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現代逆転移物語  作者: 柚子式


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第6話

夜は、思ったよりも静かだった。

昼間の喧騒が嘘のように、街の音は均され、遠くで車が通り過ぎる気配だけが残っている。


霧島澪は、部屋の明かりを落としたまま、窓際に立っていた。

ガラスに映る自分の輪郭は、昼と変わらない。

服も、髪も、乱れてはいない。鏡で確かめる必要もなかった。


身体に痛みはない。

医師にも、同行者にも、そう伝えている。それは事実だった。


それでも、感覚は完全には戻っていなかった。

足元の床を踏むたび、昼間の硬さが重なってくる。

立ち止まると、あの距離が思い出される。

届くはずだった衝撃と、届かなかった空白。


澪は窓から視線を外し、テーブルに置かれた端末に手を伸ばした。

画面を開き、通知を一つずつ閉じていく。

確認の言葉、心配の言葉、形式的な報告。それらはすべて、今の自分には不要だった。


必要なのは、整理だ。


昼の出来事を、順に辿る。

移動の時間。通りの名前。立ち位置。人の流れ。

そこまでは、問題なく思い出せる。


だが、その先が途切れている。

正確には、途切れてはいない。

澪が助かった場面は、映像の中に残っていた。

だが、その直前と直後を繋ぐ動きが、どうしても説明できなかった。


画面には、澪のすぐそばに立つ一人の男が映っている。

立ち位置も、距離も、はっきりしている。

それなのに、その男の動きと、澪が無傷でいる結果が、映像の中で結びつかない。


澪は、端末を閉じた。

今は、答えを出す段階ではない。


ただ一つ、はっきりしていることがある。

自分は、偶然で助かったのではない。


その確信だけが、静かに残っていた。


翌朝、澪はいつもより早く目を覚ました。

眠りが浅かったわけではない。ただ、起きる理由があった。


端末を開く。

画面には、前日の出来事に関する速報が並んでいる。

映像、写真、短い証言。どれも似た角度で、似た結論へ収束していく。


澪は、再生を止めながら確認した。

速度を落とし、戻し、止める。

自分が立っていた位置を探し、視界の端をなぞる。


映っていない。


角度を変え、別の映像を開く。

人の流れはある。転倒も、混乱も、確かに映っている。

だが、あの距離だけが欠けていた。


澪は、端末を持ったまま席を立った。

窓辺へ移動し、画面を見下ろす。

映像の中の街と、今の街は同じはずなのに、どこか噛み合わない。


違和感は、映像だけではない。

同行していた人間の話も同じだった。


「見ていません」


「覚えていません」


「気づいたら、離れていました」


証言も、映像も、内容は一致していた。


――男は、そこにいる。

――だが、誰も「何をしたか」を説明できない。


立っていたことは分かる。

位置を変えたことも、映像には残っている。

それでも、澪が助かった理由として成立する動作が、どこにも見当たらなかった。

誰も嘘はついていない。

だが、誰も同じ場所を見ていない。


澪は、端末を閉じた。

これ以上、情報を増やしても意味はない。今必要なのは、整理ではなく、判断だった。


自分は、何を確認したいのか。

助けられた理由か。

相手の正体か。


どちらでもない。


放置できない差分が、確かに存在している。

それが、澪の結論だった。


事件として処理するなら、ここで終わりだ。

だが、個人として受け取るなら、終わらせてはいけない。


澪は、端末の連絡先を一つ開いた。

公的な部署でも、公式な窓口でもない。

仕事として使うことのない番号だ。


呼び出し音が、短く鳴る。


「――お願いがあります」


声は、普段と変わらなかった。

感情を乗せる必要はない。

これは、衝動ではなく、判断だった。

澪は再生を止め、フレームを戻した。

男の姿は消えていない。

画面の端ではなく、澪の近くに、確かに映っている。


それでも、

「この人が、こう動いたから助かった」

という説明だけが、どうしても作れなかった。


通話は長くならなかった。

要点だけを伝え、余計な説明は省く。相手も、それを理解している。


「条件は、こちらで整理します」


澪は短く礼を述べ、通話を切った。

画面が暗くなるのを待ってから、端末を伏せる。


動き始めた、という実感はない。

だが、もう戻れない段階に入ったことは分かっていた。


澪は席を立ち、上着を手に取る。

鏡の前で立ち止まり、整えるほどの乱れがないことを確認した。必要なのは外見ではない。


探す対象は、はっきりしている。

名前も、所属も、記録もない。

それでも、確かにそこにいた一人の人間だ。


群衆の中で、あの人は澪だけを見ていた。

周囲ではなく、状況でもなく、澪の立つ一点を。


偶然なら、成立しない距離だった。

勘違いなら、残らない感触だった。


澪は窓の外を見た。

昼の街が、何事もなかったかのように動いている。昨日と同じ信号、同じ歩道、同じ流れ。


だが、澪にとっては同じではない。


世界は、説明のつかない差分を抱えたまま、平然と進んでいる。

それを無視して前に進むこともできた。

だが、そうしなかった。


澪は、端末を再び手に取る。

新しい通知が一つ、静かに届いていた。


内容を確認し、頷く。

手配は始まっている。公にはならない。記録にも残らない。

だが、動きは確実だ。


澪は、深く息を吸った。

感情を整えるためではない。判断を切り替えるための、ただの動作だった。


あの人を見つける。

理由は、まだ言葉にならない。

だが、それで十分だった。

澪は端末の画面をもう一度見下ろした。

再生を止めたままの映像には、あの男の姿が残っている。

立ち位置、距離、向き。どれも曖昧ではない。

それでも、説明に足る動作は見つからない。


画面を閉じる。

記録はある。対象も定まっている。

ならば次は、確認だ。


澪は立ち上がり、静かに部屋を出た。

探す理由は、もう十分だった。

この出来事は、やがて

別の場所で、別の視点から整理されるだろう。


澪は、そのことを知らない。

ただ、自分が今、どこに立っているかを理解しているだけだった。

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