第4話 欠落の街角
翌日の放課後、商店街を抜けたとき、空気がひやりとした。
八月の熱気はまだ残っているはずなのに、肌の表面が薄い膜で覆われたような感覚。
長谷川文乃は、思わず歩みを止めた。
数メートル先で、中年の女性が道端にしゃがみ込んでいる。
買い物袋が倒れて、リンゴが転がり落ちても、拾おうとしない。
呆然と宙を見上げ、何かを探すように手を伸ばした。
「……大丈夫ですか?」
声をかけると、女性はおそるおそるこちらを振り向いた。
目が濁っている。混乱というより、そこに本当に自分がいないような空虚さだった。
「……あれ……私、ここ……?」
その瞬間、背後で足音が近づく。振り返ると蓮と沙羅が駆けてきた。
「文乃! お前も見たか? これ……完全に“抜けてる”」
蓮の眉間には深い皺。
彼は女性の前に腰を下ろし、低く問いかけた。「名前、わかりますか?」
「……えっと……」
女性の唇が震え、次の瞬間、言葉の糸がぷつんと切れた。
その眼差しは、何もない虚空に吸い込まれていく。
まるで、自分という物語の一章を破り捨てられたみたいに。
***
「図書館の外でも記憶を奪える――?」
図書館のカウンターで、冴子は静かに頷いた。
「規則正しく管理された貸出箱を通さなくても、相手の記憶を直接抜き取る方法はあります。ただし、それができるのは“所有者”側の血筋か、それに匹敵する力を持った者だけ」
「……黄泉」
蓮が名前を口にすると、室内の空気が一段冷えた。
冴子は棚の奥から古びた台帳を引き出す。そこには手書きの貸出記録が延々と続き、いくつもの行が赤いインクで二重線になっていた。
「線が引かれたものが、“返却されなかった記憶”です」
冴子はページを指でなぞる。「卒業式の記憶も、この女性の名前も、同じ手で消されています」
「つまり……黄泉は標的を選んで、街から記憶を消してるってこと?」
沙羅の声が硬くなる。
「ただ消すだけなら、罪悪感は生まれにくい。でも、特定の人と人を繋ぐ記憶を奪えば……残された側は、ずっと何かを探し続けることになる」
探し続ける人生。
それがどんなに残酷か、昨日の彼女自身が知っている。
***
冴子は一枚の写真を三人の前に置いた。
黄ばんだ集合写真。小学校の正門前で、子どもたちが笑っている。
列の端で肩を寄せ合う、一人の少女と――少年。
「これ……」
文乃の耳に鼓動の音が押し寄せる。知っている。だが、名前が出てこない。
「その少年が、蓮くんの言う“行方不明の友達”です。そして、文乃さん……あなたはその日、彼と最後に会っている」
頭の奥が軋む。
卒業式、青いリボン、半欠けの銀の星――点と点が近づいていくのに、最後の線が引けない。
蓮が写真から顔を上げる。「こいつが消えたのも……黄泉の仕業だと思ってる」
***
帰り道、踏切の警報が鳴り響く。
三人は自然と足を止めた。
夕焼けの下、線路の向こう側に、またあの影が立っていた。
白いシャツ。風に揺れない髪。
不思議なことに、今度はその瞳が、深い悲しみを湛えているように見えた。
黄泉――何を奪い、何を残そうとしているのか。
線路脇に風が吹き込み、警報の音が止む。
姿は、また霧のように消えた。
胸の奥で、欠けたパズルの最後の一片が、かすかに光を放つのを文乃は感じるのだった。