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明日やろうは馬鹿野郎。じゃあ明後日は神。

作者: 生きてる水
掲載日:2026/01/31


 明日やろうは馬鹿野郎――という言葉をよく耳にする。


 そりゃあそうですよね……。

 基本的に今日やった方が良いのですから!


 僕は、自分が怠け者だと思っていた。


「明日やろう」と口にした瞬間、胸の奥で小さな罪悪感が生まれる。

 それでも、疲れた身体と面倒な現実を前にすると、人は簡単に未来へ逃げる。僕も例外じゃなかった。


 けれど、ある日気づいた。


 明日やろうと決めたことは、必ず失敗する。

 提出期限に間に合わなかったレポート。

 勇気を出して告白したはずの言葉。

 準備したはずの試験。


 どれも、驚くほど綺麗にうまくいかなかった。


 試しに、同じことを「明後日やろう」と決めてみた。

 すると、信じられないほど簡単に成功した。


 偶然だと思おうとした。

 けれど、三度目、四度目と結果は変わらなかった。


 僕はようやく理解した。


 僕のスキルは『明後日は神』だ。


 僕は、その法則を利用し始めた。


 宿題は、明後日やる。

 部屋の掃除も、明後日やる。

 友達への返信も、明後日でいい。


 すると、不思議なほど人生がうまく回り始めた。


 テストの点数は上がり、

 人間関係のトラブルは減り、

 やるべきことは、いつの間にか片付いていく。


 周囲の人間は、僕を「努力家」だと言った。


 けれど、僕は何もしていなかった。


 僕が生きていたのは、いつも「二日後」だった。

 今日の僕は、ただの仮の存在にすぎない。


 気づけば、僕は「今日」という時間を嫌うようになっていた。


 今日やることは、何一つなかった。

 いや、正確には――やってはいけなかった。


「明日やろう」と思った瞬間、失敗が確定するからだ。


 だから僕は、何も決断しなくなった。

 何も選ばなくなった。

 ただ、すべてを明後日に預けるだけの人間になっていった。


 ある日、母が言った。


「最近、あんた変わったよね」


 僕は笑ってごまかした。

 変わったのは僕じゃない。

 世界の方だ。


 けれど、その言葉は、なぜか胸の奥に残り続けた。


 その日は、何の変哲もない日だった。


 僕はいつも通り、「今日」をやり過ごしていた。

 何も決めず、何も選ばず、ただ二日後の自分にすべてを預けながら。


 スマートフォンが震えた。


 母からだった。


 珍しいことだった。

 母は用件があれば、直接部屋まで来る人間だ。

 わざわざメッセージを送ってくることは、ほとんどない。


 画面を開いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 ――助けて。


 たった三文字。


 意味を理解するよりも先に、指先が震えた。


 僕は立ち上がった。

 階段を駆け下りる。

 リビングの扉を開ける。


 床に座り込んだ母がいた。


 顔色は悪く、唇は乾いている。

 呼吸は浅く、視線はどこか定まっていなかった。


「大丈夫?」


 声が震えた。

 母は小さく頷いたが、その動きはあまりにも頼りなかった。


 その瞬間、僕の頭の中で、あの法則が静かに浮かび上がった。


 今日、動く。

 ――助けられない。


 明日、動く。

 ――失敗する。


 明後日、動く。

 ――成功する。

 けれど、その時にはもう、遅いかもしれない。


 僕は、動けなかった。


 目の前にいる母と、

 頭の中にある「確定した未来」とのあいだで、

 身体だけが置き去りにされた。


 母は、僕を見て微笑んだ。


「大げさだよ。ちょっと、立ちくらみしただけ」


 その言葉を、僕は信じられなかった。


 もし、ここで救急車を呼んだらどうなるのか。

 もし、今すぐ病院に連れて行ったらどうなるのか。


 答えは、もう分かっている。


 僕の世界では、「正しい行動」は、必ず二日後にしか存在しない。


 僕は初めて、自分の能力を呪った。

 

 僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 救急車を呼ぶべきか。

 それとも、何もしないべきか。


 頭の中で、二日後の未来が静かに確定していく。


 もし、今ここで電話をかけたら。

 もし、今すぐ母を抱えて外に出たら。


 結果は分かっている。


 失敗する。


 なぜ失敗するのかは分からない。

 けれど、これまで一度も例外はなかった。


 僕は、自分の手を見た。


 震えていた。


 その震えが、恐怖なのか、後悔なのか、

 それとも、ただの怠慢なのか、分からなかった。


「……大丈夫だから」


 母が言った。


 その声は、さっきよりも少しだけ弱くなっていた。


「心配しすぎよ」


 僕は、何も言えなかった。


 もし、ここで何もしなければ。

 明後日になれば、きっと助かる。


 それが、この世界のルールだ。


 けれど、明後日まで、母が生きている保証はない。


 僕は初めて理解した。


 この能力は、

 成功を約束する力じゃない。


「今」を切り捨てる力なのだ、と。


 僕は、スマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。


 呼ぶべきか。

 呼ばないべきか。


 頭の中では、二日後の未来が、すでに出来上がっている。


 明後日になれば、きっと助かる。

 それが、この世界の正しさだ。


 でも――。


 僕は、母の顔を見た。


 床に座り込んだままの母は、僕を見上げていた。

 その目は、どこか不安そうで、それでも優しかった。


「そんな顔しないで」


 母は笑った。


「あなた、昔からそうだったわね。何か決めるとき、いつも怖がってた」


 僕は、息を吸った。


 怖かった。

 未来が怖かった。

 失敗が怖かった。

 でも、それ以上に――。


「今」が、怖かった。


 もし、ここで何もしなければ。

 僕はまた、二日後に生きることになる。


 今日の自分を、また捨てることになる。


 僕は、親指を動かした。


 通話ボタンを押した。


 ⸻


 結果は、分かっていた。


 救急車は来た。

 医者も来た。

 けれど、すべてが、ほんの少しずつ遅かった。


 母は助からなかった。


 ⸻


 葬式の日、空は異様なほど晴れていた。


 親戚や近所の人たちは、口々に言った。


「突然だったね」

「でも、あなたがすぐ動いてくれてよかったよ」


 僕は、何も言えなかった。


 本当は知っていたからだ。


 もし、明後日まで待っていれば。

 母は助かっていた。


 それが、この世界のルールだった。


 でも、僕はそれを選ばなかった。


 ⸻


 夜、部屋に戻った。


 机の上には、やりかけの宿題があった。


 いつもなら、こう言う。


「明後日やろう」


 でも、その言葉は出てこなかった。


 僕は、ペンを取った。


 今日のうちに、書き始めた。


 うまくいかなかった。

 何度も消して、何度も書き直した。


 それでも、やめなかった。


 初めてだった。


「今日」を生きていると、感じたのは。


 ⸻


 翌日、僕は気づいた。


 あの法則が、消えていることに。


「明日やろう」と思っても、失敗は確定しなかった。

「明後日やろう」と思っても、成功は保証されなかった。


 世界は、ただの世界に戻っていた。


 僕のスキルは、消えていた。


 ⸻


 僕は、少しだけ笑った。


 神は、いなくなった。


 その代わりに、

 僕の手の中には、今日が残っていた。


 たとえ失敗すると分かっていても、

 それでも選ぶことのできる、ただの一日。


 僕は、初めて理解した。


 明日やろうは、馬鹿野郎かもしれない。

 明後日は、たしかに神だった。


 でも――。


 今日を選ぶことだけが、

 人間に許された、唯一の自由だったのだ。

 

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