明日やろうは馬鹿野郎。じゃあ明後日は神。
明日やろうは馬鹿野郎――という言葉をよく耳にする。
そりゃあそうですよね……。
基本的に今日やった方が良いのですから!
僕は、自分が怠け者だと思っていた。
「明日やろう」と口にした瞬間、胸の奥で小さな罪悪感が生まれる。
それでも、疲れた身体と面倒な現実を前にすると、人は簡単に未来へ逃げる。僕も例外じゃなかった。
けれど、ある日気づいた。
明日やろうと決めたことは、必ず失敗する。
提出期限に間に合わなかったレポート。
勇気を出して告白したはずの言葉。
準備したはずの試験。
どれも、驚くほど綺麗にうまくいかなかった。
試しに、同じことを「明後日やろう」と決めてみた。
すると、信じられないほど簡単に成功した。
偶然だと思おうとした。
けれど、三度目、四度目と結果は変わらなかった。
僕はようやく理解した。
僕のスキルは『明後日は神』だ。
僕は、その法則を利用し始めた。
宿題は、明後日やる。
部屋の掃除も、明後日やる。
友達への返信も、明後日でいい。
すると、不思議なほど人生がうまく回り始めた。
テストの点数は上がり、
人間関係のトラブルは減り、
やるべきことは、いつの間にか片付いていく。
周囲の人間は、僕を「努力家」だと言った。
けれど、僕は何もしていなかった。
僕が生きていたのは、いつも「二日後」だった。
今日の僕は、ただの仮の存在にすぎない。
気づけば、僕は「今日」という時間を嫌うようになっていた。
今日やることは、何一つなかった。
いや、正確には――やってはいけなかった。
「明日やろう」と思った瞬間、失敗が確定するからだ。
だから僕は、何も決断しなくなった。
何も選ばなくなった。
ただ、すべてを明後日に預けるだけの人間になっていった。
ある日、母が言った。
「最近、あんた変わったよね」
僕は笑ってごまかした。
変わったのは僕じゃない。
世界の方だ。
けれど、その言葉は、なぜか胸の奥に残り続けた。
その日は、何の変哲もない日だった。
僕はいつも通り、「今日」をやり過ごしていた。
何も決めず、何も選ばず、ただ二日後の自分にすべてを預けながら。
スマートフォンが震えた。
母からだった。
珍しいことだった。
母は用件があれば、直接部屋まで来る人間だ。
わざわざメッセージを送ってくることは、ほとんどない。
画面を開いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
――助けて。
たった三文字。
意味を理解するよりも先に、指先が震えた。
僕は立ち上がった。
階段を駆け下りる。
リビングの扉を開ける。
床に座り込んだ母がいた。
顔色は悪く、唇は乾いている。
呼吸は浅く、視線はどこか定まっていなかった。
「大丈夫?」
声が震えた。
母は小さく頷いたが、その動きはあまりにも頼りなかった。
その瞬間、僕の頭の中で、あの法則が静かに浮かび上がった。
今日、動く。
――助けられない。
明日、動く。
――失敗する。
明後日、動く。
――成功する。
けれど、その時にはもう、遅いかもしれない。
僕は、動けなかった。
目の前にいる母と、
頭の中にある「確定した未来」とのあいだで、
身体だけが置き去りにされた。
母は、僕を見て微笑んだ。
「大げさだよ。ちょっと、立ちくらみしただけ」
その言葉を、僕は信じられなかった。
もし、ここで救急車を呼んだらどうなるのか。
もし、今すぐ病院に連れて行ったらどうなるのか。
答えは、もう分かっている。
僕の世界では、「正しい行動」は、必ず二日後にしか存在しない。
僕は初めて、自分の能力を呪った。
僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
救急車を呼ぶべきか。
それとも、何もしないべきか。
頭の中で、二日後の未来が静かに確定していく。
もし、今ここで電話をかけたら。
もし、今すぐ母を抱えて外に出たら。
結果は分かっている。
失敗する。
なぜ失敗するのかは分からない。
けれど、これまで一度も例外はなかった。
僕は、自分の手を見た。
震えていた。
その震えが、恐怖なのか、後悔なのか、
それとも、ただの怠慢なのか、分からなかった。
「……大丈夫だから」
母が言った。
その声は、さっきよりも少しだけ弱くなっていた。
「心配しすぎよ」
僕は、何も言えなかった。
もし、ここで何もしなければ。
明後日になれば、きっと助かる。
それが、この世界のルールだ。
けれど、明後日まで、母が生きている保証はない。
僕は初めて理解した。
この能力は、
成功を約束する力じゃない。
「今」を切り捨てる力なのだ、と。
僕は、スマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。
呼ぶべきか。
呼ばないべきか。
頭の中では、二日後の未来が、すでに出来上がっている。
明後日になれば、きっと助かる。
それが、この世界の正しさだ。
でも――。
僕は、母の顔を見た。
床に座り込んだままの母は、僕を見上げていた。
その目は、どこか不安そうで、それでも優しかった。
「そんな顔しないで」
母は笑った。
「あなた、昔からそうだったわね。何か決めるとき、いつも怖がってた」
僕は、息を吸った。
怖かった。
未来が怖かった。
失敗が怖かった。
でも、それ以上に――。
「今」が、怖かった。
もし、ここで何もしなければ。
僕はまた、二日後に生きることになる。
今日の自分を、また捨てることになる。
僕は、親指を動かした。
通話ボタンを押した。
⸻
結果は、分かっていた。
救急車は来た。
医者も来た。
けれど、すべてが、ほんの少しずつ遅かった。
母は助からなかった。
⸻
葬式の日、空は異様なほど晴れていた。
親戚や近所の人たちは、口々に言った。
「突然だったね」
「でも、あなたがすぐ動いてくれてよかったよ」
僕は、何も言えなかった。
本当は知っていたからだ。
もし、明後日まで待っていれば。
母は助かっていた。
それが、この世界のルールだった。
でも、僕はそれを選ばなかった。
⸻
夜、部屋に戻った。
机の上には、やりかけの宿題があった。
いつもなら、こう言う。
「明後日やろう」
でも、その言葉は出てこなかった。
僕は、ペンを取った。
今日のうちに、書き始めた。
うまくいかなかった。
何度も消して、何度も書き直した。
それでも、やめなかった。
初めてだった。
「今日」を生きていると、感じたのは。
⸻
翌日、僕は気づいた。
あの法則が、消えていることに。
「明日やろう」と思っても、失敗は確定しなかった。
「明後日やろう」と思っても、成功は保証されなかった。
世界は、ただの世界に戻っていた。
僕のスキルは、消えていた。
⸻
僕は、少しだけ笑った。
神は、いなくなった。
その代わりに、
僕の手の中には、今日が残っていた。
たとえ失敗すると分かっていても、
それでも選ぶことのできる、ただの一日。
僕は、初めて理解した。
明日やろうは、馬鹿野郎かもしれない。
明後日は、たしかに神だった。
でも――。
今日を選ぶことだけが、
人間に許された、唯一の自由だったのだ。




