40.
「……ギギ。お使いを頼んでおいたはずだろう。言いつけに背くなんて、見損なったよ?」
「見損なったって、そりゃ俺の台詞だ! ほらウィヤン、剣を収めろよ。一緒に帰ろう」
「この状況で、そんなことができると本気で思ってるのかい。……まあ、おまえは本気なんだろうけど」
「本気も本気だよ、当たり前だろ! できないことなんかあるもんか。剣を振りかざすのも、納めるのも、おまえの意思だ。あんた達の意思なんだから」
すでに戦う態勢に入っているイデル達への呼びかけでもあった。リルザはラジーに肩を貸し、ゆっくりと近づきながら、ウィヤンがギギを遠ざけた理由を察したような気になる。
「ウィヤン。カルアが泣いてるんだよ」
「今更戻れない。戻る気もないんだよ。だったら最初から始めたりしない。ギギ、まったくおまえは、いつまでたっても空気を読めないんだから」
「そんな空気だったら読みたくもない!」
ウィヤンの表情に、皮肉めいた、悲しげな笑みが浮かぶ。
「てめえら、黙って聞いてりゃ勝手なことばっかほざきやがって。無事で帰してやる道理なんかねえぞ!」
まるで街のチンピラのようにドスの効いた声でラジーが怒鳴る。怪我でふらつきながらも、気勢だけはむしろ増している。
「ラジー!」
イデルがウィヤンに背を向け、妹の元へと駆け寄った。
「よう、アニキ」
そんなに情けないカオするなよと言いかけたのに、抱きしめられて機会を失った。肩が痛むが、今は兄の気が済むまでおとなしくしてやろう。
ウィヤンが憎々しげな声を上げた。
「なぜっ……」
「はぁ?」
「なぜ……、生きている!」
「なんだよ、ウィヤン=ブルミッド。オレが生きてて、悪かったな?」
咎めるようでいて、どこか焦った様子のウィヤンを、まるで悪役のようにラジーは嘲笑う。
だが、このときのウィヤンの視線の先はリルザだった。リルザは、眉をひそめつつ言葉を発する。
「俺か? 悪いが俺も生きてるぞ。ウィヤン=ブルミッド、ご機嫌麗しゅう。先日は貨幣をどうもありがとう。助かった」
カカ酒というのは美味しかった、嫌味ついでに加えようかと思うも、ウィヤンの様子はただごとではない。
「リルザイス。あなたは、彼女を助けに行かなかったのか!?」
「……何を言っているのかよくわからない。ひとりで話すのはやめてくれ」
リルザがここにいることは、よほど都合が悪いらしい。しかしまた、リルザにも都合のいいことではなかった。
「あてが外れた。その様子じゃ、おまえもクモの居場所は知らないようだ」
「居場所……?」
「クモさん、屋敷にいなかったよ。ウィヤンが連れていったんじゃなかったの?」
ウィヤンの顔色が変わる。
次の瞬間、対峙していた面々を黒い霧が包んだ。
「なんだ!?」
「なにをした、卑怯者が!」
敵味方問わず訪れたつかの間の闇に、怒号が飛び交う。
自ら生じさせた混乱を使い、ウィヤンは屋敷をあとに駆け出す。
精霊がリルザにそのことを知らせる。頼んで強風を起こし、黒い霧を上空へと散らす。
「今のは、闇の精霊か……?」
「い、今の風ってリーゼがやったの?」
視界が開ける。ギギは目の前で起こったことが信じられず思わず尋ねた。今見た精霊の働きは、あまりにリルザにとっての都合がよく。
「俺じゃない。精霊の力」
「そういう屁理屈とかじゃなく!」
「なんだ? あとにしてくれ」
黒い霧が晴れてすぐに、ウィヤンの手下達とザナクーハ一家の打ち合いが始まる。ギギは慌ててウィヤンを捜したが、見当たらない。
「林に向かって行った。方角からすると、町へ戻るつもりかもしれない。俺は追う」
「あ、お、俺も行くって」
リルザ達が馬を置いてきたのも、同じ方角だ。もしもウィヤンに気づかれ、潰されでもしたら追いつくことができなくなる。
「白闇の!」
それが自分を呼んでいるのだと、リルザは一瞬気づかなかった。が、振り返ると、ラジーがこちらを見ていた。
「よくわかんねえけど、クモ見つけたら、一緒にここに戻ってこいよ!」
「気が向いたらそうするよ」
「て、てめえっ、ここはうなずくところだろう!?」
ラジーににやりと笑ってみせると、リルザはギギとともに走り出した。
「なんでわざわざあんな返事」
「ああいう手合いはからかいたくならないか?」
「やだよ、同意求めないでよ!」
はぁ、ギギはため息をつく。
「リーゼの性格って、よくわかんないね」
「そうか。実はな、ギギ」
「ん?」
「俺も、自分がよくわからない」
「……それじゃ、しかたないね?」
うむ。とうなずく。
ふざけてはいるが、言っていることは本当だった。
以前の自分の振る舞い方はわかっているし、それを望む人間がいることもわかる。ならそうしておけばいいだろう、と思うのだが、どうにも難しい。
今こうして動いていても、次の瞬間には、すべて投げ出している気がする。
頭には常にかすみがかかっている。すべてのことが鈍く、遠い。喜びはなく、苛立ちと焦燥と、恐怖だけが鮮やかだ。よくわからないなにかが、波のように訪れる。それが来ると記憶は途切れる。
晴れの朝が明るく、月のない夜が暗く、当たり前が当たり前で、だから自分はここにいてはいけない。死ぬな。生きるな。強いる声が止まず壊しに来る。
風が吹いて頬を撫でる。
「うるさい」
出た声は幼かった。ギギが驚き、周囲を見渡すが、自分とリルザしかいないことを確認する。
「今の声、リーゼ? どうしたの……」
「おまえはじゃまだ。どけ」
「リーゼ!?」
突然体から一切の力が抜け、そのまま倒れこむリルザの体を、ギギはすんでのところで受け止めた。長く伸びた前髪は目にかかり、表情が見えない。つながらない不可解な言葉に、ギギのおびえる。
だが次の瞬間には、リルザの体に力が戻る。ギギにかけていた体の重みを、自分で支える。
リルザが顔をあげた。ギギは、驚いてまばたきをした。
強い目。この王子様は、こんな目をしていた?
呆けた顔で見つめていると、リルザはギギを見ながらこめかみを押さえた。
「おまえは、ギギだ」
「あ、へ?」
「うん。ここは赤で……あいつは、ウィヤン」
「り、リーゼ……どうしたの。なんかこわいんだけど」
リルザが、にこっと笑った。
「あいつには、任せておけないからさ。おれが行くんだ」
「リーゼ、頼むから、面倒かもしんないけど、俺にもわかるように」
「ギギ。おれ、リーゼだよ。リルザじゃないんだ」
それがギギの問いに対する、答えのすべてだった。
***
馬を走らせながら、ウィヤンは歯を食いしばり続けている。
計画を知ったギギが自分を止めようとすることは、想定していた。
幼い頃、闇の呪術に通じているからと屋敷に迎え入れられ、以後非道な仕事を任せられてきたのに、ギギはなぜかまっとうな優しさをなくさなかった。
だからギギは、ユーラを逃がすかもしれない。リルザイスと協力するかもしれない。
それならそれでいい。もともとユーラは、リルザイスに助け出させるつもりだった。
だが、ふたり揃って現れて、ユーラはいない。
屋敷の誰かが彼女をさらった? あんな美しい人だ。誰がなにを考えてもおかしくない。それに、父は? 父はユーラの存在を恐れていた。青へ返そうとするのならいいが、発覚するくらいならと、彼女の存在自体を消そうとしたりしていたら。
目を離すべきじゃなかった。リルザイスとギギがいれば彼女は安全だと思っていたのに。
「ユーラ……!」
馬の腹に、ふくらはぎをたたきつける。意に沿い、ぐんと、速度が増す。
そのとき、街道に何者かが倒れていることに気づいた。そのまま行き過ぎるも、夜目に萌黄の色が引っかかる。ここからではよくわからないが、あれはひょっとして娘だろうか。萌黄など男の着る色ではないし、屋敷に確か、あんな服を着た娘がいた。
ウィヤンは焦っていた。今は見過ごす他に選択肢はないと思う。けれど、あの者を馬に乗せて、人のいるところまで連れて行くくらいなら。
……ああもう、気づかなければよかったのに。
苛立つまま舌打ちをしながら、ウィヤンは馬首を返し、萌黄の服を着た人物のところへ戻る。馬を下りて近づくと、やはり娘だったとわかった。息があるか確かめようと、ウィヤンは彼女を抱き起こした。




