽は顔を赤くして目を丸くした。
「そ、それじゃ印刷するよ……!」
「うん」
顔を見られないようにと俯く爽の姿に、鈴音は益々顔が緩んでしまう。
なんだか爽は案外いじったら面白い性格なのかもしれない。
――唯ちゃんに話したらどんな反応するかなー。
きっと色んな意味でびっくりするだろうな、と唯の反応を想像すればまた頬が緩んだ。
しかし、ふと小さな違和感に気づく。
西に傾き始めた太陽はいつも通りで、空の青と色が交混じり合っている。
窓の外からは部活動の掛け声や吹奏楽部の練習が聞こえてくる。
「……鈴音?」
窓の外に視線を向けて固まっている鈴音に、爽が首を傾げた。
その瞬間、今まで会長椅子に座って黙っていた啓が突然立ち上がる。
「……なにか、来る?」
鈴音のその呟きに、その場の空気が凍りついた。
類と悟は手を止めて神経を研ぎ澄まし始める。
爽は印刷機を止めると、鈴音と同じように窓の外へと視線を走らせた。
鈴音は得体の知れない気配と、それを感じ取っている自分に戸惑いを隠せない。
小刻みに震える身体をきつく抱き締めながら、ゆっくりと視線を啓に移した。
「……妖か」
細められた双眸には危機感が滲み出ている。
鈴音は固唾を飲み込み、昼間四条理事長に言われた言葉を思い出した。
妖を鎮め、力を手に入れる。それがやがて鬼の封印に結びつく。
――なら、行かないと……。
鈴音はくるりと踵を返し、生徒会室の扉に手をかける。なんだか今はこの扉を開ける事さえも大変勇気のいる行為のような気がしてならない。
早くこの扉を開けて行かなければ。
そう思うのに中々身体は言う事を聞いてくれない。まるで拒否しているかのようで、鈴音はぐっと手に力を入れる。
「なにしてんだよ」
「わっ!?」
すると後ろから手が伸びてきた。かと思えば扉はあっという間に開かれ、目の前には仏頂面の啓がいる。
「ボヤボヤしてると置いて行くぞ」
啓の言葉に鈴音が唖然としていると、優しく背中を叩かれた。
「大丈夫だよ。最初は慣れないし、怖いかもしれないけど。僕らが守るからさ」
「……類は頼りないかもだけど」
「……って! さりげなく俺のマイナスイメージ植え付けるなよ!」
三人の気遣いが嬉しくて、鈴音は「あたしも頑張るよ!」と自然と笑顔が溢れていた。
怖くないなんていったら嘘になる。自信なんてものもないし、正直不安だらけだ。
――でも、やるって決めたから。あたしなりに頑張ってみるんだ。
こんな時こそ前向きに頑張ろう、と鈴音は前を歩いている啓を追いかける。
それに続いて爽達も生徒会室を後にし、鈴音たちは中庭に出た。
放課後の中庭に人影はない。それどころか木々は不気味に揺らめいている。
同じ学校の敷地内だというのに、まるでここだけ別空間のようだ。
緊張が走り、風にざわめく木々たちも、まるで何かにおびえているような感じだ。
鈴音は辺りを注意深く見回し、迫ってくる大きな気配に意識を集中する。
物凄い速さで迫ってくるそれは、鈴音の知りえない何かである事は明白で、これが妖なのだと本能が警鐘を打ち鳴らしている。
「……来るぞ!」
啓の言葉に、鈴音達の視線が一点に集まった。
ザァァアァアァア、と突然強い風が吹き荒れ、鈴音たちは一瞬視界を奪われる。
そして目を開けば、そこにはコバルトブルーの美しい長髪を靡かせた少女が笑みを浮かべて佇んでいた。
鮮やかな青は彼女が人外であると物語っており、また髪の長さが尋常ではなかった。
緩やかに波打ちながら足首まであるその髪は、あまりにも艶やかで、女の鈴音からしたら羨ましい限りである。
弧を描く小さな唇に、ぱっちりとした大きな二重の瞳。身長は鈴音とほぼ同じか、少し小さいぐらいだ。
思わぬ美との遭遇に、鈴音は言葉を発せずにいる。
そんな静寂を壊したのは、他でもない少女自身だった。
「まさかぁ、お出迎えされちゃうなんてアクルちゃんびっくり~!」
明るくはつらつとした少女に、一瞬鈴音の緊張が緩んだ。
しかし、すぐに彼女の持っている禍々しい力に気圧される。
「……お前、妖か?」
啓の問いかけに、アクルと名乗った少女は「うん、そうだよ。アクルは百鬼夜行の悪縷!」とこれまた満面の笑みで答えてくれた。
「百鬼……夜行?」
鈴音が呟くと、悪縷の視線はすぐさま彼女に集中した。
今の悪縷からは、まるで獲物を見つけた時の肉食動物のような、獰猛で危険な雰囲気がする。
「へぇ……。もしかして、その子が全の姫?」
「!?」
――なんで、妖がそんな事知って……!?
鈴音が心の中での戸惑いを言い終わる前に、鈴音は啓の背中に隠された。
まるで、それ以上悪縷に見られる事を恐れるようなその行動に鈴音は思わず目を見開く。
「お前は何者だ。何故、妖がそんな事を知っている? それに、百鬼夜行とは何だ」
啓の問い詰めるような言い方が気に入らなかったのか、悪縷は肩を竦めてつまらなさそうな表情を浮かべている。
「アクルちゃんさー、そういう堅苦しい話嫌いなんだよねー。それよりさぁ、もっと楽しい事話そうよ! あ、そうだ名前! ねぇ、名前教えてよ!」
悪縷は先ほどとは態度を一変し目を輝かせて、啓、爽、悟、類、そして鈴音の事を見つめてきた。
警戒しているのがよく分かるが、ここは名乗るのも筋だろうと、鈴音は啓の背中からひょっこりと顔を出す。
「あたし、春日鈴音だよ」
「へぇー、“スズオト”なんて人間にしたら珍しい名前じゃん」
「そ、そうかな……?」
「おいそこ敵と和むな」
啓に指摘され鈴音は慌てて口を噤んだ。
どうにも相手が女の子だと気が緩んでしまうというか、ついついやってしまった。
「……僕は北海爽」
「爽ちゃんかぁ! 宜しくぅ!」
鈴音に続いて爽も名乗ると、悟も類も自ら名乗った。唯一啓だけが渋ったが、結局は仕方無さそうに自ら名乗った。
悪縷はご満悦らしく、先ほどよりも楽しそうに笑っている。
その笑顔があんまりにも無邪気だからか、鈴音もついつい頬を緩めてしまう。
「さて、と。それじゃ、啓ちゃん。そこにいる全の姫、渡してくれないかなぁ」
「却下だ」
「うっわ即答かぁ。ちょっと傷ついたかもー」
「俺の心は傷つかんから問題ない」
悪縷の言葉をばっさりと切り捨てる啓の潔さは、なんというか清々しすぎて逆に怖い。
「ほんとはー、蜘蛛様には全の姫だけ連れて来いって言われてるんだけどー。でも、アクルちゃん的には、啓ちゃんたちも連れて行きたいんだよねー。どう? この際だからさ、一緒に百鬼夜行の為に働かない?」
あまりにも自己中心的で突然過ぎる悪縷の発言に、鈴音達は一瞬言葉を詰まらせた。
今、さりげなくとんでもない事を色々と言わなかったか。
「却下だ」
「却下だね」
「……普通に却下だよね。なに、バカなの? バカなわけ? 類以上のバカってこの世に存在したんだー」
「おいこら悟そりゃどういう意味だよ!?」
「……ふ、二人とも脱線してるよ?」
悪縷の先ほどの発言も自由人だったが、こちらも大分自由人っぷりを発揮しているな、と鈴音は苦笑いを浮かべた。
悟と類の絡みはマイペース過ぎて時々ついていけなくなる。
正確にいえばマイペースなのは悟の方が割合としては多いのだが――この際それはおいておこう。
鈴音は啓の背中越しに悪縷と向き合う。
普通にしていれば明朗快活な少女といった感じの悪縷だが、根底に持っているものは測り知れない。
「ねぇ、今なら痛くしないよー? だって全の姫だもん。アクルちゃん、蜘蛛様から言われてるんだー。何があっても、全の姫は殺したら駄目だって」
なんて事ない風に言う悪縷だが、その内容は鈴音からしたら身の毛のよだつようなものだ。
殺す、なんて単語がそう易々と出てくるものだろうか。
殺すとは、そんな簡単に口にしていい言葉だろうか。
いや、それよりも今はこの現状を理解しなければ。自分はともかく、五獣の皆まで危ない目にはあわせたくない。
「……あなた達は、何が目的なの?」
鈴音の問いかけに、
「そんなの、知る必要ないよー」
悪縷はにっこりと笑った。
そしてこちらに近づいてくる彼女に、鈴音は恐怖そのものがやってくるような感覚を覚える。
草を踏み分ける音が、死へのカウントダウンのように聞こえる。
――どうしよう。このままじゃ、皆も危ない……!
咄嗟に前に出ようとした鈴音だったが、すぐに啓に腕を掴まれて後ろに戻される。
爽と悟と類が悪縷の前に飛び出し、力を手に集中させていく。
「爽、行くぜ! 水の気を俺に」
「うん分かってる! 類、受け取って!」
「よっしゃ! 水の力よ、俺の金を導いてくれ――金剛峰!」
類の言葉に合わせて、地面から水と共に巨大な金の塊が噴出する。
その金塊は水によりみるみるうちに削られていき、鋭利なものへと変化した。
そして上空に打ちあがると、一直線に悪縷に降り注ぐ。
「甘いわよー! 我が僕たちよ、ここに集え――水撃刃!」
しかし悪縷が手を横に薙ぐと、そこから水の刃が出現し、金塊を次々に撃ち落としていく。
類と爽は打ち落とされた金塊を見るとすぐさま後退し、啓と悟が前に出る。
それぞれ入れ替わると、悟は啓の背中に手を当てた。
啓は悪縷に札を翳し、悟から受け取った木の気で火の気を大きくする。
「燃やし尽くせ――火炎撃」
啓の言葉にあわせ、どこからともなく幾つも炎が出現し始める。
しかし悪縷はその炎を見るや否やすぐさま笑みを濃くした。
「バッカじゃん! 今のでアクルちゃんが水属性だって分かんなかったわけぇ!? ――水撃刃!!」
悪縷が腕を薙ぐと、あっという間に炎は水の刃によって消されてしまう。
水と火は衝突すると姿を消してしまい、地面に沁みすら作らない。それどころか先ほどの金塊も気づけば姿が無い。
啓と悟は顔を歪め、目の前にいる悪縷を鋭い視線で見つめている。
「そんな恐い顔したって、アクルちゃん手加減できないよ?」
にっこりと笑って鈴音に近づこうとする悪縷を、五獣の面々は牽制する。
背中に隠すように守りながら、しかしその背中はどこか不安げだ。
「……ねぇ全の姫。アクルちゃんと交渉しようよ。啓ちゃん達をここで死なせたくないでしょ?」
「……どういうこと?」
「あんたが大人しくついて来るっていうなら、アクルちゃんは啓ちゃん達には手を出さないよ」
つまり自分の意思でこの謎の妖について行くという事だ。
鈴音はぎゅっと下唇を噛み締める。
啓達の安全を考えるならば答えはイエスだ。けれど自分の事を少しでも考えるならば答えは違う。
――恐い、けど……。
ここは投降した方が懸命な気がする。
鈴音はそう思い一歩踏み出そうとしたところで――啓達に遮られた。
「ふざけるな。俺達は五獣だ。全の姫をお前ら妖から守る為に在るんだ」
「……それに、ここで鈴音を見捨てるなんて、人間としてどうかと思うし」
「残念だけど、鈴音は渡せない」
「大体、お前ら百鬼夜行ってなんなんだよ!」
口々に悪縷を糾弾する彼らに、鈴音は目を丸くする。
まだ出会ってたった二日だというのに、彼らはこんな危険な状況で自分を守ろうとしてくれている。
不謹慎ながら、たとえそれが五獣の使命だとしても、嬉しくないはずがない。
けれど、これは些か無謀なようにも思える。
「ふーん、あっそう。ざーんねん。……それじゃ、力ずくでいこうかなぁ」
一瞬にして、殺気が迸る。
しかし五獣が動く前に、突然悪縷が巨大な岩に吹っ飛ばされた。
「!?」
鈴音たちが岩の現れた方向を見やれば、そこには人影が二つあった。
木々の影に隠れてその姿は分からないけれど、彼らはこちらに歩み寄ってきている。
「――時生、力みすぎです。口が利けなくなったらどうするんです?」
「玲、心に思ってもない事を言うな」
「おやおや、随分な物言いですね。……まぁ、間違っていませんが」
現れたのは微笑む栗色の髪の少年と、仏頂面の黒髪の少年だった。
彼らは森羅学園高等部の制服を着ている。つまり、鈴音たちと同じ生徒だという事になる。
二人は鈴音たちを一瞥すると、木の幹に倒れこんでいる悪縷に視線を戻す。
悪縷はぐったりとしたまま微動だにしない。気を失っているのか――そう思った途端、彼女はむくりと起き上がる。
「なに……してくれちゃってんの」
呟きには怒りが篭っていた。沸々と、湧き上がるような怒りがこちらにまで伝わってくる。
ゆらり、と揺れた悪縷の瞳は、野獣の類を彷彿とさせた。
乱れても美しいコバルトブルーの髪の隙間から覗く凶暴な光に、鈴音は命の危機をこれまで以上に強く感じる。
「あぁ、まだ生きていましたか。まぁ、あの程度で死なれても困りますけど」
くすりと笑ったのは、先ほど玲と呼ばれていた栗色の髪の少年だ。
長い髪を結び左肩から胸に流している。その栗色を弄りながら、玲は悪縷に鋭い視線を向けた。
「……もしかして、御神?」
悪縷がはっとしたように呟けば、玲と時生は少し驚いたような顔をしてから――深く暗い怨嗟の篭った笑みを浮かべた。
その深すぎる闇に、鈴音はおろか五獣も悪寒が走った。
「覚えていて下さったとは光栄ですね。えぇ、実に光栄で……もっと殺したくなる」
「……今ここで、滅する」
二人がぶつけてくる負の感情を、悪縷はさして気にもしていないらしい。
あっけらかんとした表情で「なんでここにいるわけー?」と二人に尋ねている。
「そんなのどうでもいいじゃないですか。あなたがいて、俺達がいる。……ほら、そこに全ての意味がある」
「ふーん、気色悪い。つまり、敵討ちって感じじゃーん」
完全に蚊帳の外となった鈴音達は黙って様子を見守る事しかできない。
玲と悪縷は剣呑な雰囲気で対峙しており、迂闊に口を挟めばこちらが危ういのは明白。
「えぇ、敵討ちですよ。今すぐにでも殺してしまいたい。しかしながら、俺達にも目的がありましてね――ねぇ、陽沙さん」
「!!」
視線を巡らせれば、長い黒髪の少女が一人、木々の間から姿を現した。
風に靡く漆黒はとても艶やかで、切れ長の二重の瞳からは強い意志を感じる。揺るぎないその心に、惹きつけられて離れがたい。
そしてその少女もまた、森羅学園高等部の制服を身に纏っていた。
同じ赤いセーラー服であるはずだが、鈴音からして見れば何故だか別物のように思える。
陽沙と呼ばれた彼女はゆっくりとこちらにやってくる。
悪縷は大きな目を更に大きく見開いている。それほど、この少女の登場は想定外だったらしい。
「……蜘蛛は今、どこにいる?」
静かな言葉が、風と共に流れる。
「教えるわけ……ないじゃん。はは、揃いも揃って、バカみたい」
悪縷の乾いた笑いに、陽沙という少女は眉間に皺を寄せた。
彼女が右手をすっと翳せば、迸ったのは目を疑うような強大な力。
鈴音は息を呑み、五獣はそれぞれ神経を尖らせ警戒を強める。
「御神の姫もさぁ、こんなところまでやってきて、恥ずかしくないわけ? ほんっとバカじゃん。滅んだのに、未練たらたらなんだ?」
挑発するような口調の悪縷だが、その表情から先ほどの余裕は窺えない。
玲と時生は静かに陽沙の前に立つと、ゆっくりと力の篭った腕を構える。
悪縷も腰を落とし気を高めている。
一触即発の危険な雰囲気。
鈴音はポケットに手をしのばせ、八卦鏡を握り締める。
もしこのまま悪縷が鈴音や五獣の事を忘れてくれればいい。
百鬼夜行や御神という聞きなれない言葉など、夢だったかのように霧散してしまえばいい。
――あたし、最低だ。こんな時に、自分の事ばっかり……。
目の前にいる少年たちは、勇敢にも自分を守ってくれようとしているのに。
こんな、知り合って間もないどこにでもいるような存在を、使命とはいえ守ろうとしているのに。
――情けないよ。一番あたしが、情けない。
すると、痺れを切らしたかのように悪縷が動き出す。
腕を薙ぎ払い水の刃を幾つも作り出す。それは乱回転しながら陽沙ら三人に向かう。
しかし、刃は巨大な岩に阻まれ陽沙達に届かない。
悪縷は小さく舌打ちすると、上空に飛び上がりそこでまた刃を生み出した。
「丁度いい。水術対決でもしましょうか?」
玲はそう言うと、悪縷と同じように腕を薙ぐ。
現れたのは水の刃、だが彼のものは悪縷のものよりも大きい。悪縷のものは一メートル弱といったところだが、玲のは三メートルほどはある。
「むっかつくー!! 悪縷ちゃん、まだ本気じゃないんだからね!」
「負け惜しみですか?」
ふっと玲が笑うと、悪縷はよほど頭にきたらしく地団太を踏んでいる。
しかし今度は時生が後ろから岩石を噴出させ、それが悪縷目掛けて飛んできた。
「きゃぁぁあぁああ!!」
玲に気を取られていたからか、悪縷はそれを避ける事ができなかった。
悪縷は直撃した岩石と共に、木々に体当たりする。
すぅーっと岩石は透明になり消えてしまったが、悪縷は痛みに呻き声をあげている。
「……陽沙さん、今のうちに」
「あぁ、分かっている」
何をするのかと視線を陽沙に注ぐと、彼女は悪縷に手を伸ばし――間一髪で悪縷の反撃を避けた。
「まだ動けたか」
「ナメてんじゃないわよ!! 御神のくせに、御神のくせに!! アクルちゃんはまだ全然戦えるんだから――!!」
悪縷はふらふらと立ち上がる。
「……怒ったんだから。もう、本気出しちゃうんだから!!」
その瞬間、悪縷から爆発的な禍々しさが巻き起こる。
背筋が凍るような冷たさと恐怖がじわじわと足元から迫りくる感覚に、鈴音は鳥肌が立った。
悪縷が一歩踏み出そうとした瞬間、地面に黄金のつららが突き刺さる。
空から降ってきたそれに、陽沙は後退する。
「――悪縷、そこまでですよ」
驚いて木々を見上げれば、悪縷が衝突した木の上に、赤髪の少年が座っていた。
平安貴族が着るような和服――狩衣――に身を包み、外にくるりとはねた髪の毛と、子供らしい少しふっくらとした頬。
一見すれば小学生のようだが、彼の特殊な外見と纏う雰囲気はまさしく異質だ。
少年は太めの枝に腰掛けているが、一体いつからそこにいたのか分からない。
恐らく妖なのだろう。しかも、相当の力を持った。
鈴音はこの状況にいい加減頭を抱えたくなってきた。そもそも全の姫と言われ二日目でこの大騒ぎは一体何の災いだ。
最早泣くどころかなんだか笑えてくる。
しかも訳の分からなさで言えば今日のほうが性質が悪い。
鈴音は溜め息を吐きながら、今現れた少年に視線を戻す。
「お久しぶりですね、御神の姫」
少年は微笑みながらそう言うと、陽沙に向かって右手を薙ぐ。
出現した黄金のつららが空を裂き、深々と地面に突き刺さった。
陽沙は微動だにせず、ただ双眸を細める。
「……温羅か」
「えぇ、そうです。百鬼夜行が妖、温羅です。やはり覚えていましたか」
「当たり前だ。私が貴様らを忘れるとでも? ……本当に、癇に障るな」
忌々しげに陽沙は言い放つと、玲と時生が前に出てきた。
温羅は彼らを見ると少し嬉しそうに笑い、「守護者もご健在とは、ふふ、面白い展開です」と意味深な呟きを漏らす。
「ていうか温羅さぁ! 無駄話してんならアクルちゃんの邪魔しないでくれるぅ!? ほんっとウザいクソガキ!!」
しかしそこに悪縷の罵声が飛んでくる。
呼び止められたのにも関わらず放置された苛立ちがあるのだろう。
悪縷は温羅を睨みつけるが、温羅はまだ微笑んでいる。
「悪縷、あなた任務を忘れたんですか?」
「はぁ!? 忘れてないっつーの!! 全の姫にアクルちゃん、ちゃーんと挨拶したし! でも、御神が邪魔するから……」
子供が言い訳するような口調で悪縷は言えば、温羅は「はいはい」と肩を竦めた。
外見でいえば温羅の方が子供なのだが、中身は悪縷の方がよっぽど子供らしい。
「いいですか悪縷。蜘蛛様は隙があれば全の姫を捕獲してこいと仰ったのです。あなたは元々偵察です。そのこと、忘れてません?」
「うぐっ……!! わ、忘れてないわよ! それにいずれ捕まえるなら今だっていいでしょ!?」
「いいえ、今はどちらにせよ無理ですよ。御神もいますし、それに」
「なによ!」
「僕は蜘蛛様から撤退命令が出た事を伝えに来たんです」
「はぁあッ!!!?」
温羅の言葉に悪縷は甲高い声を上げた。
陽沙達もそれには驚いたようで、些か目を瞠っている。
鈴音からすれば有り難い以外のなにものでもないが。
「ちょっと、それマジで言ってんの?」
「大真面目です。……訳は蜘蛛様から直接聞けばいいでしょう?」
「……命令なら、蜘蛛様の言葉なら従うけどぉ」
悪縷は渋々と言った様子で引き下がると、一歩、また一歩と木の根元まで後退る。
「それでは、森羅、そして御神の皆さん、またお会いしましょう」
「次はアクルちゃん、容赦しないんだからね――!!」
二人はそう言うと、あっという間に空気に溶けて消えてしまった。まるで元から存在していなかったかのようだ。
鈴音は突然切れた緊張の糸に、全身の力が無くなっていくのを感じる。
へにゃりと座り込みそうになるのを、何とか根気で踏ん張る。
「……どうやら、俺たちは命拾いしたらしい」
「そう、だね……」
啓の言葉に爽と悟と類が頷くけれど、その表情は曇っている。
鈴音は視線を陽沙達のところに向けるけれど、彼女は虚空を睨んだまま動かない。
憂う瞳には強い光が宿っており、鈴音はその輝きに圧倒されて固唾を呑んだ。
鈴音の怯えにも似た感情を読み取ったのか、五獣の四人が心配そうな顔をしてこちらを見やる。
すると陽沙が鈴音達に視線を向け、
「……随分と、情けなかったな」
たった一言だけ呟いた。
まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃が駆け巡る。
痛いところを突かれたというのもあるけれど、彼女の真っ直ぐで偽りや飾りのない言葉そのものが、痛い。
陽沙はそれだけ言い残すと、玲と時生を連れて踵を返して行ってしまう。
何か追いかけて言葉をかけようとしたけれど、鈴音にはそれができなかった。
どうしようもない無力感と疲労感が、鈴音の感覚を支配していく。
五獣の面々も沈黙したままで、鈴音達は重苦しい雰囲気のまま生徒会室へと戻るのだった。