甘栗納豆
大型連休が明けて、10日ほどが経過した。
「北関東の地方都市にある、企業内研修所」は、5月中旬とは思えないほどの湿気に包まれている。
…ひょっとして梅雨入りしたか?
そんな錯覚さえしてしまいそうなほどの空は、まるで「泣くのを我慢している子ども」みたいに重く感じる鈍色だ。
研修生たちは今日も「おはようございます」と声をかけてくる。
その声に「今日も頑張ろうな」と返しながら、俺は食堂へ向かった。
……だが、食堂に入った瞬間、違和感が走った。
いつもの配膳担当のオッサン(推定70歳)がいない。
代わりに、東南アジア女性コンビが、満面の笑みで俺に手を振ってきた。
「センセ、オハヨー!」
「キョウ、ワタシタチ!」
……嫌な予感しかしない。
彼女たちは明るくて元気だが、会話は二文節が限界。
そして「自由に取るもの=あればいい」という理解。
「自由にとっていいふりかけ」は本来4種類あるのだが、彼女たちが準備する朝は「全部同じ」だったりすることもしばしばだ。
俺は朝400円の「一汁三菜」、今日の献立を現物で確認する。
『今日の献立』
主菜:鶏の照り焼き(やたら照りが強い、というか、油まみれ)
副菜①:ほうれん草のおひたし(やたら水っぽい)
副菜②:切り干し大根(ぱさつきを感じる)
……あ、今日は普通だ…若干問題点はあるが…
視界が狭まらない朝なんて久しぶりだ。
そう思いながら白米の列に並ぶと、女性コンビがにこっと笑って白米をよそってくれた。
「センセ、フツウ?トクモリ?」
「普通でいいよ、ありがとう」
……よし、今日は平和だ。
そう思いつつ着席する。
すると背後から、研修生の小さな声が聞こえた。
「……先生……これ……かたいっす」
「……箸、刺さらないっす……」
何事かと振り返ると、研修生たちが「納豆のパック」を前に固まっていた。
正確には…固まっていたのは研修生ではなく…納豆そのものが固まっていた。
カッチンカッチン。
もはや凶器。
窓に向かって投げたら、ガラスくらい割れるんじゃないか、というほどの硬度。
俺の視界が、じわっと狭まる。
もちろん病気ではない。
納豆が氷河期を迎えていることへの怒りが、俺の血圧を押し上げているだけだ。
俺はすぐに配膳台へと向かい、彼女たちに「これ、どうしたの?」と女性コンビに尋ねてみた。
「ナットウ、アッタ。コオリ、キレイ。イイネ!」
「レート―コ、サッキダシタ、シンセン!」
…違う、イイネじゃねぇ、よくねぇよ
…納豆は宝石じゃない。キレイとかシンセンとか言うな。
慌てて席に戻った俺は、研修生たちに事情を説明し、解決策を提示した。
「まず、給湯器で湯呑みに熱湯をもらう。あの給湯器は98℃設定だ。おいてある湯飲みの口径は、納豆パックより小さい。」
研修生は黙ってうなづく。
「湯呑の上にパックごとおくんだ。そのうえで…この、よくわからんメーカーの醤油をかけろ。何かを食べ出す前に、だ。」
研修生は、まるで研修を受けているがごとく、真剣なまなざしを向けてくる。
「で、ほかのものをゆっくり食べて時間を稼げ。味噌汁とか、照り焼きとか。したら、おそらくいける」
研修生たちは、昨日学んだ「作業手順と手順書について」を思い出したかのように、素直に従った。
納豆パックが湯呑みの上で「温泉療養」しているように見える。
「先生、これ……ほんとに戻るんすか?」
「まぁ、5分もすれば…と思うんだよ…」
そう言って自分の席の「温泉療養納豆」を確認する。
「……あ、戻ってる」とつぶやく。
若干固めのところはあるが、箸が立たないということはない。
混ぜているうちになんとかほぐれてくる、といったレベルではあるが…
「すげぇ……」
あちこちのテーブルから、小さな歓声が上がる。
だが、全員が成功したわけではないようだ。
俺の目の前の研修生は解凍がうまくいかなかった。
彼の持つパックの中は…「甘栗粒ほどの大きさ」まではばらけたが、その先がうまくいかなかったようだ。
甘栗粒納豆…もはや大粒どころではない
ここまでくるともはや豆の化石…箸でつまむと「カツン」と音がする硬度。
「先生……これ……どう食べれば……」
「……噛め。歯を信じろ」
そんなやり取りをしていると、女性コンビが心配そうに近づいてきた。
「センセ、ナットウ、ムズカシイネ」
「アタタカイ?アブナイ?」
いや、危なくはないけど……俺は昨日の研修の中で使った「人を動かすには、納得と共感が必要」というフレーズの大切さを思いしらされた。
なんとか納豆が「食える状態」になったころ…俺の心はどっと疲れていた。
研修生たちは「先生、ありがとうございました!」と笑顔で言ってくれた。
女性コンビも「センセ、アリガトー!」と満面の笑み
…ホント、憎めない笑顔…研修生たちにも人気はあるが…納豆、なぁ…
俺はため息をつきながら、曇天の空を見上げた。
さっきより少しだけ明るくなっている。
「……明日、オッサン戻ってきてくれ」
そうつぶやきながら、俺は食堂を後にした。
この学食、特に月曜と金曜は騒動がホント起きやすいです。会社の中でもずば抜けて(多分前人未到の利用回数。そもそも単身赴任でここにいるの自分だけ。ほかの講師は学食使わないし…)利用回数が多いワタシにしたら…騒動への遭遇率は高い…来週の月曜は何が起きるんだろな…「凍った納豆」は5年で数回しか当たっていませんが…ホントこまります…




