不幸になる絵
その絵を手にしたものは、不幸な結末を迎えるという──。
慶太は一枚の絵を前に「はぁ?」と気の抜けた声を出した。
「これを持ってたら、不幸になるって?」
思い切り鼻に寄る皺を見つめながら、隣に屈み込んだ紀夫は頷いた。
「そう、不幸になるんだって。でもどんな不幸なのかは判らない。誰もこの絵を切っ掛けに死んだって訳じゃないし、社会的にも死んだりしてない。でも、不幸になるって曰くつき」
「なーんだそりゃ。くだらねー。というか、何でそんなものをお前が持ってるんだよ」
「さぁ?」
紀夫は何てことはない風に答えた。
「さぁ?」
間の抜けた調子で繰り返す慶太に鼻で笑ってから、ソファに戻る。本来はテレビが置かれていた台の上に置かれた四十センチ四方の一枚の絵。
何の変哲もない、風景画だ。
芸術鑑賞の素養がない紀夫からすると、写実的ではないその絵は、上手いのか下手なのか判断が付き難い。
白い家と、花壇と、青い空。
花壇の花が空々しく映るが、それが味だと言われればそういう気もする。
ぼんやりとした風景画を前に、紀夫は息を吐く。
「おい、何が『さぁ?』なんだよ」
慶太が苛立ち紛れに言った。
紀夫は、絵を見つめたまま答えた。
「なんで此処にあるのか、判らないからだよ。知らない。ある日突然、この絵は部屋にあった」
「は?」
「は? も何も、俺だって答えられるもんなら答えるよ。でも、知らないし判らないもんは答えられないだろ」
「判んないって……急にこの絵が部屋に現れたってことかよ!」
紀夫が頷くと、慶太は大げさに驚いて見せる。そうしてから、急に笑い出した。
「そりゃ、信じらんねーよ! ある訳ねーだろ、そんなこと!」
「それが、あったんだよなぁ」
その言葉に、慶太は探るような顔をする。
「なんか、呪いの家にでも肝試しに行ったのか?」
「行ってないよ。ゼミでこんな絵があるって都市伝説みたいな話になって、そこで聞いただけ」
「そしたら、絵が出てきたのか?」
「まぁ、そういうこと」
途端に、慶太は馬鹿笑いを始める。ゲラゲラと笑うその姿に目を細めてから、紀夫は溜め息を吐いた。
「お前も、突然知らない絵が部屋に現れたら驚くよ」
そう言っても、慶太は益々笑うだけだった。
「そんなん……ゼミの奴等が……お前の、居ない内に……運び込んだんだろ!」
息を切らして笑いながら、慶太は切れ切れに言う。その様子を冷めた気持ちで見つめながら、紀夫は首を振った。
「それはない。風呂入って出てきたらあったから。鍵も全部掛けてたし、誰かが隠れてたってこともないから。この部屋じゃ、そもそも隠れられる場所もあんまりないだろ」
そう言うと、慶太はぐるりと部屋を見回して、ぷっと噴き出した。そうしてから、ハッと顔を引き締める。
「ていうか、じゃあなんか知らん間に絵が現れたってことかよ? 話を聞いただけで?」
「さっきから、そう言ってるだろ」
紀夫の言葉に、慶太は表情を硬くした。
「なぁ……じゃあ、俺は? 俺も聞いちゃったし、実物も見ちゃってるんだけど」
恐る恐るというように、ゆっくりと顔を向ける慶太の様子に、紀夫は内心で笑ってから、なんてことはない風に言った。
「別に、お前はこういうの信じてないんだろ」
一拍の間を置いて、慶太は乾いた笑い声を上げた。
「まぁ、な。信じてねーよ。もし俺の家に現れたら燃やしてやるよ」
そう言いながら、ポケットからスマートフォンを取り出すと、適当な手つきで操作してから立ち上がった。
「わりぃ、そろそろ行かねぇと。またな!」
「あぁ、またな」
紀夫は、何処か静かな気持ちで慶太を見送った。
──またな。なんて、良く言えるな。ただ、ビビッてたくせに。
紀夫は、テレビ台の上に置かれた絵に目を移し、口端を歪めた。
──もうすぐだ。覚えてろよ、慶太。
話を聞くだけで、この絵はその者の許に現れる。
ゼミで聞いたのは五人。
他四人からすれば、ただの都市伝説で済んだ。
しかし、実際に絵を目の前にした紀夫にとっては、都市伝説だろうが何だろうが、復讐に使うにはもってこいだった。
スマートフォンの待ち受け画面を見つめ、そこに映し出される恋人の姿を苦々しい気持ちで見つめる。
──俺は、馬鹿じゃない。気が付いてるんだ。もうずっと、前から。
部屋には慶太の残り香が漂っている。ある時から恋人からも微かに香るようになった臭い。
──覚えてろよ。怯えて過ごすんだな。
紀夫は、もう一度絵を見つめると、何処か達成感に似たような期待を胸に、ほくそ笑んだ。
しかし、得体の知れないモノが、そう簡単に紀夫の思い通りに動いてくれる筈がなかった。
何日経とうが、絵はテレビ台の上に鎮座していた。
段々とその姿が忌々しく映り、紀夫は舌打ちした。
「使えねーな。何が、不幸になる絵だよ」
目論見が外れれば、この絵はただの得体の知れない絵でしかない。
特に心打たれるということもないし、絵を飾るという趣味もない。
それに〝不幸になる絵〟と銘打たれているせいか、この絵が部屋に現れてからというもの夢見が悪い。
──捨てるか。
そう思った紀夫は、ゴミ袋を片手に、絵に伸ばした手を止めた。
絵が、変わっている。
白い家と、花壇と、青い空。
そこに、人影がふたつ立っている。いや、一人は、草の生えた地面に横たわっている。
そして、横たわる人影は、赤黒く染まっていた。
スッ。
佇む人影が、こちらに顔を向けた……気がした。
よく見れば、人影はただ横たわる人影に目を落としている。
ぽっかりと開いた穴のような眼窩。
思わず見入っていた紀夫は、いつの間にか絵を捨てる気が全くなくなってしまい、ゴミ袋を床に放った。
「俺を、不幸にしたいのか? もう、十分に不幸なのに、これ以上……?」
そう呟いてから、絵に向かって話している馬鹿馬鹿しさに気が付き、鼻を鳴らして立ち上がった。
そうして、絵は変わらず紀夫の家に居座った。
ある時、眠っていた紀夫は、つんざくような悲鳴を聞き、飛び起きた。
慌てて部屋を見回し、次いでカーテンを開けて外の様子を探る。
何処にも異常は見当たらず、今度は、悲鳴の出所を探るように耳を澄ませる。
しかし、聞こえて来たのは下校途中の子供達が騒ぐ声だけだった。
子供達があれだけ騒げるのだから、何か危険なことが起きたということはないだろう。
再び、部屋の中に目を向けた紀夫は、ベッドに力なく座り込み、頭を抱えた。
──夢、か……?
この所、夢見は益々悪くなっている。
毎回漠然としか覚えていないが、赤黒い世界と、何かを争うような感情だけが頭の片隅に残っている。
しかし、何処か幸福も感じているのだ。
もしかしたら、夢の中で慶太を殺しているのかもしれない。
その発想に小さく笑い、ふと顔を上げた紀夫は、すっかり部屋にあることが当たり前となっていた〝不幸になる絵〟に目を留めた。
佇む人影が、こちらを見ていた。
見間違いではない。
ぽっかり空いた眼窩が、確かに紀夫を見ていた。
「なんだよ……」
思わず零れた声に、絵の中の人影は、まるでスローモーションのように動くと、手にしたナイフを横たわる人影に突き立てた。
ぎゃあ、とつい先程耳にした悲鳴が頭の中で響く。
その瞬間、紀夫は全てを理解した。
そうか、これは〝不幸になる絵〟なんかじゃない。
──少なくとも、俺にとっては……。
幸とは、不幸とは。
つらつらと人生を懸けて考えていた紀夫は、その瞬間に全てを決めていた。
「そうだ、殺せばいい。自分の手で」
カラン。
部屋に軽い音が響いた。
見れば、絵の前に見慣れぬナイフが落ちている。
絵の中の人影は、じっと紀夫を見つめていた。
絵は、何も言わない。
ただ、悲鳴だけが何度も何度も紀夫の頭の中に響き、その声はいつからか慶太と、恋人の声に変っていた。
目の前が赤黒い世界に変わっていく。
「そうだ、これが、幸せ……」
紀夫は、ナイフを手に部屋を出た。
〝不幸になる絵〟は、今も何処かで〝幸せに気が付く〟者を探しているという。




