白い結婚のはずが、夫が毎晩私の寝室に通ってきます。
「君に夫婦の義務を求めるつもりはない」
結婚式を終えた夜、夫となったクラウス様は、私にそう告げた。
「……はい?」
「寝室も別々に用意してある。君は好きなように暮らしてくれて構わない」
クラウス様は北方の広大な領地を治める辺境伯。そして私は、今日からその妻となったリゼットである。
私たちの結婚は政略結婚だった。
両家の領地間で急ぎの取り決めが必要になり、婚姻の日程が大幅に前倒しされたのだ。本来なら半年ほどかけて互いを知るはずが、正式な婚約からわずか二週間で結婚式を挙げることになった。
まだ数回しか会っていないけれど、私はこの結婚を楽しみにしていた。
クラウス様は穏やかで、私の話を最後まで聞いてくださる方だったから。
それなのに。
「つまり、白い結婚ということでしょうか?」
「ああ。君が望まない限り、夫婦としての関係を求めることはない」
少しだけ胸が痛んだ。
私との結婚は、そんなに気が進まなかったのだろうか。
「誤解しないでほしい。君に不満があるわけじゃない」
クラウス様は慌てて続けた。
「今回はあまりにも急な結婚だった。本来なら、もっと時間をかけて互いを知るはずだっただろう?」
「それは……はい」
「だから、その時間を結婚後に取り戻したい。まずはこの屋敷で安心して暮らしてほしいんだ」
そう言って微笑む彼に、私は少し安心した。
「ありがとうございます、クラウス様」
「こちらこそ。これからよろしく頼む、リゼット」
こうして私たちの結婚生活は、白い結婚として始まった。
◇
翌日の夜。
私は自分の寝室で本を読んでいた。
広い部屋には大きな寝台と暖炉、窓際には小さな机と椅子が二脚。立派な部屋だけれど、少し静かすぎる。
実家では夕食後も母や妹とお茶を飲んでいたから、知らない屋敷で一人きりの夜は思った以上に寂しかった。
コンコン。
「リゼット。クラウスだ。少しいいだろうか」
「はい! どうぞ!」
扉が開き、クラウス様が小さなお盆を持って現れた。
「厨房で焼き菓子を作っていたので、君にもと思って。……迷惑でなければ、一緒にお茶でもどうだろう」
「もちろんです!」
彼はほっとしたように笑った。
窓際の机で向かい合う。
結婚したばかりで、しかも昨夜は白い結婚を宣言された。何を話せばいいのかわからない。
ところが、クラウス様は意外な話を始めた。
「今日、厩舎で馬に嫌われた」
「……馬に?」
「新しく来た馬なんだが、私が近づくと必ず尻を向ける。餌を持っていっても、撫でようとしてもだ」
思わず笑ってしまった。
「ふふっ。きっとクラウス様の緊張が伝わるのでしょう。馬は人の気持ちに敏感だと聞きますから」
「私が緊張しているのか。なるほど、明日はもっと自然に接してみよう」
あまりに真面目な顔で考え込むので、また笑ってしまった。
気づけば半刻が過ぎていた。
「長居してしまったな。ゆっくり休んでくれ」
「あの、焼き菓子、とても美味しかったです」
「それはよかった。また持ってくるよ」
彼が帰った後、私は空になった菓子皿を眺めた。
さっきまで寂しかった部屋が、今は少し暖かく感じられた。
◇
翌日の夜も、クラウス様はやってきた。
今度は珍しい茶葉を持って。
「君は花の香りが好きだと聞いたので」
「まあ、ありがとうございます!」
その夜は私の故郷の話をした。
三日目には領地の地図を持ってきた。
「春になったら、この湖に案内したい。水が澄んでいて、山が映るんだ」
「素敵ですね。ぜひ行ってみたいです」
「では、春になったら一緒に行こう」
四日目には馬の話の続きだった。
「今日は尻を向けられなかった」
「まあ! よかったですね!」
「ただし、足を踏まれた」
「……それは仲良くなったのでしょうか?」
「私にもわからない」
二人で笑った。
五日目には、クラウス様の仕事が長引いた。
私はいつもの時間にお茶を用意して待っていたけれど、扉は叩かれない。
少し残念に思いながら寝ようとした頃、控えめな音がした。
「遅くにすまない。今日は顔だけ見て帰ろうと思ったんだ」
「お疲れさまです。お茶を淹れてありますけれど、少し休んでいかれませんか?」
「……いいのか?」
「もちろんです」
クラウス様は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私も嬉しくなった。
こうして夜のお茶は、私たちの日課になった。
◇
結婚して二週間。
私は、クラウス様が私の話を驚くほどよく覚えていることに気づいた。
好きな花、苦手な食べ物、故郷の思い出。何気なく話したことまで覚えていてくださる。
ある夜、彼が小さな鉢植えを持ってきた。
「庭師が温室で育てていたんだ。君が好きだと言っていた花だろう?」
淡い青色の小さな花。
「……忘れな草」
「ああ。間違っていなかったか?」
「いいえ、大好きな花です。でも、一度しかお話ししていませんよね?」
クラウス様は不思議そうな顔をした。
「君の好きなものだから、覚えていたんだが」
あまりにも当然のように言われ、私は言葉を失った。
「……ありがとうございます」
「喜んでもらえてよかった」
窓際に飾った青い花を眺めながら、その夜はなかなか眠れなかった。
胸の奥が、妙に落ち着かなかったからだ。
◇
さらに一週間が過ぎた。
私は夕食が終わると、自然に時計を見るようになっていた。
あと一時間。あと半刻。
そろそろクラウス様がいらっしゃる頃だ。
侍女のマリーが微笑んだ。
「奥様。今夜も旦那様がお見えになるのですね」
「ええ、多分」
「お茶を二人分、ご用意しておきますね」
マリーは楽しそうに続けた。
「旦那様がこんなに毎晩お話しなさるなんて、驚きました」
「そうなの?」
「普段はお仕事が終わると、書斎で静かに過ごされる方でしたから。最近は夕食の後、時計ばかり気にしていらっしゃいますよ」
「クラウス様が?」
「奥様のお部屋に行く時間を、楽しみにしていらっしゃるのでしょうね」
頬が熱くなった。
クラウス様も楽しみにしてくださっている。
そう思うだけで、こんなにも嬉しい。
けれど、結婚初夜の言葉が蘇った。
『君に夫婦の義務を求めるつもりはない』
毎晩会いに来てくださるのは、慣れない土地で私が寂しくないようにという優しさなのかもしれない。
私は、彼にとって何なのだろう。
◇
その夜、私は思い切って尋ねた。
「クラウス様。どうして毎晩、私の部屋にいらっしゃるのですか?」
彼の手が止まった。
「……迷惑だっただろうか」
「いいえ! 毎晩、とても楽しみにしています」
「そうか。よかった」
彼はほっとしたように笑った。
「君と話したいからだよ」
「……私と?」
「ああ。それだけでは理由にならないだろうか」
私は首を横に振った。
クラウス様は少し照れたように続けた。
「結婚する前、君が話してくれたことを覚えているかい? 結婚したら自分の時間がなくなるのが怖い、と」
確かに、そんな話をしたことがあった。
正式に婚約する前、実家の庭を散歩していたときだ。
「君は妻としての務めを果たし、夫に従わなければならないと考えていたんだろう?」
「……はい」
「だから、せめてこの家では自由でいてほしかった。それに今回は結婚を急がせてしまったからね」
「それで、白い結婚を?」
「ああ。けれど、君と仲良くなりたくないわけじゃない」
彼の声が少し小さくなった。
「むしろ、仲良くなりたかった。ただ、どうすればいいのかわからなくて、とりあえずお茶に誘ってみたんだ」
胸の奥がじんわりと暖かくなった。
焼き菓子を持って、少し緊張した顔で訪ねてきたあの夜。
彼自身も、私と話したかったのだ。
「……私もです」
「うん?」
「私も、クラウス様と仲良くなりたかったんです。だから毎晩、とても嬉しかったです」
彼は驚いた顔をして、それからゆっくり微笑んだ。
「それなら、よかった」
その笑顔を見た瞬間、私ははっきりと自覚した。
私は、この人が好きなのだ。
◇
それから夜のお茶は、以前よりずっと気楽なものになった。
クラウス様は仕事の話をしてくださり、私は昼間に見つけた面白いものを報告する。
ときには何も話さず、同じ本を読んで過ごすこともあった。
ある夜、私は思い切って彼の隣に座ってみた。
「……リゼット?」
「こちらの方が、本を見せていただきやすいので」
「そ、そうか」
彼は少し姿勢を正し、本を私の方へ傾けてくれた。
肩が、ほんの少し触れた。
それだけで心臓が跳ねる。
クラウス様も緊張しているようだったけれど、離れようとはしなかった。
その夜は、いつもより長く一緒にいた。
◇
結婚して一か月。
ある朝、クラウス様が言った。
「今日は午後から雪になるらしい」
「まあ。雪が積もったら、お庭を歩いてみたいです」
「寒いぞ?」
「暖かくしていきます」
「では、私も一緒に行こう」
午後になると、本当に雪が降り始めた。
私は厚手の外套を羽織り、クラウス様と庭へ出た。
木々が薄く白く染まり、とても美しい。
「綺麗ですね。私の故郷では、こんなに早く雪は降りませんでした」
「では、冬の間にいろいろ案内しよう」
「楽しみです」
そう言って歩いていると、足元が滑った。
「きゃっ!」
クラウス様が私を支えてくださった。
「大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます」
彼の腕の中は、思っていたよりずっと暖かかった。
私が立ち直ると、彼はそっと手を離した。
「足元に気をつけて」
「……はい」
もう少し、あのままでいたかった。
そんな自分に気づき、顔が熱くなる。
しばらく歩いてから、私は勇気を出した。
「あの、クラウス様。手をつないでもよろしいですか?」
「……手を?」
「雪で滑ると危ないので」
言い訳だった。
けれど彼は何も言わず、手を差し出してくださった。
「もちろん」
大きくて暖かい手。
指先が触れると、そっと握り返してくれた。
私たちはそのまま、雪の降る庭を歩いた。
◇
その夜。
私はいつものようにお茶を用意しながら、考えていた。
結婚して一か月。
毎晩一緒にお茶を飲み、昼間も時間があれば一緒に過ごす。今日は手もつないだ。
それなのに、寝室は別々のままだ。
もちろん、最初にそう約束したのだから何もおかしくはない。
けれど、私はもっと彼のそばにいたかった。
夜のお茶が終わり、彼が帰ってしまうのが寂しい。
翌朝になればまた会える。それでも、扉が閉まる瞬間、いつも少しだけ胸が痛む。
私は窓際の忘れな草を見つめた。
あの人は、私の自由を大切にしてくださる。
私が望まないことは、決してしない。
だからこそ、私が何を望んでいるのか、伝えなければならない。
コンコン。
「リゼット。少しいいだろうか」
私は扉を開けた。
「クラウス様。お話があります」
「どうしたんだ?」
「今夜のお茶は、クラウス様のお部屋でいただいてもよろしいですか?」
「私の部屋で?」
「はい」
彼は少し戸惑ったけれど、すぐに頷いた。
「もちろん。君がよければ」
◇
クラウス様の寝室は、私の部屋とよく似ていた。
落ち着いた色の家具に、本棚。窓際には椅子が二脚。
私たちはいつものようにお茶を飲んだ。
けれど、私は緊張していた。
何を話そう。どう伝えよう。
そんなことを考えているうちに、時間が過ぎていく。
やがて、クラウス様が時計を見た。
「そろそろ休む時間だね。部屋まで送ろう」
私は慌てて声をかけた。
「あの!」
「うん?」
「……今夜は」
言葉が喉につかえた。
彼は黙って待ってくださった。
いつもそうだ。私が話し終わるまで、決して急かさない。
その優しさに背中を押され、私は顔を上げた。
「今夜は、帰らなくてもいいですか?」
クラウス様が固まった。
「……え?」
「こちらに、泊まってもよろしいでしょうか」
彼はしばらく私を見つめ、それから耳まで赤くなった。
「リ、リゼット。それは……」
「嫌ですか?」
「嫌なわけがない!」
思いがけない大声に、私は目を瞬かせた。
彼は慌てて咳払いをした。
「……すまない。ただ、本当にいいのか? まだ結婚して一か月だ。無理をする必要はないんだよ」
私は首を横に振った。
「無理なんてしていません」
彼の手を取る。
庭でつないだときと同じ、暖かい手だった。
「私は、あなたが好きです」
彼の目が大きく見開かれた。
「……好き?」
「はい。毎晩お茶を飲む時間が大好きです。あなたとお話しするのが楽しくて、いつも夜になるのを待っています」
「リゼット……」
「でも、最近は少し寂しいんです。お茶が終わると、あなたが帰ってしまうから」
クラウス様は息をのんだ。
「朝になればまた会えるのに、もっと一緒にいたいと思ってしまうんです」
頬が熱い。
それでも、最後まで伝えたかった。
「だから……今夜は、帰りたくありません」
彼はしばらく黙っていた。
それから私の手を両手で包み込んだ。
「……参ったな。君にはかなわない」
困ったように笑う。
「私はずっと、君に嫌われないようにと、そればかり考えていた」
「嫌うなんて……」
「最初から、君のことが好きだったんだ」
今度は私が固まった。
「……え?」
「婚約する前から、君が好きだった」
クラウス様は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「初めて会った日のことを覚えているかい? 君の家の庭で、お茶を飲んだ日だ」
「はい」
「あの日、君は庭師が育てた花の名前を、一つずつ教えてくれたね」
確かに、そんなことをした。
春の庭には、たくさんの花が咲いていた。
「私は花に詳しくなかったけれど、君が本当に楽しそうに話すものだから、もっと聞きたいと思ったんだ」
彼は微笑んだ。
「その日の帰りには、もう君と結婚したいと思っていた」
胸が大きく跳ねた。
「それなのに、白い結婚を?」
「君が結婚を怖がっていたからね。それに、急に結婚することになってしまった」
彼は苦笑した。
「好きだからこそ、君を困らせたくなかった。安心できるまで待とうと思ったんだ」
「……ずっと?」
「ああ。何年でも」
胸がいっぱいになった。
この人は最初から、私を大切にしてくださっていた。
自分の気持ちを押しつけず、私が心を開くまで待っていてくださった。
毎晩、お茶や焼き菓子を持って訪ねてきたのも。
一緒に庭を歩いてくださったのも。
全部、私と仲良くなりたかったから。
「……クラウス様。私、もっと早く言えばよかったです」
「何を?」
「あなたが好きだってことを」
彼は嬉しそうに笑った。
「今、聞けたから十分だよ」
そして少し迷ってから尋ねた。
「……抱きしめてもいいだろうか」
私は笑って頷いた。
「はい。喜んで」
クラウス様の腕が、そっと私を包み込んだ。
大きくて、暖かくて、とても安心する腕だった。
私は彼の胸に顔を埋めた。
「クラウス様。これからは毎晩、こちらに来てもいいですか?」
「……毎晩?」
「はい。駄目ですか?」
「駄目なわけがない」
彼は私の髪に頬を寄せた。
「むしろ、私からお願いしたいくらいだ」
私は嬉しくなって、彼の背中に腕を回した。
その夜、私たちは初めて同じ寝台で眠った。
ただ手をつないで、他愛ない話をしながら。
眠りに落ちる直前、クラウス様が小さな声で言った。
「おやすみ、リゼット。愛しているよ」
私は目を閉じたまま微笑んだ。
「私も愛しています、クラウス様」
◇
翌朝。
目を覚ますと、隣にクラウス様がいた。
まだ眠っている。
いつもはきちんと整えられている髪が、少し乱れていた。
私がそっと髪に触れると、彼が目を開けた。
「……おはよう、リゼット」
「おはようございます」
彼は幸せそうに笑った。
「夢じゃなかったんだな」
「夢だと思っていたのですか?」
「少しね」
私は笑って、彼の頬に口づけた。
「これで、夢ではないとわかりましたか?」
クラウス様は耳まで赤くなった。
「……ああ。よくわかった」
私は彼の胸に寄り添った。
窓の外では、昨夜の雪が庭を白く染めている。
今日はきっと、楽しい一日になる。
だって、朝からこんなに幸せなのだから。
「リゼット」
「はい?」
「今夜も、一緒にお茶を飲もう」
「もちろんです。でも、一つお願いがあります」
「何だい?」
「これからは、お茶の後もずっと一緒にいてくださいね」
クラウス様は私をぎゅっと抱きしめた。
「喜んで。これから毎晩、ずっと」
白い結婚から始まった、私たちの夫婦生活。
どうやら夫は、最初から私を愛してくださっていたらしい。
そして私も、今ではすっかり夫に夢中だ。
毎晩私の寝室に通ってきていた夫は、もういない。
だって今は、私たちの寝室が同じなのだから。




