弐
翌日、鈴音は寝惚け眼で教室に入った。昨晩は胸騒ぎが収まることがなく、悶々としたまま過ごしてしまい結局寝たのは十二時過ぎだった。
――眠い。眠い、眠い眠い眠い……。
うとうとしながら何とか自分の席まで辿り着く。そのまま鞄を机の横にかけると、鈴音は腕を枕に眠りにつこうとした。が、しかし。
「あ、啓くんだ! おっはよー」
「爽くんおはよー。ねぇこの間言ってたノートの取り方なんだけどぉー」
「類お前たまには部活顔出せよ!」
「悟くん、これ良かったら使って」
「あ、ちょ抜け駆け! 悟くん、これ良かったら食べてね!」
「おい啓お前マジでテスト満点取ったのか!?」
「北海ー、さっき飯田が職員室来いって言ってたぜ」
「西城先輩、これ作ったんで貰って下さい!」
廊下から聞こえてくる沢山の声に、鈴音はむくりと顔を起こす。見れば昨日唯に教えて貰った生徒会の面子が女子生徒や友達に囲まれていた。
――あー……見たことあるなぁ。
それもそのはず。鈴音が殆ど覚えていないだけで、彼らは去年も高等部の生徒会役員として活動していた。ただ去年は彼らも一年生ということもあり、今年ほど目立ってはいなかった。
「あれ、鈴音おはよー」
「……おはよう」
「うっわ目の下にクマできてるし。夜更かしでもした?」
教室に入ってきた唯と美奈に挨拶をしてから、鈴音はまた机に突っ伏した。朝からこうもうるさくされては敵わない。流石におちおち寝てもいられないが、鈴音はもう一度目を閉じた。
「もうすぐ先生来るよ。ていうか、一時間目数学だけど」
「あぁ忘れてた!!」
唯の言葉に鈴音は飛び起きる。数学は鈴音の大嫌いな科目であり、また数学の担当教師は寝ている生徒には容赦なく雑用を任命することで有名だ。
「最悪……」
鈴音はがっくりと項垂れると、諦めたように顔を上げて唯と美奈を改めて見た。二人ともいつも通りだ。いつも通りなのだが、何だか違和感を感じる。凝視したまま首を傾げていると、美奈が困った風に微笑んだ。
「実はさっきたまたま啓くん達に逢ってさ」
「もう美奈ったら興味ない素振りで『たまには先輩に顔見せたら?』なんて話しかけちゃってねぇもう!」
ほんのりと頬を染めた美奈に、鈴音は自分の口の端が釣りあがるのが分かった。普段男勝りで姉貴分なだけに、こういう可愛らしい美奈を見れるのが嬉しいのだ。それに纏っている雰囲気が急にしおらしくなるのがこれまた可愛いと思う。
「美奈も女の子だもんねぇ。あー、ただの野蛮陸上女じゃなくて良かったー」
唯がほっと胸を撫で下ろしていると、隣で美奈が顔をひきつらせる。
「誰が野蛮陸上女だって……?」
「いたたたた!!!!」
美奈が唯のこめかみに拳を思い切り押し付ける。そしてぐりぐりと力を込めてやると、唯は案の定痛みで声を上げた。
「うっわぁ痛そう……」
「痛いわよ!! あ、ちょ、ま! ストップ! ギブギブ!!」
唯が叫ぶと、美奈は勝ち誇ったような表情で拳を離してから唯を笑った。唯は涙目になりながら美奈を睨みつけると、また小さな声で「野蛮なんて言葉じゃ表現しきれないわね」と悪態をつく。
「何か言った?」
しかし美奈にじろりと睨みつけられてしまい、観念したのかちろっと下を出して肩を竦めた。美奈は陸上部の期待の星であり、中学の頃から大会に出ては新記録を打ち出したりと何かと話題のつきない選手である。森羅に進学してから美奈と出会い、その運動神経の良さには見るたびに毎回毎回拍手してしまう。
「で、鈴音はさっきから何ニヤニヤしてるの?」
「え?」
美奈に指摘されて鈴音は慌てて口元を隠す。にやにやしていたつもりはないのだが、美奈と唯曰く「感情が表に出やすい」という事らしいので、きっと顔が緩んでいたのだろう。
「あ、もしかして鈴音もやっと興味出たとか?」
「違う違う! そうじゃなくって……!」
面白いものを見つけたときに見せる、唯の爛々と輝いた瞳に気づいた鈴音は、すぐさま否定する。実際興味はないのだし、ただ睡眠の邪魔をされただけだ。それににやついてしまったのはきっと可愛らしい美奈の態度によるものであって、決して彼らのその端整な顔にあてられたわけではない。
「えー、つまんなーい」
「つまんないって……。もう、唯ちゃんにかかったらなんでもネタになっちゃうんだから」
頬を膨らませた唯に鈴音は脱力する。いつのまにか廊下はいつも通りの賑やかさに戻っており、教室も殆どのクラスメイトが顔を揃えていた。
「あ、そういえば」
何かを思い出したように唐突に唯が声を上げる。鈴音と美奈が視線を注ぐと、僅かに眉を顰めてから唯は声のトーンを落とす。
「まだ確定情報じゃないんだけどさ。……今回の選挙、なんでも変な事が起こるらしいの」
「変なことって?」
「それがさぁ、なんでも補佐委員っていう枠を一つ作るんだって」
補佐委員。あまりピンとこない。
「……その枠は選挙しないで生徒会が決めるらしいんだけど。なんでも役員の増員を視野に入れての、理事長と啓くんからの提案なんだって」
一体どういう事だろうか。鈴音と美奈は顔を見合わせてから唯へと視線を戻す。唯も唯で怪訝そうな顔をしており、重たい溜め息を一つ漏らした。
「まさか私がこんな不確定要素の話をする日がくるなんて……」
「そこか」
「そこ以外のどこにツッコミ所があるって言うのよ」
その唯の言葉に、今度は鈴音と美奈が重い溜め息を吐く。しかし唯は不服そうに顔を背けながら「冗談よ、じょーだん」と呟く。全く冗談に聞こえない辺りが唯らしいのだが、鈴音は苦笑いを浮かべて適当に相槌を打っておいた。
「でも、理事長からなんて確かに変だよね。まぁどうせ成績上位の人とかだろうし。うちらには関係ないよ」
「だよねー。……あ、先生来たよ」
美奈の言葉に鈴音も深く頷き、そして教室に入ってきた担任の顔を確認すると唯も美奈も席へと戻って行く。
いつの間にか鈴音の眠気はどこへと吹っ飛んでいた。結局一時間目の数学はおろか他の教科でも板書を書き写すのに必死で、鈴音は午前中の授業ですでに燃え尽きてしまった。
そして今は昼休みで、鈴音たちは昼食の前にトイレに寄っていた。
「……うっわぁ、目の下にクマできてるよー」
鏡の前で鈴音はがっくりと肩を落とす。クマが出来るなんて今まで滅多になかった。それだけに何だか悔しい。顔を洗ってさっぱりしていると、隣にやってきた唯が小さく唸り声を上げた。
「あー、なんか面白いこと起きないかなぁ」
「今選挙しているし、それだけじゃ駄目なの?」
鈴音が小首を傾げると、勢いよく顔を上げた唯の鋭い視線に睨まれる。
「甘い! 甘いわ! いくら選挙が啓くんたちとは言え、対立候補のいない選挙はつまらないのよ!!」
その言葉に鈴音は先日貰った選挙広報に載っていた面子を思い出す。そういえばそれぞれの役職に対立候補がいなかったような気もする。確か去年は会計が対立候補で選挙だった。それを唯に確認すると、驚いた目で見られてしまった。何だか複雑な気持ちだが、一応その程度の事を覚えられる余裕は持ち合わせている。
「まぁ、啓くん以外に会長になれる人間なんてこの学年にはいないと思うけどね」
「どういう意味? ていうか、唯ちゃんがそんな事言うなんて珍しいね」
「そう? ま、啓くんと爽くんは中学も会長と副会長でさ。なんていうか、凄い“しっくりくる”んだよね」
「?」
鈴音には唯の言う「しっくりくる」の感覚がよく分からない。それは彼らをよく知らないという事もあるだろうが、生徒会選挙というものを重んじている森羅学園特有のものなのかもしれない。
そんな会話をしていると、いつの間にか美奈が鈴音の隣にいた。そのままトイレから出て教室まで戻ろうと歩いていると、突然後ろから女子生徒の甲高い声が廊下に響いた。
「うるさ」
美奈が後ろを振り返ると、そこには先ほどまで話していた生徒会メンバーの四人がいた。朝の時のように沢山の人に囲まれていたわけではないが、彼らを見つめる女子生徒たちの眼差しには熱が篭っている。
「なんかさぁ、時々思うけどこれってもう何年続いてるんだろうね」
「もう中等部からずっとじゃないー? 四、五年? うっわそれ自分事ながら凄いわ」
美奈がぽつりと漏らした言葉に、唯が呆れたように言葉を返し、鈴音はただただ苦笑するばかりだ。
「でも……大変そうだね」
鈴音は見ていて少し彼らに同情してしまう。毎日毎日騒がれていたらきっと疲れてしまうはずだ。本人たちが嫌がっていなければ話は別だが。
「あぁそれにしても今日も悟くんの目は切れ長ね」
「いやそれ当たり前じゃん。ていうか日ごとに変わってたらヤバくないか」
「んもう! 美奈の分際で揚げ足なんてとってるんじゃないわよ!」
「唯ちゃんそれ横暴だよ」
何となく立ち止まってそんな話をしていると、いつの間にか彼らがもうすぐそこまで歩いてきていた。鈴音はそれに気づいて思わず身を固まらせる。
「あっれー? もしかして意識してる?」
「し、してないよ!」
「嘘つきなさんなって。ほぅら、顔上げて見てみなって。別に咎められたり睨まれたりしないから」
唯と美奈に背中をとんと押されて、そのままゆっくりと顔を上げる。大丈夫大丈夫。目なんて合わないし睨まれたりもしない。そう思って視線を辿ってみるが――。
「ッ!!」
鈴音は思わず息を呑んだ。本当に一瞬、一瞬だった。しかし彼ら全員が一斉に鈴音の事を見てきた。自意識過剰なのかもしれないと思ったけれど、しっかりと視線と視線がかち合ったのだ。
――どどどどどうしよう……ッ!?
何か自分は悪い事でもしただろうか。そう思って記憶を探ってみるが心当たりはない。
「……おーい、鈴音?」
「う、え、あ、ななななにっ!?」
控えめにかけられた声にさえ鈴音は大げさに反応してしまい、二人から困ったような、不審な目で見られてしまう。
「いやぁ、どうしたのかなって」
「ななななんでもありませんっ!」
鈴音は自分でも顔に血液が集中していくのが分かり、思わず顔を背けて教室まで駆け込んでしまった。
――あぁぁぁきっと変だって思われたよね! 美奈ちゃんにも唯ちゃんにも、それに……。
きっと彼らにも。何故こんなに自分の心がざわついてしまったのか分からない。男の子と目が合ったくらいで照れてしまうほど、自分には免疫がないわけではない。けれどうるさいほど胸は高鳴り、心の奥底がざわついて仕方がないのだ。
「はぁ……」
鈴音が机に項垂れると、教室に入ってきた美奈と唯とばっちり目があってしまった。しかも二人は怪しい笑みを浮かべて鈴音を見ている。
――うっわぁ、絶対からかわれるよ!!
勿論その後の事は鈴音の予想通りで、げっそりしたまま午後の授業を過ごすのだった。
二日後、午後の二時間を使って生徒会選挙が行われた。体育館でそれぞれの立候補者の演説を聞き、それから教室に戻って投票する、という形である。体育館には全校生徒が集まり、少し暑苦しいぐらいだ。
鈴音は大人しく座りながら、何となく周りの雑談に耳を傾けた。他愛ない話だったけれど、その時間がひどく穏やかに感じて少し物悲しくなる。最近感傷的になりやすいな。などと思いつつそっと視線を前に向ければ、そこにはこれから演説をする彼らの姿があった。姿勢正しく椅子に座っているだけなのだが、不思議とそれも絵になるのだからおかしな話だ。やはり容姿の美醜というのは大事なのかもしれない。
「はぁ……」
溜め息を漏らすと、後ろに座っている唯と前に座っている美奈が身を乗り出してきた。
「辛気臭い顔してー。どうしたのよ?」
綺麗なパイプ椅子をわざと軋ませながら、唯は鈴音の首に手を回す。
「んー、別にどうって事はないんだけどね」
ただ何となく気乗りしなくて。
素直な気持ちを伝えると、唯と美奈は眉根を下げて「そっかぁ」とあえて深く突っ込まずにただそれだけ言ってくれた。結局選挙演説が始まってからも鈴音はうわの空で、まもとに話を聞いていた時間はきっと三分も無かった。教室に戻るときに美奈と唯にとても心配されたが、別段具合が悪いというわけでもないので、鈴音は「大丈夫」と苦笑いを浮かべた。
――なんか、落ち着かないなぁ。
一体どうしたというのだろうか。昨日彼らと目が合った瞬間から、鈴音の中の何かがずっとざわついている。教室に戻ってから説明を受け、そして投票用紙を貰う。それも鈴音はすぐに全員に信任票を入れて机に突っ伏した。
どうせ誰かが落選なんてことはないのだ。ぼんやりと投げやりに考えながら鈴音は小さく溜め息を漏らす。
とくん、とくん。自分の心臓の音を聞きながら、教室の喧騒をどこか遠くに感じる。スカートのポケットに手を忍ばせれば、そこには祖母から貰った形見の鏡があった。いつも肌身離さずに持っているように言われ、鈴音はこの鏡を大切に身に付けている。
八角形になっている縁をなぞれば、不思議と心のざわめきも収まっていく。昔祖母に言われたことがあった。この鏡には、不思議な力がある――と。この鏡を受け取ってからもうどのくらい経っただろうか。祖母が亡くなったのは鈴音が十の頃だったから、もう今年で七年になる。鈴音が普段から手入れして磨いているわけでもないのに、この鏡は今も尚美しい。
――そういえば、お祖母ちゃんも、お祖母ちゃんのお祖母ちゃんから貰ったって言ってたなぁ。
鈴音からすれば曾々祖母にあたる。つまり鈴音の鏡はもうずっと何十年と昔から受け継がれているものなのだ。ポケットから取り出すと、机の上に乗せて観察するように手で弄ぶ。
森羅の高等部は何故か女子は赤のセーラー服で――中等部はブレザーなのに――、普段はこの鏡は首からぶらさげている事の方が多い。けれどここ数日、正確には一昨日から鏡から何か引力のようなものを感じた鈴音は、自分の心臓から遠いスカートのポケットにその在りかを移動させた。
――ちょっと不気味なんだよね。
これに似た事が前にも一度だけあった。祖母が死んだ日だ。祖母が亡くなる数日前から急に鏡が光り出したり、鈴音に何かを訴え掛けるように不思議な何かを発していた。その時も鈴音は怖くなって鏡をポケット――なるべく自分の心臓から遠いところ――へと移したのだ。
――……変なこと、起きなきゃいいけど。
鈴音がぼんやりと鏡を見つめていると、前の方から担任の男性教師に名前を呼ばれた。なんだろうと思って身体を起こせば、丁度ホームルームが始まろうとしていて、鈴音は慌てて背筋を伸ばす。
「鈴音……本当に大丈夫?」
後ろから美奈に声をかけられ、鈴音は今度は「うーん、駄目かも」と苦笑いを漏らした。
そして翌日、選挙の結果が発表された。勿論全員当選である。各役職共に対立候補のいない選挙だったため、全て信任投票だった。面子を見れば誰も落選などしないのは明らかであったし、きっとこの面子でなくても滅多なことでは落選などない。
「ま、予想通り味気ないわね」
昼食の時間に愚痴愚痴と言っていたのは唯だけで、教室の空気はいつも通り和やかだ。選挙前は皆騒ぎに騒いでいたが、終わってしまえば思いのほか引き際を弁えているのか、朝以降は話題にすら上がらない。鈴音のおかしな胸のざわめきは少しは治まったものの、奥底ではまださざめている。隣で弁当をつついている唯が、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえばもうすぐゴールデンウィークだし、どっか遊びに行かない?」
「ごめん。うち部活で大会あるから」
「えー、つっまんなーい」
「仕方ないよ唯ちゃん。美奈ちゃん、頑張ってね! あ、折角だから応援行こうか?」
「んー、そんな大した大会じゃないし、いいよ。それよりも、あんたは中間に向けて勉強すること!」
「えぇー!」
「あ、ならこの唯様が分かりやすくかつ丁寧にご指導ご鞭撻のほど、しちゃうけどー?」
「唯ちゃんスパルタだからやだよー」
「ははっ、確かに!」
「ちょっと美奈まで……ッ!」
唯の慌てた反応に、鈴音と美奈は顔を合わせて笑いあう。やはり唯は反応が大きいから面白い。ついつい鈴音は美奈と一緒になって唯の事をいじめてしまう。
「ふんだ! 直前になって泣き付いてきても知らないんだから」
「えぇー?」
「今回は本気よ。英語も駄目。数学も教えてあげない。国語は鈴音得意だし、大丈夫でしょ? あ、問題は現国よりも古典かな?」
今までの仕返しとばかりに唯はにやにやとしながら鈴音の顔を覗きこむ。唯はその情報網もさることながら、成績も優秀でいつも学年トップにいる。鈴音は参ったとばかりに「すみませんでしたぁ」と弱々しい声で頭を下げた。
そんなこんなで、昼休みは終わりの鐘を告げた。そしてその日は随分と時間が穏やかに過ぎていき、鈴音はすっかり嫌な予感のことを忘れていた。帰りの下駄箱で、たまたま通りがかった彼らが、鈴音の事を見ていたことなど、気づかずに。