傘の内側
仕事帰りの最寄り駅。
改札を出た瞬間、ため込んでいたみたいに雨が落ちてきた。
傘は、朝の晴れ空に置いてきたままだ。
軒先に身を寄せる人の隙間に、そっと入り込む。
濡れたスーツの袖を払った、そのとき——
「……相変わらず、雨に好かれてるな」
低く落ち着いた声が、すぐ隣で響いた。
聞き覚えのある声に、鼓動が一瞬だけ遅れる。
ゆっくり振り向く。
視線が合うまでの、ほんの一瞬がやけに長い。
そこにいたのは——。
少し痩せたのだろうか。
昔よりも、スーツがよく似合っている。
見慣れていたはずの顔が、少しだけ遠く感じた。
昔と同じように、頬を指先で軽く掻く。
その癖は、変わっていない。
「久しぶり」
あのときと同じ笑顔だった。
言葉が、うまく出てこない。
どうでもいいことを、先に聞いてしまう。
「……仕事?」
「ああ。そっちは?」
まるで昨日も会っていたみたいな口調で。
「うん、帰り道……」
それ以上の言葉が続かない。
雨音だけが、やけに強くなる。
しばらく、二人とも雨を見ていた。
「あの時は……」
どちらが先だったのかも、わからない。
「ちゃんと、言えばよかった」
雨の音だけが静かに響く。
「……忙しかったもんね」
直視出来ずに、足元を見つめる。
「違う。忙しかったのは、理由にしただけだ」
その言葉に顔を上げる。
「待ってるって、言えなかった」
小さく笑う。
「待っててほしいとも、言えなかった」
あの日の雨は、終わらないものだと思っていた。
彼が、わずかに距離を詰める。
雨が、少し弱まる。
「今なら、言える」
その声は、あの頃よりも低く、まっすぐだった。
「……もう逃げない」
「今度は、ちゃんと隣にいる」
彼を見つめる。
雨粒が、彼の睫毛にひとつ残っている。
「今度は、期間限定じゃないなら」
一瞬だけ、彼の喉が動く。
視線が、逃げずに絡んだ。
傘の内側で、指先が触れる。
どちらからともなく、離さなかった。
傘の内側だけが、不思議なくらいあたたかかった。




