宴の始まり
しばらくすると、壁に備え付けの鏡がガクンと前に動きました。そして鏡は横へと移動をし、壁に大きな穴が現れました。
姫が待ちきれずに叫びます。
「親衛隊長! いるのですか?」
間髪を入れず、大穴から親衛隊長が飛び出します。先ほどの姫様と侍女たちの会話は、今ここに魔法使いはおらず、自分たちだけであることを知らせる符丁でした。
「姫様、お待たせして申し訳ございません。親衛隊長、ただいま姫様をお救いに参上いたしました」
自らの大役を自任してか、親衛隊長の頬はいかにも紅潮していました。まさに一世一代の晴れ舞台です。
「さぁ、一刻も早くここか逃れましょう。いざ、失礼をば」
そういうと親衛隊長は姫様を抱きかかえました。姫様も隊長の首にしっかりと腕を回します。互いの心が通じあったかのように、二人は微笑み合いました。もう何も怖くありません。姫様は愁眉を開いたご様子でした。
姫様を抱いた親衛隊長が鏡のあった大穴に駆け込むと、続いて侍女たちもそれに続きます。最後に一人残った侍女は鏡の位置を元に戻し、いま来た道を引き返して行きました。そうして、部屋の中には誰もいなくなりました。
一方、左の道を進んだ魔法使い。突き当たりの部屋にある階段を下り、これまた素晴らしい調度品の数々がある部屋へと辿り着きました。
「この奥に浴室があり、浴室の先に寝所用のお召し物が用意してございます。ここから先は大変に神聖な場所。私どもは入ることが出来ません。ご面倒でも、魔法使い殿お一人でお進み下さい」
魔法使いの供についてきた者達の一人が、色欲の男に申し出ます。
「わかりました。いや、どうもご苦労様」
魔法使いは労をねぎらいましたが、頭の中には姫様のことしかありません。供の者達が扉を閉め、もと来た方向へ引き返していく音を確認すると、魔法使いはイソイソと長衣を脱ぎ始めました。
そして浴室への短い通路を通り抜けると、用意された大変美しい浴槽にドップリとつかりました。お湯のせいでしょうか。彼の頬は紅潮し、含み笑いをしています。「これから起こること」を想像すると、笑うのを我慢しきれないといった様子でした。
魔法使いの供をしていた者達と、最後に残った侍女が神殿のロビーまで引き返してくると、彼らは待っていた神官達と共に急いで神殿を後にします。そして門を出たところで、草むらに隠れていた兵士に保護されました。
神官達から万事うまくことが進んでいる旨を確認した兵士たちが、伝令として各隊やお城の作戦本部に駆けつけます。とにもかくにも魔法使いを神殿に引き留め、その間に姫様が脱出できたことで、誰もが企ての成功を確信しておりました。
後は、にっくき魔法使いが地獄の釜へ足をつっこむのを待つだけです。知らせを受けた王様以下、すべての面々の緊張は最高潮に達しました。
「まだか、合図はまだか」
作戦本部の王様は、興奮を隠し切れません。
「もう少しです。もう少しです。落ち着きなされませ、我らが王よ」
重臣の一人が王様をなだめました。
「しかし、姫と一緒にあやつの断末魔を見聞できぬのが残念じゃわい」
王様は気分を沈めようとして話題を少し逸らします。作戦では、救出された姫様は、このお城の最上階には参りません。万が一、企てが失敗した場合、当然のごとく魔法使いは怒り狂い姫様を探し回るでしょう。お城は彼が真っ先に探しにくる可能性が高いのです。そんなところへ姫を隠すわけにはいきません。
姫様は、森のはずれに密かに作られた隠れ家に運ばれる手はずです。隠れ家は地下にあり、巧妙な目くらましが施されておりました。一日や二日で見つかるような代物ではありません。
そして企ては当初のものより、更に念を入れて計画されておりました。
作戦の手はずは、次の通りです。
魔法使いが姫様と契りを結ぶと信じている部屋には、姫様の偽物として女奴隷が控えています。もちろん顔や体つきなどが、姫様に似ている者が選ばれました。魔法使いが体を清め、その部屋に入った瞬間、女奴隷は足下にあるレバーを踏み込みます。そうするとカラクリが働き始め、神殿の屋上から一本の火矢が天空を目掛けて飛ばされます。
火矢を確認した技術武官が別のカラクリのスイッチを入れると、神殿の壁という壁が次々と倒れだし、それに伴い天井や床も崩落します。神殿を形作る殆どのものは、特別に重い石材が選ばれ築き上げられています。
寝所に、窓は一つもありません。換気口はありますが、単純に壁に穴が開けられているものではなく、神殿内を複雑に通り外へ通じています。もちろん、魔法使いがカラスに変化しても通れる広さはありません。
また寝所は神殿の最深部にあるので、道を逆に辿って脱出するにはかなりの時間を要します。それに加え、魔法使いが通ってきた道にある全ての扉は、外側からしっかりと錠がかけられ、ちょっとやそっとでは開きません。
つまり魔法使いは、あわれ無数の石材に押しつぶされるという手はずです。
当然、姫様の代理を務めた女奴隷も生きては帰れません。しかし家族を奴隷から解放する約束がなされているので、裏切ることはまずありません。もし裏切ったり失敗すれば、家族ともども拷問の末、残虐な死刑が待ち受けています。
それでも得体の知れない魔法使いのこと。鉄壁の罠をすり抜けるかも知れません。しかし包囲網が解かれることはありません。
もし魔法使いが瓦礫の中から這い出て来たと致しましょう。すると、神殿の庭に設けられた四カ所の隠し坑道から500人の兵士が襲いかかり、魔法使いを葬ります。魔法使いも抵抗するでしょうが、彼の魔法は500人を殺した時点で尽きることがわかっています。魔法使いが力尽きれば、さらに坑道の奥に控える新たな500人が彼をほふります。
これら1000人の兵士たちは、先の戦争で捕虜にした敵国の兵隊です。普通なら、死ぬまで重労働を課される奴隷になる運命です。しかし魔法使いを討ち取った者は奴隷の身分から解放された上、金銀の褒美を取らせると王様は約束されました。逃げ出す者などいるはずがありません。それどころか、先を争って魔法使いを撃ち殺そうとするでしょう。
そして神殿の柵の外においては、王の正規兵500名が密かに待機しています。魔法使いの逃走を阻止するとともに、万が一、奴隷兵士が魔法使いを打ち漏らす事態に備えた伏兵となります。
王様と親衛隊長が昼夜を違わず計画した作戦です。誰もが成功を疑いません。
さて、こちらは運命の神殿。魔法使いの湯殿の間。
十分に湯に浸かった魔法使いは体を拭き、用意された着物に手をかけました。しかし彼はそれを放り投げ、自分が着てきたローブを身にまといます。なぜなら”その必要があった”からでした。魔法使いはいつもの出で立ちになると、目的の場所へと通路を進んでいきます。
そして突き当たりにある、豪華に彩らた寝所の扉を開けました。
神殿の外では、大勢の兵士が今か今かと、合図の火矢が上がるのを待っています。作戦が失敗したのでは、という囁きも聞こえ始めました。各隊の隊長も気が気ではありません。作戦本部へ問い合わせようとした正にその時、凍てつくような静寂をたたえた暗黒の天空へ、一本の火矢が高々と打ち上げられました。
「来た!」
思わず誰もが叫びました。王様も重臣も隊長も兵士たちも。
神殿の外に控えていた技術武官が、カラクリのスイッチを押しました。カラクリの仕組みは次々とその動きを伝達し、十秒も経たない内に神殿から不気味な軋みが発せられました。
そして、地獄の扉が開いたかのように、神殿の壁と言わず天井と言わず、全てのものが凄まじい轟音と共に崩れ始めました。その光景は、まるで魔法使いがこの世の全てを呪いつつ、断末魔の叫びをあげながら、その身を引き裂かれているようにも見えました。
全てが終わるまでに、実際には三十秒と掛からなかったでしょう。しかしそれを見守る人たちには、10分とも20分とも感じられました。やがて神殿が建っていた付近に立ちこめていた砂煙も収まり、あたりは夜の静寂を取り戻しました。
「やった……」
神殿の外にいた正規兵の一人が呟きます。
「そうだ、やった」「やった……! やったんだ!!」
彼に呼応するように、一人、また一人、正規兵たちは歓喜の声をあげました。それは地獄の門が閉じ、代わりに天国の門が開いたような、壮大なザワメキとなりました。