壱
「頭痛が、してきたかも……」
春日鈴音十七歳。彼女は今、高校二年生にして人生最大のピンチに直面している。どれぐらいピンチなのかと言われれば、比較対象がないため回答不可と答えるしかない。それぐらい、今陥っている状況は彼女にとって非現実的であり尚且つ異常だった。
「まぁまぁ、落ち着いて」
逃げようと屋上の扉に手をかけるが、がっしりと肩をつかまれてしまう。端整な顔が四つ、鈴音の目の前で困惑した表情になった。
「ま、仕方ねぇよな。こんな状況すんなり理解できる方がどうかしてるぜ」
「類の頭もどうかしてるけどね」
「黙れお前ら」
鈴音は言い合いをしている彼らを一瞥すると、引きつった顔で上空を見上げる。
「……あれ、なんなの」
鈴音がゆっくりと指差したそれを見て、少年の一人が面倒そうに舌打ちした。
目の前には黒い塊が、空一面を覆い尽くしている。鈴音は口を開かない彼らを見つめながら、必死で頭を整理する。つい数時間前には体育館で認証式を行っていたはず。そんな彼らは今屋上で緊張した面持ちで塊を睨みつけている。その様子さえも鈴音はまるで違う世界の出来事のように見えてしまう。
一体いつ、自分は道を間違えたのだろうか。何故、今こんな不可解な事象に関わっているのか。もしかしたら、これは既にあの時から始まっていたのかも知れない。
そう、あれは遡ること一週間前。
柔らかな日差しの降り注ぐ春の陽気と、はらはらと舞い散る桜の花弁。つい先日まで美しく咲き誇っていた桜の木々たちも、今では少しずつ若葉を覗かせている。ここ私立森羅学園は今年も無事に新入生を迎え、活気に満ち溢れていた。それはこの高等部でも同じであった。
森羅学園は小等部から大学までの一貫校であり、その広大な敷地面積と整った設備が人気の、地元では有名な私立学校である。ちなみに今は昼休み。机を向かい合わせにし昼食をつついたり、中庭に行ってのんびり過ごしている生徒もいる。
「す〜ず〜お〜と〜」
「ひぃっ!!」
そんな穏やかな春の日、一人の少女が小さく悲鳴を上げた。視線の先には笑顔を引きつらせ写真を握り締めた少女。
「唯、その辺にしてあげれば?」
弁当に箸を伸ばしながら、くすくす笑っている少女は何処か活発さの中に優雅さを感じる。
「美奈っ!! あんたは甘いっ」
「違う!! 唯ちゃんが厳しいんだぁ!!」
「鈴音が教えてっていうから教えたのに……」
ブツブツとふて腐れた唯に、美奈という少女も苦笑いを漏らす。そして鈴音と呼ばれた少女は二の句が継げない。
「でもね、唯。どうでもいいけどあんた写真丸まってるわよ?」
美奈こと相田美奈は、唯こと松本唯の手に握り潰されてしまった無残なそれに視線を向ける。案の定、唯は大きな奇声を上げた。突然の事に教室にいた生徒は勿論、美奈と鈴音も驚いて耳を塞ぐ。
「うわぁあぁ! 写真が! 私の撮った写真がぁ……!!」
悔しさと哀しさの入り混じった鼻声で項垂れる唯に、鈴音こと春日鈴音は手を合わせた。美奈もそれに倣い合掌する。
「こらぁ! 勝手に殺すな!!」
すると唯は勢い良く頭を上げて鈴音と美奈を睨みつける。そして起き上がると自分の弁当箱に箸を伸ばして玉子焼きにざっくりと突き立てた。
「大体ねぇ、毎度の事ながらあんたは呆け過ぎなのよ」
「すみません」
玉子焼きを頬張りながら指摘する唯に、鈴音は俯いて肩を竦めた。美奈はそんな二人の様子を見ながら、口元を綻ばせている。
「ふんっ。もう鈴音に教えてあげないんだからね」
「えぇ! 教えてよー。だってあたし全然分からないし」
「美奈にでも教えてもらえば」
唯はそっぽを向いてしまい、視線すら合わせてくれなくなる。鈴音と美奈は苦笑いを浮かべながらも、唯を拝んだ。
「お願いします! この通りだから! 学校一の情報通、松本唯様に教えていただきたいんです」
「教えていただきたいんです!」
「ふぅん。本当に?」
「本当に!」
鈴音は唯に手を合わせて頭を下げる。先ほど言った学校一の情報通というのは強ち間違いではない。唯はいつも鈴音と美奈に面白い話を聞かせてくれるし、彼女自身が情報というものを重んじており自身も広報部に所属してその才能を遺憾なく発揮している。唯が物凄い情報通と言う事を学年の女子の大半は知っている。
唯は「仕方ないなぁ」と写真の皺を懸命に伸ばしてから、膨れ上がっているファイルにそれを収める。そして別の写真を取り出すと、それを鈴音に突き出した。
「いい!? 何度も言うけど、今は選挙期間中なの。見なさいよ、廊下に校門に教室にと貼られた掲示物を!!」
そう言われ、鈴音は改めて教室を見回す。確かに、黒板の隣にあるボードにそれらしきプリントが貼られていた。
「そして、これが生徒会長に立候補した南啓くん!」
「あの、ちょっと唯ちゃん!? 近いよ近いってば!」
あまりにも勢い良く突き出された写真は、鈴音の視界を目一杯塞いでいる。そのせいで肝心の写真の人物さえよく見えない。
「あ、っとと。こりゃ失礼」
唯は慌てて写真を鈴音の顔から離すと、机上に他の写真も合わせて並べていく。
「はぁ。……にしても、こんなイケメンってそう簡単に集まれるわけ? 生徒会イコールイケメンなんてどこの漫画よ馬鹿ヤロー!」
「何の叫びだそれは」
写真を見て喚き始めた唯を、美奈が呆れた様に一瞥する。確かに写真を見る限りでも、今話題の生徒会役員の面々は誰も容姿端麗と形容するにふさわしい。
――いやぁ、だからどうっては事は無いんだけどね。
鈴音は別に面食いというわけでもない。それに何かと唯と美奈の話題に上がる彼らに興味があるわけでもないのだ。だから実際問題、興味の無いものを覚えるのは難しく、唯に幾ら説明されても中々覚えられない。
「だってだって、中等部の子達なんてわざわざこっちに来てまで見るんだよ!? ありえなくない!?
「実際起こってることならありえなくはないってことじゃん。どーせあんたの妹が筆頭でしょ?」
美奈がにやにやしながら茶化すと、唯は小さく唸り声を上げて黙り込んでしまう。どうやら図星のようだ。
「でもどうせ美奈の妹だって来てるんでしょ?」
「さぁねぇ。それよりも、ほら。さっさと説明してあげなって」
「……上手くかわしたな。やるなおぬし」
「唯ちゃん、口調が武士っぽいよ」
鈴音が真顔でつっこむと、美奈はけらけらと笑い出す。唯は唯で澄ましたような、少し照れたような顔になっている。
「で、啓くんだったわね。彼は成績優秀、運動神経抜群、それでいて寡黙で威厳のある雰囲気を持つ硬派な人よ」
「へぇー、硬派なんだ。確かに写真も表情硬いね」
鈴音は唯が取り出した写真を眺める。他の三人に比べて、彼だけは眉間に皺が寄っているし嫌そうな表情だ。きっと唯ちゃんとかのテンションに圧倒されたんだろうなぁ。と鈴音はそんな事を思いながら微笑を零す。
「ちなみに元陸上。美奈がよく知ってるんじゃない?」
「……あ、そういえば」
唯の視線の先を辿れば、ほんのりと頬を赤く染めた美奈がいる。鈴音も薄っすらとだが、前に美奈が彼の事を中学の頃から気になっていたと聞いた記憶がある。
「べ、べつに。ただ足はめっちゃ早くて、練習にも真面目に参加してたってことぐらいだよ」
「でもそこがぐっときたんでしょ〜?」
「からかわないでよ……」
不機嫌そうにツンと突っぱねた返事をした美奈に、鈴音は思わず顔を緩ませた。
「乙女な美奈ちゃん、なんか可愛いね」
鈴音がそう呟くと、美奈と唯は互いの顔を見合わせる。そしてきょとんとしている鈴音に思いっきり抱きついた。
「あんたのそういうとこ、すっごい可愛い!」
「このこのー! お姉さん達にもいい加減気になる相手教えなさいよー!」
「えぇ!?」
「なんでそういう話になるの!?」と鈴音は目を剥く。美奈と唯は一頻り鈴音にべたべたとすると、満足したのかすっと身体を離した。
「ではそんな可愛いお嬢さんにはこの松本唯、ちゃんと説明してあげるわ! 次は副会長に立候補した北海爽くんね!」
唯はびしっと金髪の少年が映っている写真を指差す。少し垂れ目の柔和な目元と、優しげな口元が印象的だ。
「彼の笑顔は“天使の笑顔”と異名がつくほど。……って、実際そう呼んでる人あんましいないけど。まぁ、怒らすとめっちゃ怖いってのは一部では有名な話しね」
「え、そうなの?」
写真から受ける感じからは全く想像ができない。が、優しい人ほど怒らせると怖いというのはありがちなパターンかもしれないな、と鈴音は独りごちた。
「それで、なんで金髪なの? ハーフとか?」
鈴音が思ったままの疑問を口にすると、唯は記憶から情報を探しているのか、一頻り唸ってから口を開いた。
「そうよ。確か彼のお母さんがオランダかどっかの人だったと思う」
「情報通の唯ちゃんでもそこははっきりしないんだ?」
「あんまり爽くんのお母さんって見ないのよ。本人もハーフって事しか教えてくれないし」
口達者な唯に情報を渡さないなんて凄い。鈴音は違った意味で北海爽という人間に驚嘆した。
「んで、これが私の大本命こと東間悟くん」
随分な贔屓だこと。美奈の皮肉を無視し、唯は一気にジュースを飲み干す。これは唯が本気で語りだすときのクセでもある。
「悟くんは無口で飄々としてるのに、意外と面倒見が良くて、それでいて何処か冷めてるの!! それって素敵じゃない!? 素晴らしいギャップじゃない!!」
「あー、始まったよ。なんで悟くんの時だけこうなんだか……」
「飲み干した時点で覚悟したけど、相変わらず凄いよね」
鈴音と美奈だけでなく、教室にいるものは唯の語りぶりに少々ひいている。そんな事もお構いなしに唯は意気揚々と喋り続け、鈴音の耳は大半の内容を流していく。写真を見れば、くるくるとした髪の毛が醸し出す可愛さと切れ長の瞳の鋭利な雰囲気が何ともいい按配というか、ギャップになっていた。
「……で、後輩受けする類くんは?」
唯が喋りつかれ息切れしているところに、美奈が追い打ちをかけるように問いかける。しかし、この程度で終わる唯ではなかった。不敵に笑うと一番右の写真を指差す。
「西城類くん。悟くんの幼馴染で元サッカー部。明るくて元気な性格だから、友達は男女共に多いわね。生徒会のムードーメーカー的存在で、後輩からも慕われてるみたい」
「なんか、物凄い良い人なんだね」
鈴音は写真に視線を落とす。少し釣り目の大きな二重の瞳と、豪快に歯を見せて笑う彼からは、人懐っこさと親しみやすさがにじみ出ていた。
「どう? これで少しは覚えた? 森羅じゃ生徒会選挙ってのはもう名物みたいなモンだしね。ちゃんと覚えなきゃ駄目よー」
唯は満足そうに頷きながらまた東間悟についてぶつぶつと語り始めたが、鈴音と美奈は苦笑いで耳から流していた。
「にしても、なんか今年は凄い選挙になりそうだね」
美奈の言葉に釣られて視線を教室にいるクラスメイトたちに向ける。耳をそばだててみると、確かにあちらこちらで選挙についての話をしていた。
「凄いね。中学のときなんて、皆あんまり関心なかったのに」
鈴音は自分の通っていた公立中学校の事を思い出す。秋にあった選挙では立候補者や関係のある生徒以外はこれといって変化がないのが常だった。しかし、森羅学園に進学してからはその違いに驚かされた。
去年、一年生でよく分からない事だらけだった鈴音に優しく声をかけてくれたのが美奈と唯だった。あの時も、選挙への関心の高さには驚かされるばかりだった。
「んー、あたし達はずっと森羅だから他所がどうなのか分からないけどさ。でも、なんでだろうね。なんか、結構昔はそうでもなかったらしいけど」
「教えてあげましょうか〜?」
「うわっ!」
鈴音と美奈の間にぬっと唯が姿を現し、鈴音は思わず声を上げてしまう。唯はいつの間にか写真などをしまっており、びしっと鈴音に指を突き立てた。
「今から約二十年前の高等部生徒会選挙。その時に会長になった人が学校に革命を起こしたらしいわよ」
「か、かくめい……ッ!?」
生徒会長が学校革命。なんというか、とても響きがかっこいい。それに何だかわくわくする。
「ま、革命って言っても荒れてた校内環境を僅か一年で変えてみせたって事らしいけどね。それから、生徒会長ってのはこの森羅じゃすっごい大事な存在になってるんですって」
「でも凄いね。一年で……。それにかっこいい!」
鈴音が目を輝かせていると、男子の方から馬鹿にするような笑い声が飛んで来た。じっと唯と美奈が視線を浴びせると、笑っている男子生徒はそれに気づいてこちらにやってくる。
「なんだよお前ら。つーか騒いでんの女子だけだろ」
「……何のよう? 若林」
若林と呼ばれた男子生徒はにやにやしながら美奈の前に立つ。他の男子生徒は口々に彼に「止めろよ」と言っているものの、当の本人は意にも介していない。
「選挙なんてどうでもいいじゃねぇかよ、実際。んな事よりお笑いライブでもやってた方がマシだろ。なぁ!?」
その言葉に鈴音も美奈も唯も深い深い溜め息を吐く。彼は大のお笑い好きで、とにかく隙あらば自分のお笑いライブを開こうとする。正直、あまり面白くないのだが。けれどそれを本人に言っては傷つくことは目に見えているため、あえて誰も教えない。いつか自分で気づくことを願うばかりである。
「ま、南の奴がリコールでもされたら面白いけどなー」
だっはっはっはっは。と笑う若林に、美奈が思い切り胸倉を掴む。その剣呑な雰囲気に、教室中が固まった。
「滅多なこと言わないでよ。ていうかさぁ、あんた何様? あんたに口出しされる筋合いもないし。本人たちが真面目にやってるのに。あんたサイテー」
「……美奈、ストップ」
唯が若林の胸倉から美奈の手を引き離す。鈴音はどうすればいいのか分からずただ立ち尽くし、クラスメイトも固唾を呑んで見守っている。
「だって唯……」
「だからって暴力は駄目に決まってるじゃない。……若林。あんたもさぁ、啓くんに関してで突っ掛かるの止めたら? 大体、対立候補もいない選挙で、しかも啓くん。リコールなんて誰もするわけないじゃん」
唯の言葉に若林は悔しそうに言葉を詰まらせた。しかし鈴音は唯の言葉に引っ掛かりを感じている。何かまるで南啓と若林に因縁でもあるかのような言い方だ。若林はそれ以上何も言葉を発さずに、自分の席へと戻っていく。教室中が安堵の溜め息に包まれ、鈴音も胸を撫で下ろす。
「ったく」
美奈がどっかりと椅子に腰を下ろし、乱雑な手つきで髪の毛を掻いた。その仕草は美奈が自己嫌悪しているときや不調を表す癖であり、それを見た唯と鈴音は困惑気味に眉根を下げる。鈴音は胸の奥がざわつくのを感じ、そっと窓の外に視線をはしらせた。
――……お祖母ちゃん。あたし、このままでいいのかな?
ふと思い出したのは優しい祖母の顔だった。鈴音はそもそも祖母の遺言により森羅学園の高等部に通っている。お祖母ちゃん子だった鈴音は祖母の遺言を快諾し何の迷いもなく進学した。
しかし、最近になって妙な胸騒ぎを感じるのだ。このままではいけない。そう、誰かが鈴音に訴え掛けている。窓の外の残花を見つめながら、鈴音はぎゅっとスカートの裾を握り締めた。