9.
隠されていた馬車に乗せられて、着いた先は港だった。停泊する船は、満月であってもまだ暗くてよく見えない。
はしけを渡って、ぱっくりと口を開けた船倉へと押し込まれる。
船って。どれだけ遠くに連れて行かれるの? 潮の匂いにあせって、逃げ出さなきゃって思うのに、体が全然動かない。複数の男性に囲まれるのがこんなにこわいなんて知らなかった。
リルザ様はぼうっとしたまま抵抗せず、指示されるままわたしと一緒に歩く。彼らはその様子に首を傾げはしたものの、おとなしいならそれでよしとしたようだった。
追い立てられて中に入ると、扉は乱暴に閉められた。完全な闇。ここ、灯りがない。
どうしていいかわからなくて立ち尽くす。隣にいるリルザ様も見えない。せめて彼の服をつかんでいてよかった。それでもそのうち目が慣れて、視界が戻ってくる。
見え始めた光景にまた身がすくむ。闇から浮かんだのは、壁に身を寄せて、背を丸めて座る人々。それに、わたし達が来ても、彼らがなんの声も上げずにいた事実にも。
子供と……若い女性ばかり。
人さらい。
ふわふわと戸惑っていた意識が、言葉を与えてやっとはっきりとする。
わたし達は、誘拐されているんだ。
リルザ様は、男達が現れてからずっとだんまりだ。どこを見ているのか、ぼーっとしたまま、いくら話しかけても何の反応も返ってこない。
腕を引けばついてきてはくれるから、空いている場所を探して、ふたりで座る。リルザ様はすぐに膝をかかえて頭をうずめてしまった。
そう時間をおかず、船は動き出した。部屋に入れられたのは、わたし達が最後だった。
息苦しい。人が多いから、通気口があってもあまり役に立っていないみたいだ。時折、誰かのすすり泣きや、苦しげに吐く音が聞こえた。汚水を流す部屋があるんだけど、そこまで行けなかったのかもしれない。
座り続けるのに疲れて、立ち上がって手足を伸ばす。新鮮な空気を吸いたかった。そのとき、目の端に、縛られたまま転がされている人達を見つけた。
なに?
心臓がはねあがって、一気に呼吸が早くなる。まさか。まさか。
近づく勇気はなかった。近くの女の人に声をかける。
「あの」
女の人は、わずらわしそうに私を見た。
「あの人達は? その」
「……ああ」
女の人は、ばさばさになった髪を面倒そうにかきあげながら男の人達を見た。
「生きてるよ。男だから縛られてんだ。解くなって言われてるんだよ」
「あの男達に?」
それに返事はせず、女の人はわたしを見るのをやめる。当たり前、ってことかな。
生きてる、って言葉にはひとまず安心する。
「でも、もう結構経ちますよね。ずっとあのままじゃ、苦しいですよね……」
女の人はもう応えなかったから、わたしの言葉はただの独り言になった。関わる気はないんだろう。
何度か息を吸う。
男の人達に近づいてみる。目隠しと、口にくつわをかまされているって気づいた。
こわい。体が震えた。拘束された人。わたしはこんな暴力は見たことがない。
両手で顔を覆う。泣くな。浅く呼吸を繰り返す。
男の人のそばにひざをつく。
「解きます」
言葉が思いつかなくて、それだけ言う。私は冷静じゃなかった。目の前の状況がこわくてたまらなくて、男達の命令を破るってことに頭がまわらなかった。
そっと腕に触れると、男の人はびくっと震えた。そうだよね、あっちだって怖いよね。見えてないんだし、わたしがなにをするかなんてわからないもの。
だからまず目隠しをずらして、彼の目が見えるようにした。彼はわたしを見ると不思議そうに見たけど、男達じゃないから少し安心したように見えた。次はしゃべれるようにくつわを、と思ったんだけど、こっちはずいぶんきつくてずらすことができなかった。結び目がかたくてほどくのに時間がかかる。やっと外すと、口の端が赤くすりきれていた。
「大丈夫ですか」
現れた顔は、思った以上に若かった。まだ少年に近い歳かもしれない。少なくともわたしよりは年下、そうとわかったとたん、一気に気が楽になる。
「今、こっちも解きますね」
後ろ手に縛ったロープの結び目に手をかける。でも、固過ぎて簡単に解けない。何度爪をかけてもゆるんでくれない。
「どなたか、ナイフやはさみを持っていませんか」
呼びかけても反応はない。誰かがどこかで、あるわけないだろ、と呟いた。顔が赤くなる。
そうだよね。持っていてもきっと取り上げられちゃってる。
「他の人、先に」
「え?」
男の人が窮屈そうに身をよじり、わたしに顔を向けた。
「目と口、楽にしてやってくれませんか」
あごで示してくる。そうか。
「はい」
そうだよね、目と口だけでも先に。ロープは時間がかかりそうだ。
転がされていた男の人達全員の目隠しとくつわを外す。まだ体は拘束されたままだけど、彼らは息が楽になったと、わたしにお礼を言ってくれた。
ふいに扉が開いた。男がふたり、樽を中に運んでくる。たぷん、たぷんって揺れる音。
「水だ」
みんなが喉を鳴らすのがわかった。男達はなにも言わず、樽を置いたらとっとと外に出て行った。一斉に樽に人が集まる。
コップもひしゃくもないから、みんな手を入れて飲んでいる。一瞬、それを見て気持ちが萎えてしまう。わたし、こんなふうに飲み水を共有したことってない。
でも喉が渇いてる。リルザ様も、この男の人達だってそのはずだ。そういえば、男の人達の目隠しを外したことを気づかれなくてよかったって今頃気がつく。
人が減るのを待って、わたしも樽をのぞきこむ。水じゃなくて、薄いワインが半分ほど残っていた。持っていたハンカチをひたす。こぼさないように手を添えながら、リルザ様のところへ行く。
「リルザ様、ワインです。喉は渇いていませんか」
リルザ様はワインを含んだハンカチを見つめると、薄く口を開いた。ハンカチを寄せて、ゆっくりしぼると、薄い赤い雫がつうっと落ちる。
「もっと持って来ましょうか。それとも、あそこに樽がありますから、一緒に行きましょうか?」
彼はそちらを見ず、口を少しだけ動かして飲み下した。そしてまた顔を伏せる。とりあえず少しでも水分を摂ってくれて、よかった。
戻って、男の人達にも同じようにワインを配る。
「終わったら、ロープを解きますね」
最初に目隠しをとった男の人にそう言うと、彼は迷ったように目を泳がせた。
「いや……やめたほうがいいと思う。ここじゃ逃げ場ないし、解いたって気づかれたら、あんたなにされるかわからないよ」
「でも」
こんな状態で放置されたら、最悪死んでしまうかもしれない。
「時々、姿勢変えるの手伝ってくれる?」
「……はい。わかりました」
それくらいなら、見逃してくれるかもしれない。彼らだって殺すのが目的じゃないはずだ。
「案じて下さって、ありがとう。ワインを飲みたいときも、言って下さい」
伝えると、男の人は苦笑した。
薄暗い船内は、時間の流れがわからない。男の人達の手伝いが一段落したところで、リルザ様の隣でわたしも膝を抱える。
遠く波の音を聴きながら、何度も、うつらうつらとしてはまた覚めた。浅い夢ばかり見る。同じ姿勢を続けて、血がたまってよどんでいくのがわかった。どろりとした息を吸って、また吐く。
突然、近くにいた子供が床に突っ伏した。小さな体が激しく痙攣するそのさまに、思わずリルザ様の袖をつかむ。
「……大丈夫? ねえ、あなた……」
返事はない、というか彼女はできない。間抜けな質問だと気づく。彼女は体全部を使うように、呼吸を繰り返している。まるで空気がないみたいに。
落ち着け。わたし、これ、知ってる。
震える手を叱咤する。帽子を脱いで、それを彼女の口に押し付ける。
大丈夫、これはきっと過呼吸、死に至るものじゃない。うちにいた使用人の子が何度かやったのと同じ。いっとき呼吸を薄くさせればいいんだって、先生がおっしゃっていた。それでも、女の子が痛ましくて、この状況が恐ろしくて、涙がにじむ。
どれくらい経ったのか、多分そう長くはないと思うんだけど、女の子の呼吸が自然なものへと落ち着いてきた。
息を吐いたとき、わたしのほうこそ息を止めていたことに気づく。目元をぬぐって、彼女を抱えた。
「だいじょうぶ、ゆっくり呼吸して。少し吸って、いっぱい吐いて」
彼女は素直に繰り返す。すがるものを探して、わたしの服をつかむその強さに胸が痛む。
閉ざされていた瞳が開いた。おだやかなはしばみの色に、わたしのほうが安心する。
「わたしはユーラ。あなたは?」
「ミリー……」
「そう、ミリーね。よろしくね」
こんなときによろしくもないとは思うけど、おびえている彼女のために笑顔を向けると、わたしも励まされる気がした。
「そうだ。おなか空いてない?」
ポケットに、お祭で買った飾り飴が入っていることを思い出した。華姫へのお土産。さっきまで、お祭に行っていたことがうそみたい。
取り出した色とりどりの飴をミリーに見せると、彼女は赤色の飴をとって頬張った。目元がゆるむ。
「きっと、もうじきよ。もうじき、外に出られるから」
根拠なんかないけど、言葉はほかに浮かばない。
「眠れそう?」
「うん」
そこで彼女は顔を赤くした。どうも、わたしに抱っこされていることに照れたらしくて、そそくさと膝から降りると、少し離れたところに座った。
甘えたかったのなら、甘えてくれて良かったんだけどな。
ワインは与えられたけど、食事はなかった。どれくらい経ったんだろう。一日? 二日? こんなにおなか空いたの、初めて。飴はあるけど、リルザ様が受け取らなかったから、わたしもまだ食べていない。でもここにいる人達全員、なにも食べていないんだ。胸元を握り締める。
呼ぶべきだよね。
そっと目をつむって、華姫の名前をつぶやいた。
華姫。ごめんなさい。助けて。
華姫なら、ここにいる人達みんなを街まで戻せる。リルザ様はこうだし、わたしの身分さえバレなければきっと大丈夫。またお城に戻ってこっそり暮らすだけだもの。
でも、目を開けても彼女は来なかった。
「華姫」
もう一度、繰り返す。どうして? 満月はもう終わったはず。
名前を呼ぶのは彼女への魔法なのに。
わたしが彼女を呼べば、どんな場所でも、どんなにケンカをしたときでも、まるで時を翔けるように現れてくれたのに。
いざとなったら、って思ってた。
自分の思い上がりに、いまさら、体が震えだす。
ばたり、わたしの近くで子供が倒れた。意識が遮られる。
ミリーより少し幼い男の子。呼吸を激しくして体を大げさに震わせている。ちら、ちらとわたしを見ながら。
わざと。
……わたしは本当に、いつも考えが足りない。
「ごめんね。君だっておなか、空いてるよね」
ポケットから飴を取り出して、彼に差し出す。男の子はぱっと起き上がり、わたしの手からひったくった。ぼうっと彼を見つめていると、彼は居心地悪そうにわたしから飴を隠す。
「な、なんだよ……もらったんだから、返さないぞ」
他の子だって欲しいに決まってる。ある分をひとつずつ、近くにいた子達に渡した。全員にあげられないなら、あげないほうがいいのかもしれないって頭をかすめたけど、できそうもなかった。
「もうないの。ごめんね」
あげられなかった子達を見つめると、彼らは困ったようにわたしの視線をそらした。こらえきれなくなって、顔を覆う。
「おねえちゃん」
ミリーが背に触れてくれた。顔をこすって、心配そうなミリーに笑ってみせた。
リルザ様のところに戻る。
彼の隣に座ると、いつの間に起きていたのか、リルザ様がわたしの腕をつかんだ。
「おはなし、して」
「おはなし?」
なんのことかわからない。
「してくれるって、いった」
「あ」
ポリトの冒険のことだ。花火におびえる彼に、わたしはおとぎ話の約束をしたんだ。
そうか。することもないし、気が紛れるかな。
わたしは小さな声で語りだした。
「昔々、ねずみが一匹おりました。名をポリトと言いました……」
ポリトの冒険は、夜に始まる。
大好きな親友の泣き虫クライビーが竜にさらわれてしまい、ポリトは夜明けを待たず、たったひとりで生まれ育った森を出る。
最初に向かうのは草原の国。そこで、ポリトは賢いねずみのワイゼと出会う。
「ぼくはワイゼ。自分の知恵を試したいから、君の手伝いをしよう……。こうして、賢いワイゼが仲間になったのです」
ポリトの冒険は長い。たくさんの仲間に出会い、たくさんの国を巡る。
わたしは母様に、毎晩毎晩、冒険の続きをせがんだ。すべて語り終わっても、また最初から。母様はもういないけど、お母様のお話を、わたしは全部覚えている。
頬にやわらかいものが触れて、肩に重みがかかった。リルザ様がわたしの肩にもたれていた。
目をつむってる。眠ったのかな。少し下向きに生えたまつげを見つめる。
「……続きは?」
リルザ様じゃない。誰か他の、子供の声。
顔を上げると、いつのまにか子供達が集まっていた。
聞いていたの。
わたしは小さく笑うと、また続きを語りだした。
***
日にちがわからない。朝と夜も。人って、飲み物だけで何日もつんだろう。
彼らは、わたし達を殺すつもりはないはずだ。殺すならワインすら与えないと思う。
だったら、目的地はそう遠くないのかもしれない。飲み物さえ与えてあれば、とりあえず死にはしないような距離。
物音がして、ずっと開かなかった扉が開いた。着いた?
でも、違うってすぐにわかった。現れた男達は、新しいワイン樽を持っていたから。空になっていた樽を引っ込めて、新しい樽を部屋に入れる。
まだ、続くんだ。扉が閉められると思ったら、駆け出していた。男の服をつかむ。
「いつ、目的地に着くのでしょう」
男は驚いた顔をしてわたしを見たあと、うっとうしそうに目をそむける。
「うるせえ」
「食べ物を下さいませんか」
「うるせえって言ってんだろ! もう着くよ!」
振り払われた。しりもちをつく。扉は乱暴に閉められた。
「おねえちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。もう着くって、よかったね」
心配して駆け寄ってきてくれたミリーにお礼を言う。でも、もう着くっていっても、期待するほど早くないんだろうな。そんなに早く着くんだったら、新しいワイン樽なんてきっと、持ってこない。
それに、確かに早く陸地に着きたいけど、そこからわたし達の身の上がどうなるかっていう、もっと大きな問題が待っている。
「あんた、無茶するねえ」
女の人が近づいてきた。知らない人だ。濃茶の髪がやさしくうねって、ひとつに束ねられている。
「お騒がせしました」
「なにかされたらどうする気だったんだい」
……そうか。ただ尋ねるだけのことと思いこんでいたけど、乱暴されることは十分あるんだ。だからここの女の人達は、男達を見もしないんだ。自分の体を抱きしめる。
「すみません……ありがとうございます」
「なんであたしにお礼?」
女の人がおかしそうに笑った。
「……港に着いたら」
彼女の声は、わたしに話すには大きかった。
低くて静かだけど、この部屋の、誰にでも聞こえる声。
「騒ぎを起こす。あとは、自分達でなんとかするんだ」
返事はどこからもなかった。でも聞いていない人は、きっとひとりもいない。
彼女はわたしに、親しげに微笑んだ。
「あんた、ちゃんと逃げるんだよ。誰が捕まってもね」
彼女はちらりと、子供達を見る。返事ができなかった。
でもわたしは、絶対、リルザ様を逃がさなきゃいけない。
やがて、船は港へつけられた。