弐
翌週の月曜日、鈴音は欠伸を噛み殺しながら下駄箱に立っていた。
先日、ファーストフードで啓達と別れてから、どうにも“何か”の気配を強く感じてしまう。それが一体何の気配であるのか、妖なのか、はたまた別の何かなのか。鈴音には判断の仕様がなく、奇妙な感覚がついてまわるのだ。
「おはよー」
「あ、おはよー」
顔をあわせたクラスメイトと挨拶をしながらローファーから上履きに履き替える。
今も背後に気配を感じるのだが、はっきりとそれが見えることは無い。違和感を覚えながらも、鞄を肩にかけ直して歩き出す。
すると何処からともなくチリン、と鈴の鳴るような音が聞こえた。
鈴音は思わず八卦鏡に手を当てた。八卦鏡はいつも通り首から提げて、制服の中に隠している。これから以前の時のような違和感は感じないのだが、どうにも引っかかる。
チリン、チリン。
「ッ!?」
もう一度音が聞こえた時、鈴音は自分の中の何かが弾けたことに気づく。
今まで透明な膜で覆われていたものが、はっきりと明瞭になっていく。視得なかったものが、しっかりと把握できるようになっていく。
――これは、なに?
得体の知れない恐怖心がじわりじわりと這い上がってきた。しかし、それでもどこか冷静にこの事象を受け止めている自分がいる。
――……お祖母ちゃん。あたし、分からないよ。
まだ納得も、理解もできていない事も、数え切れないほどある。それなのに、心のどこかで全てを受け入れ理解している自分がいるのだ。
それが鈴音にはよく分からない。前世というものが本当にあったとして、もし今の状況に関係があるのだとしたら。
その時、鈴音の脳裏を真紅が染め上げた。
どうしようもない拒絶と虚無とが渦巻き始める。おぞましい。以前にも感じた感情が途端に湧き上がった。
「……鈴音、こんなとこに突っ立ってどうしたの?」
「う、わっ!?」
とん、と優しく肩を叩かれ鈴音は素っ頓狂な声を上げる。
驚いて振り向けば、苦笑いを浮かべた美奈が立っていた。左手にはレモンティーの五百ミリリットルのペットボトルが握られている。
「み、美奈ちゃんかー。びっくりしたぁ……」
ほっと胸を撫で下ろし、鈴音は美奈に笑いかけた。美奈が声をかけてくれたお陰で、脳裏の映像は綺麗さっぱり流れて消えてくれた。
美奈はペットボトルに蓋をしながら「あんた、なんでこんなとこで突っ立ってたの?」と眉を顰めている。鈴音はその言葉に辺りを見回した。
鈴音は考えながら歩いていたとばかり思っていたが、どうやらしっかりと立ち止まってしまっていたらしい。ここは一階の階段前だ。一段たりとも足は段に乗っていない。
――我ながらアホ過ぎる……!!
鈴音は引きつった笑みを浮かべ、
「い、いやぁ、なんでだろうね?」
と逆に首を傾げてしまう。
美奈は心底おかしそうに声を殺して肩を震わせた。
「ば、バカじゃないの……!? ていうか、ちょ、もう……! あははははは!!」
美奈はなるべく声を抑えて笑い出す。ここに唯がいたら二人できっと爆笑しているに違いない。
鈴音は身を縮めながら、美奈の腕を引っ張って階段を上りだす。
「もう、美奈ちゃんってば!」
「あはは、ごめんごめん」
美奈はそう言って、鈴音の腕に自分の腕をさりげなく組ませる。鈴音よりも頭半分背の高い美奈が、べったりと鈴音にくっついて来た。
「み、美奈ちゃん~……」
「いやぁ、鈴音をいじるのは面白いなぁ」
「もうっ……」
鈴音がそっぽを向くと、美奈が「ごめんってば~」と言いながら鈴音から離れた。
いい加減歩きにくくなってきたのだろう。何せ階段を上って二階にきても、今いる一棟から二棟へと渡り廊下を渡らなければいけない。
「あーあ、こういうとき無駄に広いって不便ね」
「確かに。あたし最初教室覚えられなかったんだよね……」
「うちもうちも! 特別教室とか会議室の場所わっかんなくてさー」
「一年の時、四月とか移動教室のたんびに皆で迷子だったよね~!」
「そうそう! 全員で“視聴覚室どこだー”ってさ!」
鈴音は懐かしさに目を細める。入学したての頃は何もかも知らない事ばかりだった。校舎の事に関しては中等部からの進学である美奈達もお手上げだった。
渡り廊下を渡り終え、左手に角を曲がる。
手前から四組、三組、二組、一組の順番になっている。渡り廊下から真っ直ぐに進めば五組、六組、七組、八組がある。
鈴音と美奈は二組の扉を開けた。教室にはすでに半数ぐらいの生徒が揃っている。
鈴音は窓際から三番目の自分の席に鞄を置く。斜め前が美奈で、鈴音の前は唯の席だ。いつもこの時間ならば唯がいるのだが、今日はまだ来ていない。結局、唯はこの日朝のホームルームぎりぎりに滑り込んできた。理由を聞けば、珍しく寝坊したらしい。
その日は三、四時間が体育なのだが、体育着に着替えながらも唯はずっとブチブチと愚痴っていた。
「あーもー、妹の勉強なんて見てるんじゃなかった!」
「唯ちゃんの妹って今中二だっけ?」
「うん。もう超生意気! 英語分かんなーい、とか言い出してさ。お母さんが勉強見てやれって」
唯はジャージの袖に腕を通しながらむくれている。
鈴音には兄弟がいないのでその感覚がよく分からないが、同じく妹のいる美奈は激しく首を縦に振っていた。
「うちもこの間さ、数学教えてとか言ってきてさ。数学なんて知らんわ! って思わずキレそうになっちゃったし」
「いや、あんたがキレると恐いから」
更衣室を出て、グラウンドシューズに履き替えながら唯と美奈は妹の愚痴を言っている。
ふと鈴音が顔を上げれば、丁度体育を終えた七組と八組の生徒がこちらに向かってきていた。
その中に、悟と類の姿が見えた。
悟と類も鈴音に気づいたらしく、こちらに小さく手を振ってきた。鈴音はそれに応えながら、美奈と唯と昇降口から出て行く。
「鈴音、体育の時は結んでるんだな」
「うん。流石に体育の時は邪魔だからね」
「へぇ、おだんごの鈴音ってなんか新鮮だね」
「そう?」
悟と類とすれ違い様、そんな事を話して笑顔で手を振った。
美奈と唯は感心したように「すっかり仲良くなったねー」と目を丸くしている。鈴音は苦笑いを浮かべながら曖昧に言葉を返す。
言われてみればいつの間にかすんなりと仲良くなっていた。きっと四人が優しいからだろう。まだ出会って数日だけれど、彼らは本当にいい人たちだ。
――って、あたしが言っても信憑性ないか。
まだ知っているのは彼らのほんの一部、僅かな表面部分でしかないのだ。
鈴音がまたぼんやりとしていると、美奈と唯が前の方から手招きしていた。
今日は第一グラウンドで陸上だ。校舎からの移動に時間がかかるためあまりグズグズしていられない。鈴音は慌てて走り出す。
「わっ!?」
すると、腕が誰かとぶつかってしまった。反射で顔を上げれば、そこにはつい最近見慣れた顔が。
「なんだ、あんたか」
「え、と……」
ぶつかってしまった相手は、昨日陽沙と共にいた赤茶髪の少年だった。確か名前は――。
――やよ……ん? なんだっけ?
鈴音が少年を見上げて固まっている事に、彼は「あー……」と気まずそうに目を逸らしている。
「俺、新見弥生な。つーか、あんまりぼけっとしてると転ぶぞ」
「ご、ごめんなさい……!」
鈴音はそう言って頭を下げると、再び走り出した。
名前を忘れてしまった事を本人に気遣わせてしまった事も申し訳ない。鈴音は赤くなった顔を隠すようにして美奈と唯の元まで走った。
「誰かとぶつかってたみたいだけど、大丈夫だった?」
「う、うん! 平気だったよ」
「鈴音、最近やたらとぼけーっとしてるからね。気をつけなよ~?」
「分かってるってばー……」
鈴音は溜め息を一つ零す。
そういえば先ほど弥生とぶつかった時、陽沙の姿が見えなかった。彼の隣には知らない男子生徒が並んで歩いている。
彼らに少なからずの主従関係が形成されている事は雰囲気で感じ取れたが、確かに常時一緒にいるわけではないだろう。
鈴音たちとて放課後以外は殆ど顔を合わせる事もない。ただなんとなく、気になってしまった。
――……ま、今はいっか。
そう結論付けると、鈴音は視線を持ち上げる。
「……げっ」
思わず、苦い声を上げて後ずさりしまう。グラウンドにはレーンに沿って綺麗にハードルが並べられていた。
「うわ、今日からハードルとか……」
唯も同じく面倒くさそうに顔を顰めている。ただ陸上部の美奈だけは平然としている。
結局、鈴音はこの時間ハードルの事を考えるだけで頭がいっぱいだった。
放課後、鈴音は生徒会室に向かいながら、ふと渡り廊下の途中で足を止めた。
窓から見える夕陽が、鈴音の瞳に赤々と焼き付く。血に染まっていく“誰か”が、目の前にいた。
「ッ!?」
鈴音は思わず口を押さえて後退するが、目の前には誰もいなかった。あまりにもリアルな幻影に、鈴音は背筋が凍る。
おぞましいと感じたものが、段々と輪郭をもって鈴音の脳裏をよぎり始めたのだ。
唐紅が、はらはらと舞い散っていく。
透き通るような白い腕が真っ直ぐに鈴音に伸び、ふわりと優しい香りが彼女を包む。
「……あ、あぁ、ぁあ」
知らないはずなのに、心のどこかで知っている。見た事のない鮮やかな景色が、鈴音の心をどうしようもなく締め付けた。
――駄目、駄目だよ。今、“あちら”にいったら、あたし……。
鈴音は警鐘を打ち鳴らす本能に従い、無理やり夕陽から視線を外す。そして鞄を強く握ると、そのまま生徒会室に駆け込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息を荒げている鈴音に、啓達は目を丸くしている。心配そうに爽が鈴音に近寄り「大丈夫?」と声をかけてくれた。
鈴音はなんとか笑顔を見せて「ご、ごめん。なんでもないよ」と、鞄を自分の椅子の足元近くにおろす。
しかし、類は眉根を寄せて口を尖らせた。
「そんな無理して笑うなよー。目に見えて体調悪そうだぞ? なんなら俺が保健室連れてくぜ!」
「さりげなく下心がチラついているよ、類」
「はぁ!? ちょ、鈴音、俺普通に親切心だから! 勘違いしないでくれよな! つか、悟てめぇ!」
鈴音は悟と類のやり取りを見ながら、自然と笑い声が漏れていた。
やっぱり、この二人のやり取りは見ていて心が落ち着く。鈴音はゆっくりと息を吐き出しながら、椅子に腰掛けた。
「ありがとう。大丈夫。今ので、結構楽になったから」
鈴音が笑えば、「そっか、なら良かった」と悟が優しく口角をあげてみせる。類も照れくさそうにはにかんでいた。
「まぁ、倒れられちゃ迷惑だからな。辛くなったらさっさと言えよ」
すると、今まで黙っていた啓が鼻で鈴音を笑う。しかし、爽がすぐに「はは、相変わらず遠まわしな優しさだなー」と、啓を肘でつついた。
その言葉に啓は僅かに顔を赤らめる。
「う、うるせぇな。迷惑なのは事実だろ!」
「はいはい。全く、うちの会長は意地っ張りなんだから」
「爽~!」
「はは、ごめんごめん」
啓に睨まれながらも、爽はケラケラと笑いながら資料をまとめていく。
しかし、何かを感じ取ったのか、その手はすぐに止められた。爽は窓の外に視線を向け、警戒するように腰を低くしている。
鈴音も、爽が感じているものの正体に気が付く。昨日まで分からなかったけれど、今は妖の気配をはっきりと感じ取れる。
どの程度の力を持つのかまでは分からないが、今妖が中庭のあたりを移動しているのは分かった。
「……行くか」
啓は立ち上がると、脱いで椅子にかけていたブレザーを掴む。類と悟は眺めていた冊子を整えると、啓の後に続くように歩き出す。
「爽?」
鈴音は扉に手をかけながら、彼を振り返る。窓の外を見つめたきり動かない彼は、鈴音に声をかけられてやっとこちらを向いた。
「あ、きら……? どうしたの?」
ぞくり、と鈴音は得体の知れない恐怖に身を震わす。
彼は、本当に爽なのだろうか。優しい笑みを浮かべてはいるけれど、その瞳はひどく冷ややかだ。
まるで、陽沙と一緒にいた玲という少年と同じだ。全てを冷たく壊してしまうような、心を切り裂くような目つき。
鈴音は引きつった笑みを浮かべながら、もう一度彼の名前を呼んだ。すると、爽が穏やかな表情で首を傾げる。胸を撫で下ろしつつも、つい今しがたの表情が脳裏にこびりついて離れない。
「……鈴音、行こう」
横を通り過ぎた彼が、あまりにも普段通りで、鈴音は頭を振った。後ろ手で扉を閉め、鈴音は爽の後を走り出す。
――……大丈夫。爽はちゃんと、ここにいる。
一瞬だけれど、彼がどこか遠いところに行ってしまったような気がした。今の鈴音では到底手が届かないような存在になってしまいそうな――そんな予感。
――あたしの思い過ごしだといいな。
鈴音はもう一度頭を振って、階段を駆け下りた。鈴音が中庭に着くと、そこではすでに啓たちが妖らしきものと対峙していた。
それは一つ目一本足で、顔の半分ほどもある大きな口から牙を覗かせている。赤い皮膚に、顔を覆っている大量の白髪が不気味なコントラストだ。
「一本だたら……ってやつか?」
「一本だたら? え、類って訛りあったっけ?」
鈴音が真顔で類に問いかけると、隣にいた悟が噴出した。
「す、鈴音……一本だたらって言うのは、この妖の名前だよ」
「え!?」
笑いを堪えながら説明してくれた悟に、鈴音はぎょっとして目を丸くする。
発音からしててっきり言葉訛りだとばかり思ってしまった。恥ずかしい。鈴音は顔を赤くする。
それにしても、これも妖なのかと思うと少し驚きだ。悪縷や温羅が完璧な人の形を模していただけに、妖は全て人の形だという認識がどこかにあった。だから、今目の前にいる一本だたらという妖の姿は、鈴音にとって妖らしからぬものに感じられる。
爽と類は苦笑いを漏らしながら妖に向き合っている。啓は呆れたようで鈴音に向けて溜め息を漏らした。
「とにかく、こいつを浄化するぞ」
「そ、そうだね! 理事長に言われてるし……」
鈴音の全の姫の力を取り戻すには、妖を封印する事が一つの方法だ。それは最初に麻衣から説明された事でもあり、鈴音のやるべき事だ。
鈴音は気合を入れなおすと、しっかりと妖に目を向ける。見た目はどこか粗暴そうで恐ろしさもあるけれど、背丈は鈴音の腰ぐらいまでしかない。
それに、この妖から“悪意”は感じられない。妖はじっとこちらを見たまま動こうとしない。
五獣は神経を集中させ、言霊を紡ぐ。
「……金は凝結により水を生む」
「木は水が無くては生きられない」
「木は燃えて火を生む」
「燃えれば灰が残り、灰は土に還る」
五獣が高めた五行は鈴音の八卦鏡に集う。鈴音は自然と八卦鏡を妖に向けて翳していた。
淡い光が妖を包み込み、そして弾けた。
きらきらと光の粒子が空に煌き、鈴音は唖然としたまま目の前のそれを眺めている。
さきほどまでいた妖の姿はなく、感じていた気配も完全に消え去ってしまった。
「……これが、浄化だ」
「妖を、清めるってこと?」
「まぁ、そんなもんだな。妖としてこの世に留まっていたものを、あるべき姿に戻す。輪廻や五行の輪の中に還してやるんだ」
啓の言葉に、鈴音はもう一度視線を残光に戻す。この優しい光が、浄化の光。妖を還元する力。
「ふふ。本当に、すっかりファンタジーだ」
鈴音が目を細めて呟けば、五獣は複雑そうに笑ってみせた。
これから、鈴音はもっとこの浄化を使わなければならなくなる。もしかしたら、いずれは一人でも使えるようになるのかもしれない。
「……あ」
その時、鈴音は新たに感じた気配に声を上げた。
啓たちも気づいたらしく、小さく笑いながら「行くか」と、グラウンドに向かって歩き出す。
「それにしても、意外に早かったね」
移動しながら、爽が感慨深く鈴音を見てきた。
「なにが?」
突然の言葉に、彼の真意が読み取れず、鈴音はきょとんとしながら爽を見上げる。
「鈴音が、妖を認識するようになるの。僕は、もっとずっと先かと思ってたんだ」
「あー……。あたしも、びっくり。今朝ぐらいかなぁ。なんか急に気配を感じるようになったの」
今朝の事を思い出しながら、鈴音はとつとつと話し出す。起きたら見知らぬ気配をすぐ側に感じ、まるでそれが当たり前であるかのように受け入れている自分がいた。
気配そのものも、先ほどまで一体何か分からなかった。けれど、今はしっかりと認識できる。
「最初は何か分からなかったけど……もう、大体なら分かるかな。細かくは分からないけど、場所とかならそれなりに」
「まだ駄目駄目だけどね」と、そう言って笑う。
けれど、爽は違った。どこか遠いところを見つめたまま「そっか」と上の空で相槌を打った。
――やっぱり、気のせいじゃなかったんだ。
鈴音は爽の横顔を見つめたまま、一人納得する。先ほどの冷え切った彼も、正真正銘の爽自身であると鈴音に知らしめるには十分だった。
「鈴音?」
「ううん、なんでもない……」
爽が自然に笑ってみせるから、鈴音も自然に笑ってみせる。
彼が一体そんなに何を抱えて、思いつめているのか、いつか話してくれる日がくると信じて。
鈴音は、一歩を踏み出した。




