第3話 欠けた式と、踏切の向こう
昼休みの教室はざわめいていた。蝉の声はまだ残っているのに、窓から入る風はわずかに涼しい。
長谷川文乃は弁当をつつきながら、沙羅の話を半分ほど聞き流していた。
「――でさ、卒業式で号泣してたくせに、あいつ告白できなかったんだよ。笑えるでしょ?」
その単語に、箸が止まった。
「……卒業式?」
「小学校の。六年三組、みんなホールで泣いて……え、忘れたの?」
沙羅は怪訝な顔をした。
文乃は言葉を探すけれど、脳の中が空白のページみたいに真っ白で、文字が浮かばない。
写真で見たはずの壇上も、花を持った担任の顔も、全く思い出せなかった。
「私……覚えてない」
「何それ? あんた写真も持ってたじゃ――」
沙羅の声が遠くなる。頭の奥で、水の底に引き込まれるような感覚が広がった。
あの青い小箱を開けたときと、同じだ。
***
放課後、校門の外に蓮が立っていた。カメラは持っていない。制服のまま、どこか探るような目をしている。
「長谷川さん。……少し時間ある?」
喫茶店に入ると、蓮はアイスコーヒーのグラスを指でなぞりながら口を開いた。
「君、昨日……あの図書館にいたよね」
心臓が強く跳ねた。
蓮の声には驚きよりも確信があった。彼は視線を逸らさずに続ける。
「俺も、あそこで“借りた”ことがある。――二年前、行方不明になった友達の記憶を」
搔きむしられたように、胸の奥がざわめく。
蓮はストローを回し、その渦を見つめながら言った。
「その事件、まだ解決してない。けど、図書館にはあいつが消える直前の記憶があった。……記録の端に、君の名前もあったんだ」
「私の……?」
「小学校の卒業式の日。君、あいつと一緒に写ってた」
フィルムが切り替わるみたいに、視界が暗転した。
***
帰り道、沙羅が追いついてきた。
事情を話すと、彼女は眉を吊り上げた。
「それ、放っとけないでしょ。あんたの記憶、事件と繋がってるなら……私も行くから」
心強さと同時に、不安が押し寄せる。
自分の“欠落”が、本当に誰かの過去を左右するものなら――どうすればいいのか。
三人で図書館へ向かうと、冴子が静かに待っていた。
蓮が短く事情を説明すると、彼女は頷き、奥の鍵付き棚を開けた。
「この棚は、“紛失中”の記憶です。持ち出されたまま戻らないもの。……その中に、あなたたちが探している卒業式の記憶もあります」
棚の隙間から立ちのぼる冷気のようなものが、肌を撫でた。
そこには確かに、青いリボンで綴じられた卒業式の日の栞があった――銀色の星が、半分欠けている。
「欠けた部分は、貸し出したまま戻ってこなかった証拠。持ち出したのは……“黄泉”と呼ばれる人」
冴子の言葉に、図書館の空気が一段重くなる。
黄泉――それは、蓮が言っていた事件の影と同じ名前だった。
***
帰り際、踏切の音が鳴り響く。
列車が通り過ぎた瞬間、反対側のホームに、見覚えのない人物が立っていた。
白いシャツに、濃い影の瞳。視線が、真っ直ぐこちらに向けられる。
次の瞬間、その姿は霧のように消えた。
「……今、誰かいたよね?」
沙羅が息を呑む。
蓮はゆっくりと頷いた。「――あれが、黄泉だ」
鼓動が、遠くで打つ太鼓のように響く。
文乃は、自分の記憶と、この街の過去と、目の前の影が、ひとつの波に飲み込まれていくのを感じた。