神殿へ
一行は、神殿の庭の前に辿り着きました。
急ごしらえの建物なので、壮大というものではありません。正味三階建てくらいの高さでしょうか。建物の周りには、それを囲むように四角い庭があり、背の低い植物が所々に植えてある他は、むき出しの土が覗いている有様でした。
そして庭と外部を隔てているのは、金属で作られた柵でした。高さは神殿の二階部分ほどであり、装飾は施されていませんが、太く丈夫な作りで整然と庭を取り囲んでいます。
魔法使いを除く全ての人達にとって、これから先が正念場です。列の二番目につき従っていた家来が、一同の先頭にまわり、神殿の門番に叫びます。
「姫様と魔法使い殿がお見えになられた。門を開けい!」
漆黒の森に響きわたる声のすぐあとに、急ごしらえの神殿の門がうやうやしく開きました。先導役の大臣が、庭を横切る白い道を本殿へと向かい歩き出します。
姫様は、出来ることなら一目散に城へ逃げ帰りたい心境でした。覚悟を決めたとはいえ、「何故、私が。何故、私が」という言葉を百万遍も心の中で繰り返し、企てが失敗することばかりを考えていました。
(万が一、目論見が外れれば、私はこの下賎な男に汚されてしまう。そしたら私は、私は……)
姫様の胸に”死”という文字が浮かび上がりました。
「姫様、しっかりなさいませ」
姫様のすぐ脇にいた侍女が囁きます。もちろん、魔法使いには聞こえないような、小さな小さな声で……。
侍女の一声で、姫様の意識は現実へと引き戻されました。
(そう、しっがりしなくては――。私がしっかりしなくては、父や親衛隊長の苦労が水泡に帰してしまう)
王様は傲慢で虚栄心の強い男でしたが、それでも姫様は父親である国王が好きでした。また親衛隊長の献身的な態度から、彼の好意にも気づいておりました。
しかし、たとえ結ばれぬ仲とはいえ、国中の女たちから慕われている親衛隊長に想いを寄せられるのは、姫様とて決して悪い気持ちではありません。
姫様は二人のためにも頑張ろうと、心を新たに致しました。しかし姫様の思いも、ここ止まりです。犠牲になる奴隷女や捕虜の兵士のことにまで、気が回るはずもありません。
でも、誰が姫様を責められるでしょうか。いつの時代でもお姫様というものは、このような存在でございます。
白い道が終わり、本殿の厳かな扉が目の前に迫ります。
「扉を開けよ。姫様と魔法使い殿がご到着だ」
大臣が声を振り立てました。石造りの大きな合わせ扉が、荘厳な音とともに開け放たれます。
「私の役目は、ここまでです」
大臣が列の中程まで引き返し、姫様と魔法使いに礼をします。
心の中では、今すぐに魔法使いを八つ裂きにしたいと考えているに違いありません。しかしここで、そんなことをおくびにも出そうものならば、今までの苦労がふいになってしまいます。大臣は、憎しみを髭一本にさえ表さぬよう気をつけました。
姫様がその言葉に会釈をします。魔法使いもそれに倣いました。下手に声をかけて、面倒なことになるのがイヤだったからです。なぜなら彼は、王室のしきたりなど全く知らなかったのですから。
魔法使いにとっては「これから起こること」が唯一の興味であり、それ以外は、どうでもいいことなのでした。
挨拶が終わると大臣を始め、一行の半分ほどの者たちは来た道を城へと引き返しました。残ったのは魔法使いに姫様、侍女と文官が数名です。その他は、元々神殿に控えていた僅かな者たちだけでした。
彼らが皆、扉をすぎますと、二つの石造りの板は、開いた時と同じく荘厳な音を立てて動きはじめます。先ほどと違うのは、閉じきった際に、不気味なほど暗い音がしたことでしょうか。それはまるで、地獄の宴の始まりを告げるドラのようにも聞こえました。
「姫様たちが、神殿へ入りました」
斥候が直ちに作戦本部へと舞い戻ります。そこはお城の最上階にある部屋で、神殿はもちろん、その周りの様子も一目で把握できる部屋でした。中には王様や親衛隊長を始め、主な大臣や重職を担う者たちが一同に介しておりました。
「いよいよじゃな。皆の者、抜かるでないぞ」
緊張した面もちで、王様が檄を飛ばします。
「親衛隊長よ。準備は万全だろうな。抜かりはないだろうな」
王様はすぐ横にいる親衛隊長に念を押しました。
「もちろんですとも、王様。かねてからの計画通り、一分の隙もありません」
百戦錬磨の親衛隊長の顔にも緊張が走ります。想い続けた姫様が、汚れた悪魔に連れ去られるかどうかの瀬戸際なのです。
親衛隊長は、この作戦に人生の全てをかけようと決意を固めておりました。この計画が成功するならば、自分の命など木の葉のように舞い散っても構わないとの覚悟です。
「では、王様。私はこれで失礼します。各部隊の隊長に作戦の開始を知らせたあと、私は姫様をお救いするために、隠し坑道へと向かいます。命に代えても姫様を連れ戻しますのでどうかご安心を」
「うむ。頼んだぞ、親衛隊長よ」
親衛隊長の並々ならぬ決意を秘めた顔を目の当たりにし、王様は作戦の成功を確信しました。いえ、確信したかっただけなのかも知れません。
王様の言葉を胸に刻みつけ、親衛隊長はその場を離れました。一同は彼の姿が消えるまでその背中を見送りました。
しかし誰一人として気がついてはいなかったのです。親衛隊長の身に起きていた、ある重大な変化について……。
一方、こちらは神殿のロビーです。
この屋の責任者である神官が、一同を前に話を始めます。
「今夜の儀式は崇高なものでなくてはなりません。全ての行為が決してお座なりに行われてはいけないのです。そのためには、厳格にしきたりを守らなくてはなりません」
(しきたり? 一国の姫が市井の男に抱かれるのに、何の決まりがあるというのだ)
黒い魔法使いはそう思いましたが、黙って神官の話に耳を傾けました。彼らにも意地やプライドがあるのだろうと思ったからです。また、確かに娼家で女を抱くようなわけには行くまいと、最初からある程度の覚悟はしておりました。
「では、まずここでいったん、姫様と魔法使い殿には別々の部屋へ入っていただきます。双方ともそこでお召し物を脱いでいただき、部屋の先にある浴槽で体を清めることが定めとして決められております」
”お召し物を脱ぐ”と神官が言った時、姫の表情が一瞬こわばったのを、魔法使いは見逃しませんでした。そして心の中で、一人下卑な笑い声を出しました。
「そして体を清めた後、寝所用のお召し物を着用し、ご寝所の方へと向かっていただきます」
神官の厳かな説明が終わりました。もう後戻りはできません。いえ、そもそも王様があんな約束をした時から、姫様には後戻りできない運命が待ち受けていたのです。
神殿のロビーから奥へと続く通路は二手に分かれ、姫様は右へ、魔法使いは左へ、それぞれお付きの者と行くように促されました。分かれ道に差し掛かった時、魔法使いは神殿に入ってから初めて声を発しました。
「姫様、すぐにまたお会い致しましょうぞ」
突然のことに姫様は一瞬驚きましたが、すぐに平静を取り戻し、魔法使いに向かって一礼しました。
(ふん、あなたとはここでお別れよ。八つ裂きにされたあなたの骸にすら、私は面会するものですか。)
姫様に課せられた役目は、企てを魔法使いに悟られぬようにすることだけでした。よって、魔法使いと別れてしまえば、あとは親衛隊長が姫様を救い出すばかりでしたので、この一礼が姫様にとって最後の仕事となりました。
それぞれの一行がそれぞれの道へ消えたのを確認すると、神官が清めの鈴と称して分かれ道の袂で鈴を鳴らしました。
自分の役割を終えた安堵感からか、右の分かれ道に入った姫様はすっかり落ち着きを取り戻しました。分かれ道を十数メートル進むと扉が控えており、その奥の小部屋には下へと続く階段が続いておりました。
姫様と侍女たちは階段を一歩一歩確実に降りていきます。周章し、段を踏み外しては大変です。踊り場を一つ経て下りきると、そこにも扉が設けてありました。
中へ入ると、部屋には絢爛豪華な調度品が仕立てられており、その先の短い通路は浴室へと続いていました。
企てにおいて、姫様はこの部屋に続く隠し坑道から脱出するのですから、本来、調度品の類は必要ありません。しかし、万が一魔法使いが姫の控え室を見たいと言い出した時のために、本物さながらの部屋を用意したのでした。
一同が部屋に入ると姫様が口を開きました。
「あぁ、今日も星が青く光っている」
続いて、侍女たちも口を開きました。
「いいえ、姫様。今輝いているのは赤い星でございます」