29.彼の待ち望んだもの
女性は嫌いだ。
物心ついたときにはすでに、疎ましく感じていたかもしれない。
母は早くに亡くなっていて、リルザの世話をしていたのは大分年老いた女性だった。母の一番の侍女であったと言う。優しい人間だったが、学はなく、心の内を預けるような相手ではなかった。
他に身近にいた女性といえば、叔母か。いつも父や兄、自分や弟に媚びへつらっていた。美辞麗句を並べ、贈り物をし、歓心を買おうとしていた。リルザはこの笑顔の張りついたような女性を軽蔑していた。
今ならわかる。緑では、女性はああ生きるしかない。
緑の男尊女卑は、六王国の中でも極端だ。女性の権利はないに等しく、王族にしても、女子が生まれても、いなかったものとして貴族に下げ渡された。学びの機会はなく、王妃亡き後、女性として最も高い地位にいた叔母ですら、直系男子達の機嫌をうかがって生きるしかなかった。
ただ、緑の男性が女性を粗末に扱うのかというと、それは違った。彼らは女性と子供を守るべき筆頭とし、特に女性に対する丁重な扱いは、他国にも定評がある。
頭ではわかっても、嫌悪が薄らいだことはない。
で、こういうときはどうしたらいいんだ。
リルザは、泣き止もうと必死で顔を拭っている彼女を前にして、何をしていいかわからず、手持ち無沙汰でいるしかなかった。
いいんです、ごめんなさい、クモはそう繰り返すだけ。なぜ泣くんだろう。理解どころか、推測すらできない。
不満そうだったから、それをなんとかしようと思っただけなのに。徹底して女性を避けてきた、そのツケか。クロース達は常にリルザの拒絶を汲み取って立ちまわっていた。
血の絆を結んだ彼らと、本来だったらどれほど離れていてもこの耳飾りを通して言葉を交わし合えるはずだったのに、それを一方的に断ったのは自分だ。
「ごめんなさい。もう平気です。さあ、緑へ帰りましょう!」
ふいに、やたらと力んだ様子でクモが顔を上げた。
もう平気? 泣いた理由は? 謝った理由は? 自己完結?
「……まあ…あなたがいいなら、それで」
「はいっ! それでですね、リルザ様。わたし達、お金がないんですけど!」
「それはなんとかします」
「……なんとかって、なんですか?」
「町に行きましょう」
「あの、リルザ様、できたら質問に答えてくださると……」
それ以上答えなかったのは、もちろんわざとだ。
「……お、お金…結構入りました、ね」
「そうですね」
リルザは、ひっくり返っている男達の懐をまさぐり、財布を取り出して金を抜き取っていく。
「その、わたし……髪を隠したほうが、いいみたいですねっ」
「……そうですね」
日もすっかり落ちて、たどりついた大きな町。
酒場を見つけるまでに、クモは見事に3組のチンピラを引っかけた。
治安の悪い町なのか、よほどクモが目立つのか。
目についた武器もついでに取り上げていると、報復がこわいのでは、とクモが心配したが、どうせ殴り倒した時点で報復の対象だ。だったら手持ちを増やしてとっととこの町を抜けた方がいい。
「もうここで宿はとれませんから、休まず歩いてもらうことになりそうです」
「もちろん歩きます! その、……すみません」
しょんぼりとうなだれると、問題の銀の髪がふわっと流れる。
クモが美しい女性なんだろうことはわかる。けれど、この引っかけようは異常ではないだろうか。
嫌な予感がしてしょうがない。リルザは、倒れている男のひとりから帽子を剥ぎ、クモに渡した。彼女は一瞬情けない顔をしたが、何も言わずそれを深くかぶった。
「早くこの町を出ましょう」
「はい」
「手を預けていただいても?」
「え?」
「その方が安全だと思います」
歩く速度がまったく違うことは、いい加減わかった。気づけば小走りで自分を追いかけている彼女に気づき、立ち止まることが何度もあった。
それに、困ったことに、とっさの時に彼女は声を上げられない。いつのまにか男達に囲まれていたりして、そのたびにリルザは肝を冷やす。自分が振り向かなかったら、どうするつもりだったのか。
***
月が空の頂にかかっても、わたし達は歩き続けた。町を抜けてどれくらい経ったんだろう。ずいぶん歩いた気がするけど、それほどでもないと言われたらとそうかもって思う。ただ、わたしひとりだったら、とっくに立ち止まっていたと思う。足はもう棒のようだった。
「ペースが落ちていますよ」
ごめんなさい、がんばります。そう答えたかったんだけど、息が上がって言葉にならない。せめてうなずいて、今にもあきらめそうな体を叱咤する。
こんなことになっているのは、全部わたしのせい。
「クモ」
リルザ様が足を止めて、私を呼んだ。低められた声に驚き、涙がこみ上げていたのも忘れて顔を上げる。
リルザ様は、険しい顔で今来た道に体を向けている。
「私のそばから離れないように。そして、もし自分の身に危険が迫ったら、必ず大声で私を呼んで下さい」
「え…え?」
「追いつかれます」
静まり返った夜に響く馬の足音に気づいた。 現れたのは、4頭の馬と、4人の男の人達。
「どうも、こんばんは。いい月夜だね。突然で悪いんだが、そっちのお嬢さん、帽子を脱いでくれねぇかな」
「どれだけ無礼な申し出かわかっているか? まず馬から降りろ。急ぎであるなら、馬上からの非礼を詫びろ。女性に用件があっても、まずは男を通し、礼節をわきまえた人間であることを示せ。おまえ達が会話のできる人間かってことをだ」
心底相手を馬鹿にした様子で、リルザ様は平坦な調子で言った。お、怒らせようとしてるのかな?
声をかけてきた男は、一瞬むっとした様子だったけど、意外にも怒鳴って返したりはしてこなかった。
「……そいつぁ失礼。俺たちゃ学がないもんでね」
そればかりか馬から降り、こちらに一礼して見せた。後ろの3人も、腹は立てている様子なのに、不思議とそれに倣う。リルザ様も驚いたようだった。
「まあ、おかげでお嬢さんの顔が見えた。確かに銀の髪。間違いないようだ」
思わず、かぶっていた帽子に手をかける。リルザ様がわたしを背に隠した。
「ってーことは、連れの男が腕が立つって話も間違いないんだろう。相談なんだがね、おとなしく俺達についてきちゃくれないか?」
「なぜ」
「理由は言えねえんだけどさ」
「話にならないな」
「やっぱり? と、なると、力ずくしかないわけだ。悪く思うなよ、こっちも仕事でな」
そう言った彼がかまえたのは、背にくくりつけられていた棒。組み替えると、それはあっというまに2メートルほどの長さになった。
後ろの人達は、ひとりは縄をかまえていて、あとふたりは何も持っていないように見える。
リルザ様も剣を抜く。
「頭を使って準備してきたみたいだな」
「雑魚でもあれだけ倒されりゃ、多少はまともなの揃えるさ」
あれだけ倒されたって、どういうこと?
リルザ様が返り討ちにした人達は、みんなつながってたの?
わたしに何かできないか、必死で考える。あせるばっかりで、ただ成り行きを見つめる。
先に仕掛けたのはリルザ様だった。
迷いなく、一番近くにいた棒の人に突っ込む。
「うお……、こえーなあ」
リルザ様の繰り出した一撃を、寸でで避ける。口調は余裕そうだけど、表情はそれほどでもない。リルザ様は、自分から後ろへ飛び、距離を取った。
「俺のこと、最初っから殺すつもりだったな。いやー、容赦ねえ。こりゃ下っ端チンピラじゃ歯が立つわけねえや」
軽口に応じることなく、身を低くして次の構えをとる。
「スクエス、ギギ、早くしてくれや! こりゃ俺もたねえよ」
「大急ぎでやってますって。そこはグィドーさんの役でしょ」
リルザ様は不意に左腕を振り切った。剣を握った右ではなく。
悲鳴が上がる。棒の人じゃなくて、後ろにいた何も持っていない人の一人が、そのまま体を沈め、倒れた。
「スクエス!」
思わず棒の人が倒れた人の名を呼ぶ。リルザ様はその隙を逃さなかった。
ぶつかるように、棒の人へ再度、突っ込んだ。これまで何度か見てきた限り、リルザ様はたいてい突きを選ぶ。薙ぐ姿はあまり見たことがない。
やはり何度か聴いてきた、ぶつかるような音が聴こえる。わたしは思わず、顔を背けた。
「……捕まえた、ぜ?」
リルザ様から、動揺した気配。棒の人にぶつかるような姿勢のまま、どちらも離れない。
「クモ、逃げろ! 走れ!」
「ギギ!」
わたしは反応できなかった。足をすくませているうちに、ギギと呼ばれた男の人が、わたしに向かって何かを投げつけた。
「クモ!」
わたしはばかみたいにその投げつけられたものを見ていた。白い毛糸玉みたいだったそれは、ふわっと広がり、網みたいになって、わたしに降りかかる。それが落ちるのが割合ゆっくりだったものだから、鈍いわたしも慌てて走り出した。
けれど、それはどうも、わたしに向かって伸びたようだ。
体についたと思うと、しゅるしゅると伸びて、あっというまにわたしの体に巻きつき、転ばせる。
そして、気持ち悪いことに、口の中まで入ってきて。奇妙に甘いそれは、ちりちりと舌をしびれさせた。そして、わたしの意識を奪った。




