婚約破棄騒動に巻き込まれたので、闘技場に通うことにした
「今日をもってお前との婚約を破棄する!」
高らかに宣言された声を聴いて、アスティラ・ノクトはぼんやりしていた思考に力を入れた。
パーティとは退屈なものだ。
否、何の憂いもなく参加できるなら、アスティラだって少しはパーティが好きだった。アスティラは家族から「パーティでは黙っていること」と厳命されていて、それゆえ、いつも退屈だった。
アスティラは未婚の公爵令嬢だ。婚約者もいないため、近づいてくる男性貴族は多いのだが、そういうわけでいつもうっすらとした愛想笑いと、挨拶を返すくらいしかできないのだ。他のご令嬢相手でも同様だった。
アスティラが黙っていることは、「アスティラのイメージを守るため」必要なことらしい。おかげさまで、「特に瑕疵があるわけでもないのに、ノクト公爵令嬢はいつも壁の花ね」と噂されるくらいには、アスティラは常に壁際にいた。
誰がどう勘違いしたのか、「ノクト公爵令嬢は繊細でお身体が強くないらしいぞ」という噂まで出ている始末。このイメージは逆に詐欺にならないだろうか、と、アスティラは心配している。
退屈で、代わり映えしないパーティに飽き飽きしていたところ、声高に響いた婚約破棄宣言は非常に興味深いものだった。
外国の若い貴族たちの間で、あえてパーティなど公の場で婚約破棄を宣言することが流行っているらしい。
話を聞いた時は、婚約破棄が流行するなんて意味がわからない、と思ったものだが、実際に目の当たりにするとある種の感動すら覚える。
というのも、この国の貴族は教養を大事にするし、教養の足りない貴族はどれほど名家の出身でもつま弾きにする文化なのだ。若者にもその考えは浸透しきっていて、公の場で婚約破棄を宣言するなど――それも主催でもない立場で――今まで聞いたこともなかった。
それが、起こっているらしい。
パーティ会場の中央に目を向けると、見覚えのある男性貴族が縋る令嬢の腕を払いのけて、演技くさく胸に手を当て天井を仰いだところだった。
明るい茶髪に同色の目、顔立ちは整っているが、なんとなく高慢な雰囲気のある佇まい。身に着けている礼服は、ふんだんに金刺繍が使われていて思わず顔を顰めてしまった。この国で、金色は王族の色だ。
アスティラはその男性貴族のことを知っていた。
このところノクト家に頻繁に出入りしている男だ。挨拶をしたことはないが、名前をヘリクス・オットーと言った。オットー侯爵家の次男である。
(家に来てるときも、なんとなく鼻持ちならない奴だなあと思ってたけど……公衆の面前で婚約破棄とか……どうかしてる)
ヘリクスに縋っていた令嬢のことは知らないが、状況的にヘリクスの婚約者――元婚約者?――だろう。ヘリクスが一方的に、かつ、突然、婚約破棄を言い渡したようだ。
令嬢は払いのけられた衝撃で床に倒れこみ、しくしくと泣き出していた。見かねたご婦人方がそっと令嬢の肩に手をかけて、ヘリクスはそのまま、天井に向かって「そして、今、ここに!」と声を続けた。
「僕の至上の愛を、アスティラ・ノクト公爵令嬢に捧ぐと誓おう! アスティラ嬢、約束通り、僕の身は自由になった! これで僕たちを隔てる障害はなくなったよ!」
そして、意味の分からない宣言をした。
アスティラは「は?」と声が出そうになるのをどうにか堪えて、思わずヘリクスを凝視する。先ほどまで距離があったというのに、ヘリクスが悠々とこちらに歩いてきているせいで、徐々に距離が縮まっている。ヘリクスが歩く度、律儀に周囲の貴族たちが道を開けるので、アスティラはあっという間に人々の視線にさらされることになった。
(……は???)
勿体ぶった動きでヘリクスはアスティラの目の前で膝をつくと、恭しく手を差し伸べて、「さあ、答えを!」と返答を求めた。
アスティラは頭痛がしそうな米神をそれとなく一度摩ってから、「うん」と内心で一つ、頷く。
手にしていた扇子をぱたりと閉じて、ヘリクスの手に向ける。そのまま勢いよく、ぱしん、と、その手を払いのけた。
「あなたとそのようなお約束はした覚えもなければ、あなたとは初めてお話いたします。失礼ですが、どなたかとお間違えでは?」
そのままじろりとにらみつけると、ヘリクスは「はっ?」と困惑した様子でアスティラを見上げた。
その、心底わけがわからない、という顔を見ていると、アスティラは我慢できなくなりそうで――勢いのまま、ヘリクスの腕をひねり上げて投げ飛ばしてやりたくなって――それ以上は何も言わずに踵を返した。
普段、ほとんど喋らず愛想笑いばかりを浮かべていたアスティラの言葉に、思いがけずパーティ会場は沈黙に包まれてしまったようで、いたたまれない。
アスティラは、近づいてきた使用人に「気分が悪いので帰ります」とだけ伝えると、足早に会場を後にした。
「パーティでは黙っていること」という家族の言いつけを破ってしまったが、これは仕方なかったよね? とは、馬車に乗り込んでから言い訳をした。
「あらまあ、なんというか、期待を裏切らないというか」
ぱちり、とゆっくり瞬きをして、苦笑を浮かべたのはアスティラの母、ノクト公爵夫人だった。
昨晩、父であるノクト公爵にパーティでの出来事を報告したアスティラは、「あとはお父様が勝手に動くでしょ」と、早々に部屋に戻ってしまった。実際、ヘリクス・オットーがノクト家と繋がりがあったとしても、アスティラには知らない話なので、父が何とかするだろうと思ったのだ。
翌日の朝食で、父から渡された号外新聞を見てアスティラはぽかんと口を開けた。横から覗き込んだ母が、笑いながら「期待を裏切らない」と言ったのだった。
号外新聞は今朝のものだった。大きく、「“高嶺の花”アスティラ・ノクト令嬢と、ヘリクス・オットー侯爵子息の熱愛発覚!」と見出しがついている。
熱愛などした覚えもなければ、まともに言葉を交わしたのは昨日が初めてだというのに、一体どうしてこのような記事が出ているのか。
「えっと……?」
「ヘリクス・オットー氏は新聞社に伝手があるのよ。お父様がかなりきつく牽制していたのだけれど、効果はあまりなかったようね?」
ニヤニヤとした笑いを浮かべたままの母は、父の方に視線を向ける。父はむすりとした顔のまま、「すでに声明を出している」と、もう一枚の号外をアスティラにくれた。
公爵家が支援している新聞社の号外である。そちらには、大きく「勝手な婚約破棄劇に巻き込まれたノクト公爵令嬢」と見出しがあり、父のものと思しき怒りの声明が長々と綴られていた。
「……待って、全然話が分からない。どういうこと? あの人、本当に私に婚約の申し込みをしてたの?」
二枚の号外を見比べながら、パーティ翌日にしては互いにあまりにも早い動きに、アスティラは目を白黒させて問うた。
母はケラケラと笑うと、「最近、ヘリクス・オットー氏が熱心にうちに通っていたでしょう?」と言った。どうやらその訪問が、アスティラへの婚約申し込みだったらしい。
「えっ……? 待って、よくわからない。その時、あの人婚約者がいたんですよね?」
「そう。だから、話にならないと突っぱねていた」
「……私、てっきり事業の融資の申し込みか何かかと思ってました」
父の答えに思わずぼやくと、母は理解した様子で「まあ、普通はそうよねぇ」と頷く。
横で話を聞いていたアスティラの双子の弟アストルが、同意するように「僕もそう思ってた」と付け足した。
「来ても僕らには挨拶せずに、父さんの部屋に一直線だったでしょう。まあ、あの人、貴族学校でもちょっと浮いてたから、僕は挨拶されずに済んで助かってたけど……」
「事業があまり上手くいっていないって噂もあったもんね」
アスティラが続けると、父は「二人とはあまり関わらせたくない若者だったからな」とむっすりした調子で言った。
「なんでも、先月のパーティでアスティラに一目惚れをして、是非とも婚約をしたい、と。婚約した暁には今の事業がどうたらこうたらと熱弁を振るっていたが、そもそもあの男に婚約者がいることは知っていたし、事業がうまくいっていないことも知っていたからな。元より、アスティラの婚約は慎重に決める予定で、時間をかけて調整してきているし」
言い訳のように父がつらつらと教えてくれる。
アスティラははて? と首を傾げると、「私、先月パーティなんて行ったっけ」と隣に座るアストルを見た。
アストルが慌てて、「行ってたでしょ、ディラ!」とアスティラの脛を蹴る。テーブルの下で蹴られたので、両親は気づかなかったようだった。
アスティラは反射的に口をつぐんで、慎重に「そういえば、そうだったかも」と頷く。父が深いため息をついた。
「縁談を綺麗にまとめるために、お前のイメージを損ねないよう力を尽くしてきたが……こんなことになるなら、適度に素を出させていたほうが良かったかもしれないな」
げんなりした調子の父に、アスティラはパッと表情を明るめると、「それならお父様!」と声を上げた。
「噂がなくなるまでは、パーティに行かなくてもいいですよね? この際だから、しばらくのんびりしたいわ」
喜色満面な声で問えば、父は渋い顔。母は面白そうに「まあ、いいんじゃない?」と援護してくれた。
アストルだけが、呆れた様子で「ディラはいつだって好きなように過ごしてるじゃないか」と文句を言う。思い当たるところが多すぎるので、アストルの発言は無視をした。
とはいえ、ノクト公爵家としても、今アスティラが社交を継続するのは好ましい状況ではなかった。そもそもが“深窓の令嬢”というイメージを作ってきたのだし、逆に、「心労でしばらく社交活動はお休みします」の方がイメージ通りである。父のいうとおり、今更イメージを崩すわけにもいくまい。
アスティラからすれば、勝手に軟弱なイメージをつけられることにモヤモヤする気持ちはあるものの、誰に憚ることなく趣味に没頭できる良い機会だった。なんとなく、ヘリクス・オットーに感謝したい気持ちすら生まれてくる。面倒ごとに変わりはないけれど、今の所の実害は出ていないのだ。
「……仕方ないな。許可しよう。ただし、羽目を外して怪我をしないように」
騎士団長にも言っておく、と、疲れた調子で父は言った。アスティラは満面の笑みを浮かべると、「ありがとう、お父様!」と、残りの朝食をかきこんだ。
アスティラ・ノクトをよく知る人は、アスティラのことを「顔と趣味が一致しなさすぎて怖い」と言う。
そんなにおかしな趣味だろうか、と、アスティラ自身は不服なのだが、公爵令嬢という括りで見たら確かにおかしい趣味かもしれない。
アスティラは幼い頃から体を動かすことが大好きで、いつの間にか、武術・格闘、武芸全般に深い興味を持つようになっていた。今ではすっかり、闘技場の常連である。
家門の教育も原因だったとアスティラは思う。
ノクト公爵家は跡取りとなれる子供が双子な上、長子が女性のアスティラだった。女性でも跡を継ぐことはできるが、慣習的には男性が継ぐ場合が殆どなのだ。
結果、両親は双子が産まれてすぐに「後継者は適性を見て決めよう」と決断し、性別関係なく、二人ともに全く同じ教育を施すことにしたのである。その中には当然、後継者教育も――なぜだか令嬢教育も含まれた。
「ディラ! だから言ったじゃん!」
朝食から戻り、自室で支度をしていると、遅れてきたアストルがノックもそこそこに飛び込んできた。
銀髪青目の、客観的に見れば麗しい青年。とはいえ背格好も顔もアスティラと同じなので、アストルと対面するとき、アスティラはいつも妙な安心感を覚える。
アストルは怒った調子でアスティラに詰め寄ってくるが、その実、本心では怒っていないことも、アスティラは知っていた。
「いやぁ、ごめん、ごめんって。っていうかこの場合は、トールが私に謝るべきじゃない?」
「うっ……それは、そうかもしれないけど」
言い返すと、アストルは押し黙ってその頬をうっすら染めた。
自分と同じ顔だが、アストルは表情からしてアスティラと全く異なり、アスティラが見ても可愛いな、と思ってしまう。もじもじとした様子は少し頼りなくも見えるが、身内にしか見せない表情でもあるので許容範囲だろう。アスティラと同じく、アストルもパーティでの発言はセーブをかけられている。
「そもそも、ディラが身代わりになってくれなんていうから起こったわけでっ!」
カッと顔を真っ赤にしながら、アストルはそう叫んだ。
アスティラは慌ててアストルの口を押さえると、周囲の侍女たちの様子を伺う。“共犯”の侍女たちは心得た様子で頷きを返してくれて、両親は声の届く範囲にいないらしい。良かった、と、アスティラは胸を撫で下ろした。
「しょうがないでしょ? 先月末の闘技大会、隣国の騎士団長が参加されてたんだもの」
自国の騎士団ならいくらでも伝手があるが、隣国となるとそうもいかない。手合わせできる貴重な機会は逃したくなくて、先月末、アスティラは予定していたパーティの参加を見送った。
とはいえ、どれほどアスティラに理解があっても、パーティを欠席して闘技大会に出場することを許してくれる両親ではない。
というかそもそも、アスティラの闘技場通いだって、“観戦のため”だと思っている可能性がある。そう思ってもらえるようにアスティラも誤魔化しているのだ。
「大体、あの身代わりはトールにも旨味があったじゃない」
続けて言えば、アストルは何も言えずにうう、と押し黙った。
両親にとって誤算だったのは、アスティラとアストル、それぞれが性別と真逆の教育に強い関心を持ってしまったことだろう。
武芸に興味を示し、家門の騎士団に幼い頃から出入りし見習いたちと一緒の訓練を受けてきたアスティラ。刺繍に強い関心を持ち、暇があれば刺繍をし続け王室に献上できるほどの腕前となったアストル。
当然、教育自体は二人とも同じなので、アストルだってかなり腕の立つ剣士だし、アスティラだって一般流通できる程度の刺繍は編める。ただ二人とも、のめり込みかたと、のめり込む先が他と違っていただけだ。
「しょうがないじゃないか……! だってあの日の王妃様のドレス、マダム・ポリーが十年ぶりに自分で手がけた完全新作だって噂だったんだもん……!」
アストルは嘆くように言った。
流石に男の姿で王妃陛下のドレスを凝視はできないので、要は互いに利があったのだ。
アストルとの“入れ替わり”は、これまでも度々行なってきたことだった。
何せ、顔が同じ、体格もほぼ同じなのだ。
流石に二人が並べば男女の別は分かるが、単体で見ると両親も気づかない事があるくらいなので、互いに都合が悪い時は、入れ替わって立ち回ったりしていた。
それでバレたことはないし――今回の件を加えるならば、アストルの女装は、一人の貴族男性を一目惚れさせるくらいには、完璧だったらしい。
「とにかく、起こったことはしょうがないし! 別に私が困っているわけでもないし!」
「いや、困ってるでしょ! ディラの婚約に響いたらどうするの」
「っていったって、私の婚約事情、お父様の話だと何かあるっぽいけど、今のところ私が一番知らないし……興味もないし……トールは何か知ってる?」
「えっ……いや、まあ、その、僕も知らないけど……」
「なら実害なし!」
アスティラは宣言すると、アストルの背中を押して部屋の外に追い出した。
父からの許可を得たので、今日はこの後、騎士団の訓練に混ぜてもらうのだ。
(これで当分は、遠慮なく訓練できるし、闘技場にも通えるぞ〜!)
呑気なアスティラは、そのように考えていた。
城下町にある闘技場は、国営で毎週末に小規模の大会が開かれている。
闘技大会はこの国の主要スポーツの一つで、闘技大会の観戦が貴族の嗜みの一つでもあった。
闘技大会では厳格にルールが決められていて、そのルールを遵守しながら力と技術を競うことが美徳とされる。ゆえに怪我はあれど死者が出ることはなく、近頃では若い令嬢や貴婦人も安心して楽しめる、「刺激的なスポーツ」という位置づけだった。
ただし、一概に「闘技」と言っても種々あるため、大会自体は種目ごとに開催される。「剣術大会」や「格闘大会」といった具合で、細かなルールは種目単位で決められていた。
「あれ、ディル?」
今日の種目は剣術である。
アスティラが選手控室の隅でくったりと椅子に凭れていると、ぼんやりとした声が聞こえて顔を上げた。
ミルクティー色の髪を持つ、セル、という名の男だった。
父からの許可――社交界に出なくていい、というだけの許可だが――を得たアスティラは、平日は騎士団の訓練に交じり、週末になると闘技大会に出場していた。
当然、公爵令嬢が出場していると知られたら騒ぎになりかねないので、鬘を被って変装をし、男と偽って出場している。ノクト公爵家の直系は皆銀髪を持って生まれるので、銀髪というだけでそれなりに目立ってしまうのだ。
逆を言えば、銀髪さえ隠せば、ある程度誤魔化せてしまう。
セルは、アスティラが決勝戦でよく戦う相手だった。
端正な顔立ち……だと思うのだが、目を覆う色のついたゴーグルが印象的な男である。
視力補正のためゴーグルをつけているらしい。普通の眼鏡では試合中落としてしまうのだと言っていた。
「セル。先週ぶり」
「おう、先週ぶり。お前、次いつ来れるかわからないって言ってなかったか?」
言いながら、セルは適当な椅子を引っ張ってきてアスティラの隣に座った。
アスティラのここでの呼び名は「ディル」だ。セルはまじまじとアスティラを見つめながら、不思議そうに首を傾げた。
「うん、そのはずだったんだけど、色々あってしばらくはこっちに専念できることになってね。少なくとも一か月くらいは、毎週参加できると思う」
「お、それはいいな。ってことは、初めて格闘戦ができるってわけか」
「格闘戦で僕が決勝まで行けたらの話だけどねぇ」
けらけらとアスティラが笑うと、セルは「お前ならいけるだろ」と笑った。ゴーグル越しの目元が優しく和らいで、アスティラも笑みを深める。
毎週末この男と試合をしているので、試合中とのギャップが少しだけ面白く感じた。
アスティラも、セルも、武芸全般を修めているため、週替わりで種目が変わる闘技大会において、基本的にどの週でも出場可能な稀有な選手だった。
通常であれば、騎士は剣か槍、格闘家は格闘のみ、など、武器や技術に応じて専門が決まるものだ。
多くの選手がそうで、彼らは月間の大会スケジュールを見て、自分が出場できる週の大会にだけ参加する。
けれどもアスティラとセルの二人は、種目に関係なく毎週出場している上に、どの種目でもほとんど必ず決勝まで上り詰めるので、闘技場からも「主力選手」「目玉選手」として重宝されていた。
「近頃またディルのファンが増えたんじゃないか?」
「それをいうならセルもそうだろ。南側の観客席、セルの名前の旗で埋まってたし」
「ディルカラーの黒いモチーフをつけてるご令嬢方はほとんど全席に座ってらっしゃるけどな」
ああ言えばこう言う。アスティラはひょいと肩を竦めて手元の兜を頭にはめた。
アスティラの黒い兜を見とめると、セルは「俺も準備しないと」と立ち上がった。
それで、アスティラは「じゃあまた決勝で」と拳を突き出す。
「おう、また決勝で」
突き出した拳には、セルの拳がこつん、と重なる。
選手集合の呼び声を受けて、アスティラはのんびりと席を立った。
アスティラが闘技場に通う理由は、単純に自分の実力を試したいからだった。
後継者教育の一環で武芸を叩き込まれたものの、もっと深く学びたい、技を極めたいと強く望んだアスティラは、「アストルと一緒なら」という条件付きでノクト騎士団の訓練に混ぜてもらっていた。
父・ノクト公爵は王国の軍部を任される人物であり、ゆえにノクト騎士団は王国内でも指折りの実力者ばかりである。
彼らの指導を受けながら、苦手がないように、得意はもっと伸びるように、厳しくものびのびと訓練を受けた結果、アスティラの実力は騎士団内でも上位に達していた。
騎士団の先達から、口々に「かなりの腕前」と評価をもらえば、アスティラとしては「実際の実力はどうなんだろう?」ということが気になってくる。
いくら騎士団内で上位の実力、と言われても、実践に連れて行ってもらえるわけではないからだ。
そんな折、闘技場の存在を知り、「これだ」と思ったのがきっかけだった。
数度、「闘技場観戦」として通って見せたら、あとはそのまま参加者として登録してしまえばいい。やってみると簡単で、あっという間にアスティラは「ディル」になった。
「ディル」のことを知っているのは、トールとアスティラの侍女数名だけだ。もしかしたら父は知っているかもしれないが、今のところ何も言われていないので、おそらく黙認されている。
「は? 婚約、ですか? 私が?」
週末の剣術大会を終えた翌日、父の執務室に呼び出されたアスティラは、淡々と告げられた言葉に思わず声を上げた。
父はどっしりと椅子に座ったまま、「かなり前から出ていた話なんだがな」と資料をアスティラの方に寄越した。
差し出されたのでそのまま受け取ると、婚約者――今のところはまだ、見合い相手――の情報のようだった。
「って、テナブル大公子息じゃないですか」
その、一番上に書かれた名前を見て思わず父の顔を見る。
父は鷹揚に頷くと、「だから慎重に検討していたんだ」と告げた。
テナブル大公子息、セルム・テナブルは、厳密にはテナブル大公と血のつながりのない、養子とされている。
テナブル大公は若くして妻を亡くしたため子がなく、後継者とすべく引き取られたのがセルムだった。
養子とはいえ大公家の後継者だし、セルム自身も非常に優秀な人物で、貴族学校を首席卒業している。今は大公領の実質的な経営を行う傍ら、大公の秘書官として働いているとも聞いていた。
「……ってことは、私は公爵家は継げないと?」
「その辺も含めての調整だったんだ。結論、アストルにノクトを継ぐ意思がなければ、お前が大公夫人の傍ら、ノクト公爵を名乗ることで先方とも了承している」
はあ、と、アスティラはぼんやりとした声を出した。
「えーと、ということは、かなり前から打診があった?」
「話自体は、お前たちが社交デビューをした年には来ていたんだが。うちとしても後継者問題を考えあぐねていたし……アストルはほら、自分の事業があるだろう」
父はそういうと、苦笑いをしながら「まあ、好きなことに打ち込めるなら、その方がいいからな」と言った。
アストルは刺繍好き、乙女趣味が高じて自分のブティックを持つに至り、近頃では「新進気鋭のデザイナー」として若い令嬢たちの間で話題になっている。当然正体を隠して運営しているため、その「新進気鋭のデザイナー」がアストル・ノクトと知っている人間は限られていた。
実際、一緒に後継者教育を受けていても、前のめりに聞いていたのはアスティラの方で、アストルはなんというか、「知的好奇心を満たす」程度の関心しかなかった。
父はそんなアストルの姿勢を知っているので、「アストルを後継者とする」こと自体を躊躇っているようだった。
「仮にアスティラが継がず、アストルが公爵家を継いだ場合でも、あちらはお前が領地経営に携わることを歓迎してくれる。近頃の施策の動きなども、よく見てくださっているからな」
「なるほど……? 私にとっては、“やること”があまり変わらない、と」
「そういうことだ」
ふうん、と、アスティラはもう一度まじまじと書類に目を移した。
アスティラの気持ち的には、継ぐ・継がないは別として、領地経営に携わりたい気持ちがあった。
限られた資源の中で、領民の生活をいかに向上させ、自分たちも収益を得るか、ということを考えるのは、単純に面白いしわくわくする。領民と触れ合う中で感謝されるのも気持ちがいいし、何より、自分のやってきたことが成果として目に見えるのが性に合った。
なので、仮に本当にテナブル大公子息と結婚したとして――将来的にテナブル大公夫人になったとして、領地経営に携われるのなら、まあ、損はないかも? という気がしていた。
「……ん? っていうか、今のタイミングで話が進んだのは、やっぱり例の噂の件ですか? その、ヘリクス・オットーの……」
アスティラに情報開示するまでに至った理由を考えれば、件のパーティが原因に違いない。確信をもって聞くと、父はゆっくり頷きながら、「実は、テナブル大公も参っておられてな」と言った。
「どういうことです?」
「……オットー侯爵家は、先々代のテナブル大公夫人の生家だろう」
「あー……なるほど?」
要はテナブル大公家としても、縁戚にあたるオットー家の次男がやらかしたせいで、少し困ったことになっているらしい。
「先代オットー侯爵のころから、テナブル大公家の後継者問題に口を出すことが増えているらしい。ヘリクス・オットーは幼少期にテナブル家の後継者教育を受けているし……」
「えっ、あのクズ……すみません、あの人が?」
「数年間で打ち切りになったと聞いているから、知っている貴族は少ないかもしれんな。とにかく、変にそういう関係があるせいで、セルム氏に婚約者がいないことを、後継者にふさわしくない、と言っているようなんだ」
なんとなく話が見えてきたぞ、と、アスティラは顔を顰めた。
そして同時に、このタイミングでアスティラへの求婚をしてきていて――セルム・テナブル側が動き出したなら、その理由も透けて見える。
当然あり得ない理屈だが、ヘリクス・オットーは、アスティラと婚約することがテナブル大公家の後継者になる条件だ……と思っているのかもしれない。
婚約破棄宣言の時から「頭がおかしい」と思っていたが、やっぱり頭がおかしい、と、アスティラは心の中だけで呟いた。もっともそれは、この件に関わる誰もが思っていることだろう。
「とにかく、急ぎ、今月中には婚約をまとめる予定だ。水曜にテナブル大公とセルム氏がいらっしゃる予定だから、そのつもりでいなさい」
話は以上、と、父はあっという間に顔を机上に戻してしまった。
アスティラは見られていないのをいいことにひょいと肩を竦めたが、それだけ。「わかりました」と返事をしたが、父からの返答はもう何もなかった。
水曜日の顔合わせは何の障害もなく終了し、その翌日には両家の婚約は王家によって承認された。
特に話が盛り上がったわけでも、気が合ったわけでもなかったが、とりあえず「互いに互いを不快にさせる相手ではない」ということが分かったので、「それじゃあお互い都合もいいし」とそのまま婚約に至った形だ。
今回の件で後継問題もいくらか整理されたので、「後々どうなるかはわからないけど、今はしておいた方が互いに都合がいいだろう」という程度のものだ。
とはいえ、婚約は婚約。互いに理解を深めるため、毎週水曜日に茶会をすることが取り決められ、開催場所は週ごと入れ替わる形で合意した。
顔合わせがノクト邸だったので、初週はテナブル邸で開催された。
アスティラから見たセルム・テナブルの第一印象は、「ぱっとしない男」というものだった。
ミルクティー色の髪は前髪が長く顔がよく見えない。分厚い眼鏡は少し色がついているようで、たとえ前髪を掻き分けてもなんとなく顔の全貌がはっきりしない印象を受けた。
事前の情報で「非常に優秀」と聞いていただけあり、テナブル大公領、ノクト領それぞれの特産品や、今後の発展についての見解など、領地経営に関する話はそこそこ盛り上がったと思う。
ただこのセルムという男、致命的に会話が下手で、アスティラが話を振らなければ黙り込んだまま、黙々と茶を飲む人形か何かのようだった。
初回の茶会はそういう感じで、“らしくない”気遣いをしたアスティラは疲れ切って帰宅した。
あんまりぐったりした様子で帰ってきたので、アストルが「珍しいものを見た」という顔でぎょっとしたくらいだ。闘技大会で大負けした日も顔だけはすっきりした表情で帰宅するので、よほど疲れて見えたらしい。
「そんなに話すことないの?」
いやだ~、と、クッションを抱えてごろごろとベッドを転がるアスティラを見て、クッキーをかじるアストルは不思議そうな声で聞いた。
セルムとの茶会はすでに何度も繰り返されているが、週を追うごとに会話がなくなっている。今では互いに無言のまま、茶を飲んで時間いっぱいを過ごす、だけの空間になっていた。
「話すことがないっていうか……だってほら、私が急に騎士団の訓練の話とかしても、驚くでしょ」
うう、と唸りながら伝えると、アストルは少し驚いた様子でぱちりと瞬きをした。
「え、律儀にちゃんとイメージ守ってんの? ディラ、成長したねぇ」
「成長したねぇ、じゃないのよ、成長したねぇ、じゃ! ……そりゃあ、今この婚約がダメになったらあまりよくないことくらい、誰だってわかるでしょ」
続けて言えば、アストルは「まあ、そりゃそうか」と納得したように頷いた。
アスティラとセルムの婚約は大々的に新聞で報じられ、ヘリクスとの噂はかなり下火になりつつある。
テナブル大公家、という大物が出てきたことによって、「ノクト家とオットー家、どちらの主張が正しいんだ?」という世論が、一気にノクト家有利に動いたのだ。
逆に言えば、今このタイミングで二人の婚約が破棄、あるいは白紙撤回された場合、世間の見え方としては、「アスティラに問題があるようだ」となりかねない。セルム起因ならまだしも、アスティラの態度で婚約が左右されてしまってはいけないのだ。
「そうはいっても、そろそろ準備しなきゃいけないんじゃないの?」
アストルはもう一枚、クッキーを頬張りながら、いまだゴロゴロと転がり続けるアスティラを眺めている。
今日は水曜日、今週の茶会はノクト家の予定で、あと二時間もしないうちにセルムがやってくるだろう。
「……だめ?」
どうしても、どうしても、今日のアスティラはやる気になれなかった。
そもそも、あまり気を遣うことを得意としていないのだ。
家族はそれを理解しているから、パーティで「喋らないこと」と厳命していたくらいなのに。婚約者相手にこれ以上ないほど気を遣っていて、気持ち的には「一旦休憩ください!」という感じだ。
アスティラがじっとアストルを見上げると、アストルはあからさまに渋い顔をして、「……本気で言ってる?」とひっそりした声で問いかけた。
「さすがにばれるでしょ?! 婚約者だよ!?」
「そうだけど! そうだけどぉ! あの人、来てもお茶しか見てないからいけるって!」
お茶しか見てない、と、言葉にしてみるとなんとなく情けない気分になった。
アスティラとしては、互いに利点あっての婚約なので、セルムとの間に恋愛感情が生まれなくても仕方がない、と思っているが、人間として尊重されるかどうかは別の話だ。
今のアスティラはセルムから尊重されていない感じがして、それが居心地悪く感じているのだと唐突に理解する。
アストルがますます渋い顔をした。
「……僕が行くくらいなら、潔く仮病でお休みにしたほうがいいんじゃない?」
「もう遅いよぉ! トールが来たから、今日は代わってもらおうと思ったのに」
「最初から僕を当てにするな、僕を!」
言えば、アストルは盛大にため息をついて頭を抱えた。
そのまま、ちらり、ちらりとアスティラの侍女たちを見回す。代表して侍女の一人が、「お気づきになられないかと存じます」と答えた。
「……今日だけだからね?」
がっくりと肩を落として、アストルは頷いた。
アスティラはそれで、パッと体を起こして「ありがとう!」と叫ぶ。勢いのままアストルに飛びつくと、食べかけのクッキーがぽろりと床に転がった。
実際、気づかれるかどうかは半々くらいの確立だろう、とアスティラは思っていた。
気づかなければそのまま茶会を続行するだろうし、気づいたら気づいたで、茶会の席が騒がしくなるはず。
気づかれなければセルムにとってアスティラは“その程度”の相手だということで――気づいてくれたのなら、婚約者を見分けるくらいの目利きはある、ということだ。
ただそれだけなのに、妙にそわそわとした心地でアスティラは茶会を見守っていた。
婚約者とはいえ、まだ籍を入れていない男女二人が密室で面会するのはあまり外聞がよくない。
茶会はそのためいつも庭のガゼボと決まっていて、ガゼボの様子はアスティラの部屋からでもかろうじて窺えた。
アスティラが見ていた限り、セルムはアスティラに扮したアストルと普通に談笑し――何なら少し、アスティラの時より会話が弾んでいるようにさえ思え――アスティラのもとに怒ってやってくることも、どういうことかと騒ぎになることもなかった。
(結局そんなものか)
何を期待していたわけでもないのだけれど、いざ直面してみると“何か”が心にどっしり鎮座した感じがして、おさまりが悪い。
戻ってきたアストルは「次は絶対にやらないからね」と宣言をして、セルムとどんな話をしたのか、結局気づかれたのか、気づかれなかったのかも、上手く聞き出すことができなかった。
「なんだか調子が悪そうだな」
闘技場の裏手には、準備運動ができる広場があって、アスティラはディルとして広場の端に座り込んでいた。
セルムとの茶会は水曜日なので、闘技大会への出場はこれまでも変わりなく行えている。今までは、茶会での気疲れ・ストレスを発散するように大会に出ていたのだが、今日はうまく力が出せず、辛勝を繰り返していた。
「セル」
「珍しく悩んでいる感じだったけど」
剣先がぶれてたぞ、と、軽い調子で言いながらセルが隣に座り込む。
次の試合は準決勝で、今は試合前の休憩時間だ。アスティラの試合は次で、セルはつい先ほど、一足先に決勝進出を決めたところだった。順当にアスティラが勝てば、今日の大会もアスティラ対セルの決勝になる。
「あー……まあ、悩んでるっちゃあ悩んでるけど。いいの? 敵に塩送るような真似して」
試合終わりで疲れているだろうに、体も休ませず真っ先にこちらに来たということは、それほど“ディル”の試合が目に余ったということだろう。
アスティラも、今日の自分の試合はひどいものだという自覚があった。
(師匠たちからも、お前は悩み始めるとすぐ剣に出るって言われてるしなあ)
見る人が見ればわかってしまうのだろう。そして、セルはわかってしまう側の人だ。
とはいえ、決勝で当たるかもしれない相手に話を聞きに来るなんて、お人よしだとも思う。アスティラなら放っておいたかもしれない。考えて、いや、やっぱりセル相手だったら話を聞いたかも、と思い直す。
「そりゃ、気になるだろ。お前とは全力で戦いたいし」
「……まあ、そりゃそうか。僕もそうだ」
全力で戦って、戦うのが楽しい、と思える相手はセルだけだった。
騎士団の師匠たちとはどうしたって“訓練”になるし、上位者との手合わせは勉強になるが「楽しい」とは少し違う。
セルは実力が拮抗しているので、負けたくない、という気持ちと、楽しいという気持ちと、もっと続けたいと思う気持ちと……何がそう思わせるのかわからないが、たぶん、「ちょうどいい」のだろうとアスティラは思っている。
実力も、相性も、何もかもが「ちょうどいい」のだ。武芸に対する向き合い方も含めて。
「……お前みたいな人だったらいいのに」
「? 何が?」
「あ……いや。その、」
思わず零れた本音は、セルに聞き逃してもらえず問い返された。
アスティラは少し考えて、「実は、毎週話をしなきゃいけない相手がいるんだけど」とやんわり相談してみることにした。
「その、なんていうか。相手がどんな話題が好きなのか、全然わからなくて。僕も話題に偏りがあるから、どうしてもつまらない時間になってしまって」
言葉にしてみると、段々落ち込んでくる。これほどやきもき考えているのが、きっと自分だけだろうと思うと余計に惨めな気持ちになった。
(大体、好きでもない相手に、なんだってこんなに心を砕かなきゃいけないんだ)
せめてセルムの方から、少しでも「どういう女性が好き」とか、「こういうことに興味がある」とか、セルム自身を開示するような情報があれば話は別なのだけれど。
はあ、と息を吐いたアスティラを見て、セルは「相談に乗ってやりたいけど、俺にも覚えがあって、あんまり役に立ちそうにないなあ」とぼやいた。
意外な言葉に思わず顔を上げる。セルは困った様子で頬を掻くと、「婚約者がさ、」と話を続けた。
「いろいろ話をしてくれるんだけど。すごく素敵な人だから、俺の話はつまらないだろうなと思うと、何も話せなくなってしまって。先日はとうとう、代役を立てられてしまってな……」
「代役?」
「ご家族がね、代わりに」
言いながら、セルは窺うようにアスティラの顔を覗き込んだ。
アスティラは「それはひどいな」と口だけで言いながら、つい先日自分も同じことをしたな、と振り返る。
「……その、セルは、代役を立てられて腹が立たなかったのか?」
客観的に聞くとひどい話だ。そして、そういう“ひどい話”を自分も相手にしたのだ、と思うと、途端に申し訳ない気持ちになった。
セルに聞いたところで、セルムが怒ったかどうかはわからないのに、なんとなく、セルの言葉で罪悪感を流してしまいたい気持ちになる。
セルは緩く首を振ると、「残念には思ったけど」と正直に言った。
「そもそも、俺の話がつまらんのが原因だろうなって。でも本当に、ガラス細工みたいに繊細な人なんだよ」
「……どんな人だよ?」
ガラス細工みたいに繊細、と言われても、アスティラは首を傾げるしかない。
セルは苦笑しながら「それは言えないんだけどっ!」と首を振った。
「……まあ、いいけど。セルは別に、つまらない男じゃないと思うけどな。そうやって普段通り話せばいいんじゃない?」
一つ、言えるならば、アスティラから見たセルは別段つまらない男ではない、ということだった。
それは単に、アスティラがセルと剣を交え、拳を交え、幾戦も試合をこなしてきたからかもしれないけれど。
セルは意外そうに眼を丸めると、「お前にそう言ってもらえると嬉しいな」と柔らかく笑った。
そのタイミングで、次の試合の選手が呼ばれ始める。ディルの名前が呼ばれて、アスティラはゆっくり立ち上がった。
悩んでいたことは何一つ解決しなかったし、途中からセルの悩みを聞いていたような気もするが、なんとなく気が紛れた気がして、礼を言う。
「とにかく、今は目の前の試合に集中しなきゃだよな」
「そうそう。決勝で待ってるぞ」
「おー」
ありがと、と笑って告げると、セルはぎこちなく動きを止めた。
アスティラはそのまま、装備を確認して入場門の方へ向かう。結局、セルに言った通り、アストルに言われた通り、どこかでアスティラは、セルムに“自分”のことを話さなきゃいけないのだろう。
(わかってる。……わかってるよ)
ただ、これまでずっと秘密にしてきたことを、自分から話すのは少し、怖い。
家族や騎士団の人々のように、何の抵抗もなく受け入れてもらえるとはアスティラだって思っていない。
普通の令嬢は武芸を極めようなどとはしないし、間違っても闘技大会に出場なんてしないのだ。
(……わかってるんだけどなあ)
それでも、目の前の試合に集中しようと思えばできてしまう、剣を握る手に力をこめられるのは、アスティラがアスティラである理由で、アスティラがこれまで積み上げてきたものの一つだった。
セルムとの微妙な茶会はそれ以降も改善することはなく、そろそろ年末になろうかとしていた。
夏ごろに起きた婚約破棄騒動も、さすがに半年近くたてば完全に消え去って、ノクト家とテナブル家という、大きな家門同士の繋がりが強化された事実だけが残っている。
近頃は招待されるパーティへもセルムのエスコートで参加するので、アストルに身代わりを頼む機会がなくなっていた。
「年末のパーティ、ですか」
王家主催で行われる年末のパーティは、王宮で行われ、基本的には家門単位で参加する。
ただし、結婚間近な婚約者同士だと、どちらかの家門と一緒に婚約者も入場するのが通例だった。
「そうだ。アスティラ、お前はテナブル大公家として入場しなさい」
「……」
父は言いながら、「セルムくんからアクセサリーも受け取ったのだろう?」と続ける。それは事実なので、アスティラは大人しく頷いた。
「……ちなみに、私たちの結婚をどのくらいでしようと思ってるんです?」
ただ、共に入場をする、ということは、結婚が間近だ、と宣言することと同義だ。
アスティラが困惑して問いかけると、父はひょいと顔を上げて、「別に、お前たちがその気になればいつでもいいが」と不思議そうに言った。
「毎週ちゃんと続いているし、二人で出かけてもいるし、てっきり打ち解けていると思っていたが」
違うのか? と、父は聞いてくる。
アスティラは何とも答えにくくて、「えーと、」と曖昧に言葉を濁した。
「……その、先方は何と?」
「大公殿下も、セルムくんも、是非に、と」
「そうですか……」
アスティラは少し考えて、「その、」と言葉を探した。
「今年は、まだ、ノクト家として参加したいです」
どう言ったものか考えて、結局出てきたのは率直な言葉だった。
父が意外そうに眼を見開いて、「何故だ?」と問う。アスティラは「そのぉ、」ともう一度言葉を探す羽目になった。
「なんというか。えーと、お茶会……正直……全然会話が続かなくて……」
あまり正直に伝えたい話ではなかったが、背に腹は代えられない。
アスティラが言うと、父はすっと眉間に皺を寄せて、「……というと?」と続きを求めた。
「私の趣味が武芸だってお伝えしてません」
「……それで?」
「その、セルム様もたぶん気づいてないんじゃないかなー、と……思ってまして……あの、デートとかも劇場とか、宝石店とか、そういうところばっかり連れてかれますし……トールにめっちゃ羨ましがられる場所というか……」
ぼそぼそと続けると、父は難しい顔で口を噤んだ。
アスティラは神妙な面持ちで答えを待ちながら、即座に叱りの言葉が飛んでこなかったことに安堵していた。
まさか父も、アスティラが律儀にイメージを守り続けているとは思っていなかったのだろう。アスティラだって、こんな事情での婚約でなければ早々に素を出せるよう尽力したに違いない。
(なんというか、タイミングを掴み損ねて、そのままだったんだよね…)
それがよいか悪いかはわからないが。
結果として、アスティラとセルムは、互いに手ごたえのない距離感を保ったままでいる。
「……事情は、なんとなく、理解した。そういうことなら、今年もノクト家として参加しなさい。ただ、対外的に婚約中のアピールはしたいから、入場後はセルムくんにうちまで来てもらうぞ?」
「わかりました」
それでいいです、と、アスティラは同意した。
父はゆっくり息を吐くと、「なんというか、お前たちは相性がいいと思ってるんだがな」とそんなことをぼやいた。
(私と? あの人が?)
父はどこをどう見て、何を知って“相性がいい”と言っているのか。
わからなかったが、それで話は終わりのようだったので、アスティラは執務室から辞すことにした。
「うん、渾身の一着。さすがディラ。スタイルと顔だけはめちゃくちゃいい」
「それ、自分の顔に言ってるのとおんなじだから、そろそろナルシストを自覚した方がよくない?」
年末パーティ当日。
満足げにアスティラを見て何度も頷くアストルは、くるくるとアスティラの周りを動きながらドレスの最終チェックをしていた。
テナブル大公家として入場するならば、ドレスもあちらが用意したものを着用するのが礼儀だが、今年はアスティラが駄々をこねたおかげでノクト家としての入場である。
おかげで、アストルが「絶対ドレス作りたい!」と意気込み、家族全員のドレスと礼服を作り上げてしまった。
ノクト家の直系は銀髪青目を持って生まれるので、家族のうち、母以外の三人が銀髪青目で同色である。母は黒髪青目で、色味としての相性が良いので、今年のノクト家の衣装は濃紺に銀の装飾をちりばめたシックなデザインだった。
元々色味的に寒色系を贈られやすいので、当然、セルムから送られたアクセサリー一式との調和も問題がない。
アストルが満足そうなので、アスティラは「まあいいか」という気持ちでパーティに向かった。
王宮のパーティは華やかで、国中の貴族が参加する。
普段は地方から出てこない貴族たちもやってきて、一晩中踊ったり談笑したりするのが習わしである。年明けと同時に国王が貴族に向けて挨拶をし、貴族代表としてテナブル大公が挨拶を返すことで、新年の宴へとパーティが切り替わるのだ。
「アスティラ嬢」
普段よりも多くの人が集まる中、公爵家のために設けられたスペースで待っていると、大公家のテーブルからセルムがやってきた。
アスティラはすぐに立ち上がって挨拶しながら、ノクト家のテーブルにセルムを案内する。セルムは少し落ち着きのない様子で、ありがとう、と礼を述べた。
「本日はすみませんでした。アストルのこのドレスをどうしても着たくて」
「ああ、いえ、大丈夫です。私の方こそ、早急に話を進めてしまい……」
とりあえず、アスティラはエスコートの件の非礼を詫びなければ、と、適当な言い訳をでっち上げた。横で聞いていたアストルがぎょっとした目でアスティラを見たが、アスティラは素知らぬ振りで「本当にすみません」と殊勝に頭を下げてみせる。
セルムは少し言葉に詰まった様子で、長い前髪の奥からじっとアスティラのことを眺めたようだった。なんとなく、視線の動きを感じる。
「その、本当に素敵なドレスで、アスティラ嬢に良く似合っています」
お綺麗です、と、セルムが言った。
それで、アスティラは「おや」と思う。これまでもセルムはアスティラを褒める言葉を口にしてきたが、なんとなくお世辞っぽさがあったのだ。「よくわからないけど、こう言っておけばいいだろう」というような。
それが、今の誉め言葉にはなかった。
驚いてアスティラがセルムを見返すと、セルムの顔はパッと会場の中央に向く。丁度、音楽隊が演奏を始めたところだった。
「……ディラ、セルム様と踊ってきたら?」
ゆったりとしたテンポで始まった。ワルツである。
アスティラはちらりとセルムをうかがって、セルムは少し迷った様子で、「いかがですか?」と手を差し出した。
誘われたら、踊るしかあるまい。第一、アスティラは体を動かすことが好きなので、当然ダンスも好きだった。
「喜んで」
差し出された手を取ると、アストルが少しだけほっとした顔をした。
父が頷きながら「セルムくん、娘を頼んだよ」と声をかけ、アスティラはセルムに導かれるまま、中央へと進み出た。
(お……踊りやすい……)
正直に言えば、セルムが体を動かすところをアスティラは見たことがなく、それゆえ運動神経がいかほどなのか、全く想像できなかった。
だというのに、実際に踊ってみると非常に踊りやすい。運動ができないどころかかなりできる人の動きで、アスティラが少し無茶な動きをしたいな、と思っても、即座に対応してくれる。
(というか、めっちゃ楽しい!)
普段のパーティは、アストルがいればアストルと一緒に踊っている。
逆を言えば、アストル以外の男性貴族と踊った経験があまりなく、アスティラはパーティの場でのダンスにあまり魅力を感じなくなっていた。
婚約する前までは、ダンスとはお見合いの前哨戦のような扱いで、「気になるあの人と繋ぎを得るための手段」だったからだ。要は、ダンスの技術に重きを置いた人があまりいなかった。
「……楽しいですか?」
だというのに、セルムとのダンスは不思議と息が合って、動きやすくて、楽しかった。
単純に、ダンスにあれこれ余計なものが付属していないからかもしれない。
くるりと体を回しながら、アスティラは「とっても!」と答えた。知らずに笑みを浮かべていた。
瞬間、セルムが驚いた顔でアスティラのことをまじまじと眺める。
急にじっと顔を見られて、アスティラは「な、なんですか?」と問いかけた。ダンス中は相手のことを見るとはいえ、見すぎではないか。アスティラが指摘すると、セルムはパッと顔をよけて「すみません」と小声で謝罪した。
「その……素敵な笑顔だったので、つい」
そのまま、ぼそぼそと凝視の理由を教えてくれる。
笑顔、と、アスティラは口の中で繰り返して動揺した。動揺ついでにステップを一つ飛ばしてしまい、足が縺れる。バランスを崩しそうなところを、セルムが自然な動きでカバーして支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
「……だ、だいじょぶです」
なんだか急に心臓がばくばくと存在を主張してきて、アスティラは引き続き動揺していた。同時に、このばくばくに思い当たることがないわけでもなくて、思考が急に混乱してくる。
(だ……ダンスがうまいからって、そんな、急に惹かれることある!?)
私単純すぎない!?
アスティラの心中は大騒ぎだったが、ダンスはセルムの見事なリードで特別失敗もなく終わった。終わってみれば本当に楽しくて、久しぶりに「踊ったなあ」という実感を得られる時間だった。
「少し休憩しましょうか。飲み物を持ってきます」
あちらにジュースがありましたよね、とセルムが示したので、アスティラは遠慮なくお願いすることにした。
今セルムと一緒にいても動揺してばかりで混乱に拍車がかかりそうであったし、一瞬だけでもいいので一人で考える時間が欲しかった。
(なんなんだ一体……急にどうしたの、私は……)
今までこんなことなかったし、セルムのこと自体はつまらない男だとすら思っていたのに。
(いや、違うか……私なりに歩み寄ろうとしてはいたし……一回トールに代役させたけど……)
セルとの会話を思い出して、代役の件は反省している。それはそれとして、結局セルムとの会話の糸口を掴めないまま、今日まで来てしまっているのだけれど。
「ノクト令嬢!」
なんだかんだ、こうやってセルムのことばかり考えているのが積み重なっている。少なくとも、どうでもいい存在ではないんだよなあ、とアスティラが結論付けたところで、急に名前を呼ばれた。
場違いなほどの大声を上げたのは、あの、ヘリクス・オットーだった。
今日も白い礼服に、金の刺繍をちりばめている。目にした瞬間、アスティラはすっと表情を消してヘリクスを見つめ返した。
「何か御用ですか、オットー様」
アスティラとセルムの婚約で、ヘリクスの婚約破棄と、アスティラへの求婚の噂は完全に消えた状態だった。
アスティラからすれば、それでヘリクスの件は「終わった」状態であり、これ以上ヘリクスに絡まれる理由も何もない。そもそもすでにアスティラはセルムと婚約状態にあり、ここでヘリクスと婚約することはできないからだ。
ただ、ヘリクスの様子を見るに、改めてアスティラに求婚しに来たわけでもないようだった。
ヘリクスは見るからに怒った様子で、握りしめた拳をぶるぶるふるわせている。何かのきっかけがあれば殴りかかってきそうだ、と、アスティラは冷静に考えた。
「僕との婚約の話を蹴っておきながら、セルムなんかと婚約するとは!! これは明確な結婚詐欺だ!! 慰謝料を請求する!!」
ただ、今すぐ殴り掛かるわけではないようだった。
ヘリクスは力強くアスティラを指さすと、やはりよくわからない理論でもってそう主張した。
「……はぁ?」
前回はどうにか堪えた声も、今度は耐え切れずに口から漏れ出てしまう。
アスティラは自分の顔が渋い顔になっていることを自覚しながら、ヘリクスをじろりと睨みつける。ヘリクスはアスティラの睨みなど気にした風もなく、「僕をたぶらかした代償を払ってもらうぞ!」と意気込んでいる。
「たぶらかす、とは?」
「とぼけるな! 以前のパーティで、僕に色目を使ってきたじゃないか! それで僕は、公爵と“僕が婚約を破棄したら”、“アスティラ嬢と婚約できる”と約束いただいたのに!」
でたらめな主張に、反論する気も失せてため息をついてしまう。
ちらり、とセルムが向かった方を見れば、慌てた様子でセルムがこちらに駆けてくるのが見えた。
婚約者がいる状態で、アスティラが一人で解決するのはあまりよくないだろう。
アスティラは頭痛を抑えるようにこめかみに指をあてて、沈黙を保つ。すぐにセルムがやってきて、アスティラとヘリクスの間に入り込んでくれた。
「ヘリクス! 貴様は何をやってるんだ!」
セルムの強張った声がヘリクスを叱責する。
互いに見知った様子の態度に、アスティラは「そういえばこの二人は親戚だった」と思い出す。
(というか、ヘリクスが子供のころにテナブル家の後継者教育を受けていたなら、二人は兄弟みたいに育った可能性があるのか)
思い至れば何とも不思議な感じがした。
片やまともな大人に育ち、片やどうしようもない妄想癖の大人になるなど。
「どけ、ヘリクス! 養子風情が! お前がテナブル大公家を継ぐなどというから、話がややこしくなったんだろう!」
ヘリクスは唾を散らしながら叫んだ。セルムが呆れた様子で、「まだ言ってるのか?」と肩を落としている。どうやら、テナブル家の後継の話題はこの二人の間でしょっちゅう扱われる火種らしい。
(まあ、それもそうか)
見ようによってはライバル同士である。世間一般的に見れば、どう考えてもセルムに軍配が上がっているけれど。
「……大体、お前の話は何もかもが破綻してるじゃないか。そんなだから、大公殿下はお前を後継者候補から外さざるを得なくなったんだ」
「うるさい! 僕の話の何が破綻してるんだ! お前たちこそ破綻してるじゃないかっ!」
ヘリクスの訴えに、アスティラは深く深く息を吐くと、「少し待ってください」と口を挟んだ。
大公家の後継者問題を引っ張ってくるのはいいが、そもそもこの場はアスティラへの慰謝料請求から始まっている。話をあちらこちらに広げないでほしい、というのが、アスティラの本音だった。もっというと、さっさと解消したいのでまとめてしまいたい。
「まず最初に、私はあなた様に色目などは使っておりません。そう見えたなら申し訳ございませんが、あの時点ですでに、セルム様との婚約の話が出ておりましたし、その体で、私も男性貴族とはご挨拶のみとさせていただいておりました」
アスティラが宣言すると、こちらの様子をうかがっていた周囲の貴族たちが、「ああ、確かに」というように囁きあう。
アスティラが壁の花となって、男性貴族から声をかけられてもあいさつ程度で済ませていたのは有名な話だ。だから「高嶺の花」だの「孤高の令嬢」だの噂されていたのだから。
「そして、ご自分の婚約関係を清算しないまま、他家に求婚するような非常識な方とは、たとえその方の婚約関係が清算されたとしても、お付き合いを望みません」
やや回りくどい言い回しで、けれども直接的に拒否を伝えれば、ヘリクスは顔を真っ赤にして「僕のどこが非常識なんだ!」と怒鳴った。
そういうところだよ、と、アスティラは思ったが、さすがに声には出せずに黙り込む。
ヘリクスは「だが、僕は何度も公爵家の屋敷に入れたじゃないか!」と主張した。
「少しでも期待があったから、公爵と面会がかなったんだろう! 知ってるぞ、公爵家と縁続きになりたくとも、望みがない家門は門前払いを食らっていると!」
高らかに言ったヘリクスは、「公爵家の中に入れていたのだから、約束はあったのだ」と主張したいようだった。
アスティラとしては、門前払いの件など知りようもないので「そうなの?」という気持ちだ。ただ、仮にそうだとして、実際に約束していないことを「約束した」と言われても困る。
「……ではお屋敷にいらしている間、私と挨拶をされましたか? 私のことをお呼びになりましたか? 私はあなたにお会いしたでしょうか。そのような事実はないかと思いますが」
とはいえ、わからないことをそのまま伝えて墓穴を掘る必要もないので、アスティラはそれとなく話の筋を変えた。
う、と、ヘリクスが詰まったのが分かった。
「お屋敷にいらしていたころ、まっすぐ父の執務室に向かうものですから、私も弟も、オットー様は事業の融資の相談にいらしているのだと、そう思っておりましたわ。何でも、お抱えの事業の軌道に不安があるとか……」
そこまで続ければ、ヘリクスは今度こそ、震える手を振り上げて、「うるさい!!」と叫んだ。
「うるさいうるさいうるさい!! いいからお前は、慰謝料をよこせ!!!!」
そのまま、振り上げた拳でアスティラの方に突っ込んでくる。
間にいたセルムがヘリクスを止めようと、素早く拘束の体制に入る。ただヘリクスの方が勢いよく飛び出したので、セルムの腕をすり抜けてその拳はアスティラの目前まで迫っていた。
駄目だ、と、わかってはいたのだけれど。
アスティラはするりとドレスの裾をたくし上げると、反射的に足を振り上げヘリクスの横面にヒールを叩きつけていた。
ベキ、だかメキ、だか、とにかく何かが砕ける音がして、ヘリクスが横に吹き飛ぶ。セルムが驚いた顔でこちらを振り向いて、振り上げた足を地につけたアスティラは、しんとなった会場の空気に「あ」と思わず声を上げた。
「……衛兵!」
アスティラの声を掻き消すように声を張り上げたのはセルムだった。
呼びかけと同時に、王宮の衛兵たちが素早くヘリクスを取り囲み、ぐったりと気絶したヘリクスの体を持ち上げた。
数秒とかからず会場の外まで連れ出される様子を、人々が呆気にとられたまま見送っている。
その隙に、セルムが素早くアスティラの腕をとった。
「こっちに」
囁くような声で促されて、アスティラは大人しくセルムに従う。
ちらり、とノクト公爵のテーブルの方を見たが、家族も一部始終を目撃していたようで、笑う母と顰め面の父、アストルが呆れた様子で手を振ってくれた。
(や……ってしまったぁ!)
これまでずっと、「繊細」だの「高嶺」だの「深層」だのと、お嬢様らしいお嬢様のイメージを保ち続けていたのに。
これからどう社交界で過ごしていけばいいんだろう、と、考える反面、ならもういっそ社交界出なくてよくない!? という気持ちも浮かんできて、アスティラは自分の腕を掴むセルムの耳が赤くなっていることに全く気が付かなかった。
セルムに連れてこられたのは王宮内の休憩室だった。
幸いにして利用者は誰もおらず、セルムは素早く人払いの指示をした。
アスティラは促されるまま椅子に座って、蹴った方の足を検分される。ドレスに異常はなし、足にも別に怪我はなし。ヒールもそのまま、全く問題がない。
「あの、その、ええと、これは、その、」
よし、問題がないな、と綿密に調べてくれるセルムに、アスティラはどう言い訳をしようかとしどろもどろ言葉を吐いた。何か言わなければ、という気持ちはあるものの、上手く言葉がまとまらないでいる。
だというのにセルムは、「落ち着け、ディル」なんて急に砕けた調子で言ってくる。
(……ん? ディル?)
その、愛称に違和感があって、アスティラはパッとセルムのことを見上げた。
セルムは鬱陶しかった前髪をひょい、と上げると、分厚い眼鏡をぱっと外して顔を見せる。その顔は、アスティラが闘技場でよく見るセルと同じものだった。
「……セル?」
「うん、俺」
はっ!? と、息をのんだアスティラに追い打ちをかけるように、セル――セルムは頷いて苦笑を浮かべた。
「えっ……? な、なんで? どういうこと!?」
「ええと、それは俺も聞きたい……というか、俺の方が驚いた」
セルムはそう言うと、アスティラの隣の椅子に腰かけながら、「ディルはてっきり、アストルの方だと思ってたんだ」と言った。
「えつ!? えーと……ノクト公爵家の人間だっていうのは、その、知ってたの?」
聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず、セルムの話に合わせて問いかける。
セルムは頷くと、「君たちはわかりやすいから」と言った。
「髪の色は鬘でごまかしていたけど、瞳は何もしていなかっただろう。君たちくらい鮮やかな青目はこの国では珍しいし、ノクト公爵家の誰かだろうとは思ってた。そのうち、観客の中に公爵家の護衛っぽい人がちらほら見えたから、子息の方だろうと」
「あー……やっぱり見守られてたわけか」
「気づいてなかったの? 意外」
「うーん、気づこうとしてなかったというか」
セルムが「ディル」の正体に近づいたきっかけは、観客席に紛れていた護衛だったらしい。
アスティラも武芸の心得があるので、当然、誰かが自分の後をつけていたら察することができるのだけれど、自分の護衛となるとそうもいかない。護衛は「いることが当たり前」なので、なんとなく、特別察知し辛いのだ。
アスティラとしては、父がアスティラの闘技場通いを心配して、何かしら手配をされていそうだなとは思っていたけれど。これまで大会出場について言及されたことがなかったので、知らないか、黙認されていることにしていた。どうやら後者だったらしい。
「それじゃあ、その、やっぱり幻滅したよね……」
ただ一つ問題があって、セルムが「ディル」をアストルだと思って接していたのなら、「アスティラ」に求めていたのはやはり、令嬢らしい令嬢だったということだ。
本来のアストルみたいな、可愛らしいことが好きな可愛らしい令嬢。
なんとなく残念に思って――というよりは、かなり、自分でも予想外に、悲しい気持ちになって――アスティラはぼそぼそとした声で言った。
「いいや?」
だというのに、セルムはあっけらかんとした声で言うと、「逆にアスティラ嬢がディルで本当に嬉しい」と続けた。
「えっ」
「いや、だってそうだろう。普通のご令嬢に、俺の武芸の話なんてしたところで盛り上がるわけもないし……俺は劇も宝石もドレスも菓子もよくわからないから、“そういう”令嬢をどうやって楽しませたらいいのか、本当にわからなかったんだ」
セルムは情けない顔で続けると、「だからずっと、君に負担をかけてばかりでごめん」と言う。
「一度、君がアストルに代役を頼んだことがあっただろう」
「……あっ、あれは!」
「いや、いいんだ。あれで、君が俺の相手に疲れているんだと知れたから」
アスティラは慌てて言い訳しようとして、セルムがそれを許してくれなかった。
確かに、セルは代役についての話をしていた。そして、その時に「怒ってはいない」とも言っていた。
(でも、とはいえ、失礼をしたのは私の方で……!)
知らなかったとはいえ、いや知っていたとしてもやってはいけない失礼だった、と、セルと話して以降ずっと感じていた罪悪感が胸中を埋めていく。
アスティラは慌てて「ごめんなさい!」と頭を下げた。
「その、本当に出来心だったの。というか、その、トールとは時々ああして入れ替わりをしていて……! あの、オットー家の馬鹿……あの人が会ったのもトールの方で……」
トールは乙女趣味だし、繊細で私よりもかわいくって、と、アスティラは混乱のままいらぬことまで話を加える。
セルムが笑ってアスティラの方をトン、と叩いた。
「大丈夫。だから俺は、君が“そういう”令嬢じゃなくて、安心したって言ってるんだ」
それから、「別にそういう令嬢が嫌とも思っていないけど」と続ける。
セルムは気まずそうに頬を掻くと、「君はほら、すごい美人だろう」と言った。
「え?」
「美人で……その、俺なんかが、と気後れしていたこともあって……丁寧に扱わなければ、と」
「……」
アスティラは押し黙ってセルムを見上げた。セルムもまた、アスティラのことを見下ろしている。
「正直に、アストルだと思い込んでいたディルと話しながら、アスティラがディルだったらいいのにと、ずっと思っていたんだ」
「……その、私も、セルム様がセルのようだったらいいのにな、とは」
互いを見つめあったまま、どちらともなくぷっと吹き出して笑う。
アスティラは急に力が抜けた気がして、セルムの肩に頭を乗せた。びくり、と、驚いた様子でセルムがこちらを見る。緊張しているのかもしれない。
セルムが緊張しているのかも、と思えば、アスティラもどこか緊張し始めたような気がして。ダンスの時みたいな、ばくばくと鼓動が主張し始める。
それから、パーティのエスコートを決めるときに、父が言った「相性がいい」という言葉をふと思い出した。
「……セル、いや、えーと、セルム様?」
「セルでいいよ」
「じゃあセル。私たち、実はものすごく相性がいいのかもね」
続ければセルムはふふふ、と優しく笑って、「そうかもな」と同意した。




