第2話 夏の光と影
翌朝、窓から射し込む光はやけに白かった。
教室の空気も、扇風機の羽根も、すべてが水に沈めたみたいに緩慢だ。
長谷川文乃は机にノートを広げ、シャーペンの芯で紙をなぞっていた。書いているのは授業の板書ではない。昨夜の記憶――あの金魚の色、浴衣の袖、そして「朝比奈」という名前。
(……誰だろう、朝比奈って)
変なことに、その名前を思い出そうとすると、胸の奥が締め付けられる。まるで、触れてはいけない古傷に指を近づけているみたいに。
「おーい、文乃。聞いてる?」
隣から、岩城沙羅の元気な声が飛んでくる。彼女は文乃の数少ない友人で、遠慮という言葉をほとんど持たない。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「最近そんなの多くない? 放課後また寄り道してるでしょ?」
文乃は答えを濁す。あの図書館のことは、まだ誰にも言えなかった。
沙羅がこれ以上突っ込もうとしたそのとき、教室後方が少しざわめいた。
カメラのシャッター音が響く。朝比奈蓮。
写真部の彼は、窓際で射し込む光を試すように、レンズを構えていた。
光と影が同じ顔の上を滑っていく。シャッターを切った後、彼はふっと視線をこちらに流した。
そして――ごく自然に、微笑む。
その笑みが、不思議だった。昨日の記憶の中で見た笑顔と、重なったような気がしたのだ。
***
放課後。下駄箱で靴を履き替えていると、背後から声がした。
「長谷川さん、だよね?」
低く柔らかい声。振り向くと、朝比奈が立っていた。
間近で見ると、目の奥に淡い光が差し込んでいるような、奇妙な透明感がある。
「……えっと、はい」
「これ、落としたよ」
差し出されたのは、栞だった。古びた紙片に、小さな銀色の星が貼り付けてある。
昨日、図書館で手に触れた小箱の模様と、まるで同じ形。
「どこで……」
「さあ。最初から靴の間に挟まってた。……変わった模様だね」
朝比奈は深く追及せずに去っていった。その後ろ姿が廊下の先に溶けていく。
胸の奥で、昨日の夏祭りの記憶がざわめいた。
***
その晩、文乃はもう一度あの扉を押していた。
理由は自分でも分からない。ただ、朝比奈の手元にあった栞のことを確かめたかった。
「また来ましたね」
カウンターの奥で三条冴子が眼鏡越しに微笑んだ。
文乃は躊躇いながらも、栞を差し出す。
「これ……私のじゃないはずなのに、知ってる気がするんです」
冴子は丁寧にそれを手に取り、光にかざした。
銀の星が微かに瞬く。
「この図書館で使う貸出栞です。あなたが昨日借りた“記憶”の持ち主に関わるものですよ」
「……持ち主?」
「ええ。記憶には必ず元の所有者がいます。中には、もうこの世にいない人のものもある」
文乃は息を飲んだ。昨日の横顔。それが――朝比奈と似ていた理由が、ほんの少し形を得る。
「今日も試してみますか?」
冴子の声が、密やかに響く。
戸惑いながらも、文乃はうなずいた。
冴子が取り出した小箱は昨夜よりも重く、光は深い青を帯びていた。
指先が沈むと、今度は冬の記憶が流れ込む。冷たい空気、白い吐息、街の片隅で誰かが何かを待っている――その足元に、銀色の小さな栞が雪に半分埋もれていた。
場面が途切れると、胸の奥がひゅっと空く。
同時に、小学校の卒業式の一場面が、なぜか思い出せなくなっていた。
「こうして少しずつ、人は何かを置いていく。その選択は、だいたい後から波を立てます」
冴子が静かに言う。
「……その波って、どこまで広がるんですか」
「街ひとつ、過去ひとつ、かえるくらいには」
踏切の音が遠くで鳴った。
文乃はその音を聞きながら、こう直感した――朝比奈蓮は、この波の中心にいる。
そして、自分はもう、その波から逃げられないのだから。