33.
手に入らないと思っていた人が今、目の前にいる。
間近に見る彼女は、記憶よりも小さくて、儚げに見えた。
彼女は、震えている。僕を見ていない。
「どうか、おびえないでください。僕はウィヤン=ブルミッド」
白いおもてに、紅い瞳がらんらんと輝いている。
くちびるが薄く開いて、もの問いたげにかすかに動いた。
「リルザ様は……?」
弱々しく、かすれた声。
眠っていた彼女は、事の前後がつながっていないんだろう。目覚めると、彼女の夫は倒れて連れて行かれ、自分もまた見も知らぬ男の部屋に連れてこられたわけだ。
「彼は、ギギに任せました。彼がいては、僕があなたを手に入れることはできないから」
勝手な理由であることは自覚している。
彼女は嫌悪するだろうか。でも、そんなことは、いい。
ウィヤンは、体を満たす喜びに、酔っていた。一度小さく深呼吸し、彼女の名を呼んだ。
「……ユーラ」
怯えるばかりだった彼女の顔に、驚きが浮かぶ。
ずっと決めていた。もし名を呼べる日が来たのなら、こう呼ぼうと。
彼女に向かって一歩進み出ると、びくりとあとずさられた。胸が痛む。けれどそれすら甘みを帯びていて。
ウィヤンは、その場で膝を折った。
「僕のものになると誓ってくださるのなら、あの方の命は保障しましょう」
「……何をおっしゃっておられるのか、よくわかりません」
伏して、細く震えるまつげが、涙で輝いてみえる。
「そうでしょうか? 僕が言っていることは、とてもわかりやすいことだと思いますよ、ユーラ」
「あなたは誰? どうしてわたしを知っているの。どうして、…どうして」
声を上げて泣き出したいところを、こらえているんだろうか。
近寄って抱きしめたい衝動にかられた。
でも、彼女に触れるだけでひどく罪深いことに思われる。
「あなたが僕を知らなくても、青の国でお会いした日から、僕はあなたに囚われてしまった。どうか、僕というものがいることを、覚えてください。そして、知っていってください」
「リルザ様のお顔だけでなく、わたしの事も知っていたというんですか?」
「見聞の旅です。六大国主要の方々のお顔を覚えずに、なんの意味がありましょう。父はなかなかの野心家なもので」
「……そんな、わたしはそのように大それた者ではないというのに」
呆れた顔を見せてくれる。
もっと色んな顔が見たくて、ウィヤンは続けた。
「あなたは、……そうですね、大げさに言うつもりはありません。ですが、諸外国の中では目を引く存在なんですよ。青国宰相の一人娘にして、希代の美姫。社交の場に出てこられぬ隠し姫。某国の王位継承権を持つ方の求婚を断って独り身を貫いていたかと思えば、突然、世捨て人となった緑国の王子に嫁いだ、変わり者の姫と」
「父は宰相ではありませんし、希代の美姫? 青にはわたしよりもお美しく、賢い女性はたくさんいらっしゃいます。あとその、某国王位継承者というのは」
「おや、まさかお忘れになったのですか? 黄国の」
「ま、待って! 忘れたわけではありません、触れないで」
首を振って遮られる。
当時、青国の隠し姫が黄国の王子を振ったという話は、各国の城で交わすたわいない話題として格好の餌食となり、青のユーラの名が知られるきっかけとなった。
あわてる様がかわいらしい。ウィヤンは笑顔を浮かべる。楽しかった。
「こう言うと失礼ですが、決して重過ぎず、そして軽すぎないあなたの立場は、血気盛んな、やんごとなき若君達の心を騒がせるんですよ。古来より、竜退治と美しい姫君は男の夢ですから」
「あなたの話される姫君が、まるで自分に聞こえません」
「そうはおっしゃいますが、そもそも、だからこそあなた方がこんなところへ来ることになったのでは?」
「どういうことでしょう?」
ぴくりと眉根を動かして、彼女は尋ねてきた。
「あなた方は、赤の者の手から逃げ出されてきたのでは?」
「なぜそれを? ……あなたは、あの者達について何かご存知なんですね!?」
ユーラはばっと顔を上げ、語気を強めた。
怒らせた、とっさにそう思い、誤解されたくないウィヤンは慌てて首を振る。
「いいえ、僕は加担しておりません! 酒の席での戯れ事だと思っていました、まさか本当に、参の城を襲って、あなたをさらうなんて」
ユーラの目が大きく見開かれる。
「見捨てられた城に、世を厭うように、あなたと気の触れたリルザイス殿下が住んでいると聞けば、俺がさらってみせようと息巻いて見せる者もいたのです。まさか本気だなんて思っていなかったし、今日まで忘れていました。信じてください、僕はそんなことをしては」
「待って」
くちびるをわななかせて、ユーラがウィヤンの腕を強くつかんだ。
「参の城を、襲ったの?」
ただならぬ彼女の様子に気づく。
「それは僕は知らない……待ってください、あなた方は、さらわれてここに来たのでは?」
「そうです、ですが彼らは、わたし達のことは知らなかった……」
ユーラは目を伏せ、震える手で、自分の口元を覆い、うなだれた。
「……そう、じゃあ、本当に襲撃したかはわからないということなのね」
「ユーラ」
肩に触れようと、ウィヤンが手をのばす。が、ふいにユーラがこちらを睨みつけたので、その手は行き場を失くす。
「あなたのものになります。ですから、今すぐリルザイス殿下を解放してください」
急な変貌に、ウィヤンは間抜けた顔で聞き返した。
「……ほ、本当に?」
「繰り返させないで!」
大声ではないのに、強い言葉だった。すっかり驚いて、ウィヤンはうなずく。
「彼を解放する際、今のことをお伝えしたいから、同席させてください。あと、あなたはあの時、リルザ様になにをしたのです?」
「なんのことでしょう」
「とぼけないで。手を握るだけで、あんな風に苦しむわけがないわ。彼は本当に無事なの?」
「確かに、小細工はしました。ですが、あなたがそうおっしゃるのなら、喜んで彼を解放しましょう。彼の無事も保障いたします」
ですが、と付け足す。
「あなたと彼を会わせることはできません。伝言ならば、承ります。彼を確かに解放したかどうかは……そうですね、この窓から見える場所で、彼を解放するということでいかがです?」
「……わかりました。あなたが、わたしの伝言をうっかり伝え忘れないことを祈ります」
彼女の物言いも、気にならない。怒ったように言っていても、目には涙が浮かんでいたから。本当に決断したのだ。自分のものになると。




