28.
「やめたほうがいい」
背にかけられた声には、誠実さがあった。
リルザはそのまま歩き進む。他のところを見に行くつもりだった。
しかし、すぐにこちらに走ってくる人物に気がつく。
「デイダラさん! リーゼ!」
かごを持ち、手を振りながらクモが駆け寄ってくる。
「お昼、持って来たんですよ。一緒に食べましょう」
「クモさん」
「はい。練習はこれからでしたか?」
軽く息を弾ませながら尋ねるクモに向かって、デイダラは剣を振り抜いた。
切っ先はクモの袖一枚を裂く。
何が起きたかわからず、クモはただ目を見開いてデイダラを見つめる。
デイダラはクモに剣を向けたまま、もう一度柄を握りこむ。
「……わかった」
リルザはデイダラとクモの間に割り込む。素直に、眉をひそめて忌々しさをにじませた。
背にしたクモが、力なくへたりこむのがわかった。相変わらず、悲鳴の出ない人らしい。今は騒いで欲しいわけではないから、助かると言えば助かる。
「リーゼ。あんたは今、正気だ。なのになぜ白闇に喰われたふりをする?」
「他に方法はなかったか?」
「あんたに腕があることは知っている。そのうえで身内を見殺しにする人間なら、俺にとっては斬る理由になるからね」
なるほど、と返事をするのは少し癪だった。
剣を向けたまま、デイダラは追及を続ける。
「答えてもらおう」
「あんたが気にするほどの理由じゃない」
「それは俺が決めるよ。俺は、何を考えているかわからない者をイデル様やラジー様の近くに置きたくない」
「融通の利かない番犬だ」
「融通の利く番犬は役に立つかい? 悪いが、あんたは危険な匂いがする」
結局のところ、デイダラの警戒はもっともだとリルザも思う。諦めて、小さく息を吐いた。
「楽だから」
デイダラは眉をひそめる。信じてはいないことがわかる。
「本当に」
小さく笑うと、デイダラは驚いたように軽く目を見開く。
「誰にもかまわれないということが、これほど楽だと知らなかったんだ」
この国で目覚めるたび、緑に戻りたいと思わない自分を知った。
ガルディスとクロースがどれほど心配しているか、わかる。でも、自分が緑にいたところで、彼らにしてやれることはない。リルザといる限り、彼らがどれほど有能であっても、すべての道は閉ざされている。
申し訳ないと思っているはずだった。
でも、本当は、なにも感じていない。
敵地である赤にいても、なんの感情もわかない。緑の子どもが囚われたと聞いたときも、頼まれたから助けたに過ぎない。以前の自分だったらこう振舞っていただろうと、それはわかるから、そうしていた。
だいぶ前から、この心は機能していなかった。
「関わりたくない。かまわれたくない。それだけなんだ」
しばらく沈黙を守った後、デイダラは剣を収めた。
ひどく悲しそうに見えた。クモもこんな目で自分を見ていた。
「出ていってくれ。やはりあんたは危険だよ」
「断ったら、斬るのか?」
デイダラはただ素直にうなずいた。
リルザは、後ろにいるクモを振り返った。彼女は大きな葡萄色の目を見開いて、こちらを見つめてくる。少し震えているようだった。
「そういうわけなので、ここを出ようと思うんですが」
リルザにここに留まる理由はないが、留まれる理由もなくなった。しゃがみこんだままのクモは、怯えた表情でリルザのズボンのすそを両手でつかむ。
「巻き込んですみません。怖い思いをさせました」
首を激しく横に振り、ぎゅっと握りこんでくる。
「あなたも行きますか?」
今度は首を縦に振ってくる。
「それじゃ、行きましょう。なにか疑いをかけられているとかいう話だったと思いますが、出ていけというのだから、この際いいですよね」
立ち上がれないようだったので、抱き上げる。デイダラに背を見せることは特に不安でもなかった。
クモは重たく感じた。重心を合わせれば楽になるのに、リルザにくっつきすぎないようにと体を強張らせていたらしい。少し強引に寄せると、身体をこわばらせたあと、ゆっくりと力を抜いていった。
「リーゼが世話になったんだな。クモも。ありがとう」
見送り続ける戦士は、言葉を返してはこなかった。
追って来るだろうか。
クモから事情は聞いたが、当事者であるイデル達とは話をしていない。実際に話していたらあちらがどんなつもりでいたのか多少なりとわかっただろうが、狂ったふりをして遊んでいるうちに出てきてしまった。
「……リルザ様。もう歩けそうです。ありがとうございました」
「ああ。声も戻ったんですね」
言いづらそうに言ったクモをゆっくりとおろす。ついでに来た道を振り返ったが、なんの影も見えない。
「声が出なくなってしまうのは困りますね。何かあっても気づけないかもしれない」
クモが見上げてきた。どことなく気落ちして見える。
「なにか?」
「……どうして、心配してくださるんですか?」
「なにか、おかしいですか?」
「だって」
襟元に手をやり、クモはうつむいた。足を止める気はなかったが、彼女につられる。
「……か、関わりたくないし……かまわれたくないんですよね。それなら本当はわたしのことも、どうでもよいんじゃないですか?」
なにが言いたいのか、測りかねる。とはいえ、返事は迷うまでもなかった。
「はい。どうでもいいですよ」
聞いておいて、クモはショックを受けたようだ。大きな目をまんまるく開いて、ええ、と声をこぼす。
「でも、関わった人間に目の前で死なれるのはいやです。だから、あなたが置いて行くなというなら置いて行きませんし、緑に連れていけというなら連れていきます」
思ったままに言う。緑に戻りたいとは思わないが、かといって行きたいところがあるわけでもない。するとクモは、今度は眉をひそめ、口をとがらせた。
「不機嫌そうに見えますね」
「いえ。とても喜んでいます。リルザ様が、他人をあわれむ心を失っていなくて」
「そうですね。かろうじて、人としての道は外れきっていないようです」
時間の問題のような気もするが。そう思うとおかしくなったので、声を出して笑った。
「わ、笑いごとじゃないです……」
力なく抗議してくる。
「どうしてですか」
手を伸ばし、進むようながす。クモはリルザの手と顔を交互に見て、歩き始めた。
「……だって、リルザ様は……」
「はい」
なにを言われるやらわからないが、続きを待つ。
だがクモは結局なにも言わず、うつむいて鼻をすすりだす。
「クモ?」
「ごめんなさい」
「……謝罪をされるとは思いませんでしたが」
「ごめんなさい。なんでもないんです。ごめんなさい……」
目元をごしごしとこすりながら、クモは歩く。




