第3話
事件は、分類上は単純だった。
銀行強盗未遂。被疑者数名。人質あり。負傷者なし。
市警の会議室では、映像と書類が並べられている。
机に置かれたのは、現場写真、証拠一覧、初動報告書。
どれも見慣れた形式で、特別な注釈は付いていない。
「運が良かったな」
誰かがそう言い、周囲も曖昧に同意する。
人質が無事だった。それがすべてだ。
発砲がありながら死者が出なかった事例は、珍しくはあるが、前例がないわけではない。
ボディカメラの映像が再生される。
画面は揺れ、音が割れ、状況は断片的だ。
銃声、怒号、人の動き。
混乱の中で、強盗が制圧されるまでが記録されている。
「ここ、被弾してないよな?」
一人が画面を止める。
弾道が映り込んでいるはずの瞬間だ。
「当たってない。いや、正確には……当たった痕跡がない」
壁にも、地面にも、人体にも。
数は合わないが、結論は変わらない。
「誤差だろ。跳弾か、弾切れか、犯人の腕が悪かったか」
報告書には、そう書かれる。
異常ではなく、例外。
説明不能ではなく、説明不要。
この段階では、それで十分だった。
事件は解決し、街は平常を取り戻している。
誰も、この時点で
「次も起きる」とは考えていない。
映像は、何度も再生された。
速度を落とし、音を切り、フレーム単位で止める。
だが、見えているもの自体は変わらない。
発砲は確認されている。
音声記録とマズルフラッシュが一致し、回数も揃っている。
そこまでは、通常の事件だ。
問題は、その先だった。
「被害の整理を」
声に応じて、画面が切り替わる。
人体。建物。車両。
それぞれに想定される被害項目が並ぶ。
「人体への損傷は確認されていません」
淡々とした報告だった。
人質、犯人、警官。
誰一人として、被弾による負傷はない。
「建物は?」
「外壁に軽微な痕跡のみ。
発砲数と照合すると、数が合いません」
資料が机の上を回る。
弾道解析の簡易図。
想定される着弾点と、実際の痕跡。
どれも、途中で途切れている。
「弾切れ、という線は?」
「否定的です。
装填数と一致しません」
「跳弾は?」
「角度が合わない」
可能性は一つずつ挙げられ、
一つずつ消されていく。
誰も、結論を急がなかった。
ここで必要なのは、原因究明ではない。
扱いを決めることだ。
「まとめると」
分析担当が口を開く。
「発砲はあった。
だが、通常想定される結果が出ていない」
それ以上でも、それ以下でもない。
「理由は?」
問いに、首が振られる。
「分かりません。
現時点では」
室内に沈黙が落ちる。
それは困惑ではなく、確認だった。
「偶然の重なりとして処理できるか?」
「単発なら可能です。
ただし、今回は複数回です」
誰かが映像を指す。
弾道らしき影が、途中で不自然に乱れる瞬間。
「挙動が変わっているように見える。
ただし、映像解像度の限界もあります」
断定はしない。
推測も控える。
分析官は、分類名を告げた。
「【分析用語】explainable anomaly。
説明可能な範囲を超えた差分として処理します」
それは、未知を示す言葉ではない。
判断を先送りするための言葉だ。
「現象として記録する。
原因は追わない。
再発した場合にのみ、再検討する」
反対意見は出なかった。
現代の制度は、こういう事例のためにある。
「人物の関与は?」
「特定できません。
映像上、行為者と断定できる存在はいない」
それで十分だった。
脅威と認定する材料はない。
保護対象とする理由もない。
ファイルは作成される。
名前ではなく、番号で。
事件ではなく、事象として。
この時点で、
国家も、政府も、
世界もまだ知らない。
ここで起きたことが、
「何だったのか」を。
結論は、会議の終わりにまとめて出された。
長い議論はない。必要なのは、現実的な線引きだった。
「現時点で、事件性は終了しています」
分析官の言葉に、異論は出ない。
銀行強盗は失敗に終わり、犯人は拘束されている。
市民への被害はなく、街の機能もすでに回復している。
問題は、それ以外だ。
「説明できない結果が残っている」
誰かが、机上の資料を指で叩く。
発砲数。映像。痕跡。
どれも揃っているのに、結論に繋がらない。
「ただし」
分析官は、言葉を区切った。
「それは“異常”ではありません。少なくとも、現時点では」
分類上は、先ほど定めた通りだ。
説明可能な範囲を超えた差分。
「再現性は?」
「ありません。今回限りです」
「悪意は?」
「確認できません」
この二点が、判断を決定づけた。
再現性がなく、悪意も見えない事象は、
対処の優先度が低い。
「では、対応は最小限で」
誰かがそうまとめる。
監視でも、追跡でもない。
ましてや、排除でもない。
「要観測対象として登録します」
それは、介入しないという決定だった。
ただし、無視もしない。
「同種の事象が再度発生した場合、即時共有。分析フローを再開する」
ファイルは閉じられる。
表紙に記されたのは、番号だけだ。
人物名はない。
組織名もない。
国家の敵でも、味方でもない。
ただ、世界の想定から外れた結果として、
静かに棚に置かれる。
会議室を出る頃には、外はいつも通りの騒音に満ちていた。
車が走り、人が歩き、街は何事もなかったかのように動いている。
誰も知らない。
この判断が、後に何を意味するのかを。
だが、この時点での世界は、
最も現実的な選択をした。
理解できないものを、理解できないまま、保留する。
それが、現代社会のやり方だった。




