第1話 「閉架」という扉
八月の夕暮れは、どこか遠い街の匂いがする。
商店街のアーケードを抜けると、錆びたシャッターと、まだ灯りのついた喫茶店の境目で空気が変わる。長谷川文乃は、背中の鞄を抱くように持ち替えた。校門を出てから、人通りの多い道を避けるのが、最近の癖になっていた。
その日、路地の奥にあるはずのないものを見つけた。
古い木の扉。月明かりの欠片みたいに光る真鍮のプレートには、凛とした文字で《閉架図書館》と刻まれていた。
聞いたことのない名前だった。市立でもないし、学校の付属図書館とも違う。
扉の隙間から、紙と埃と、かすかな香の匂いが混じった空気がこぼれてくる。心臓の鼓動が、少し速くなった。
(なんだろう……ここ)
指先で扉を押すと、古い蝶番がわずかに呻き、室内の空気がこちらに流れ込んだ。
中は思ったよりも狭い。高い天井まで積み上がった書架が、古井戸の壁みたいに四方を囲み、中央にだけ机と小さな真鍮のベルが置かれている。
本の背表紙の間に、薄く瞬く光が見えた気がした――が、瞬きをすると、ただの影になっていた。
ベルを鳴らすと、遠くで衣擦れの音がして、奥の通路から一人の女性が現れた。
三十代後半ほどだろうか。落ち着いた色の着物に、眼鏡の奥の瞳が静かに文乃を射抜く。どこか、懐かしい後味を残す視線だった。
「いらっしゃいませ。……初めての方ですね?」
声は穏やかだが、鼓膜に小さな鐘を吊るされるような響きがあった。
「あの……本を、探してて」
「ここにあるのは、少し変わった“蔵書”です」
女性――三条冴子は、棚の影に片手を差し入れ、小さな箱を取り出した。銀細工の蓋を開けると、中には微粒子のような光が漂っている。風がないのに、淡く揺れていた。
「これは“記憶”です。短時間なら、誰でも借りられますよ」
「……記憶、って……?」
ありえないはずの単語が、違和感なく耳に沈んだ。冴子はごく自然に説明を続ける。
「あなたではない誰かの一場面を、五感ごと体験できる。代わりに、あなたの中から“何か”が少しだけ失われます」
嘘だ、と思う余裕はなかった。箱の光は、魂の心拍みたいに温かく、視線を離すことができない。
文乃は――気づけば、首を縦に振っていた。
光が指先に触れた瞬間、世界が夏に変わった。
午後の縁日。焼けたアスファルトの匂い。水槽越しに透ける金魚のひらめき。
浴衣の袖がすれて、隣の誰かの手が重なる。鼓動が伝わった。見上げれば、青い射的の輪。
その横顔に、見覚えがあった。
(……どうして、知ってるの? 誰、これ)
胸が満たされる幸福と同時に、背筋が冷たくなる。
映像が途切れたとき、手のひらに小さな空虚が残った。何を失ったのか、すぐには分からない。ただ、確かに“何か”が抜け落ちている。
「それが代償です」
冴子の声は、先ほどよりも深く沈んでいた。「代償は選べません。花の香りを得て、誕生日を忘れることもある」
文乃は口を開きかけて、言葉を飲み込む。代償。記憶。穴。
ずっと心の奥にあった“説明できない欠落感”と、目の前の輝きが、ゆっくりと繋がっていく。
「……この図書館は、誰のためにあるんですか」
冴子は少しだけ目を細め、棚の背に手を添えた。その視線の先、窓の外には赤い夕陽が沈んでいく。
「忘れたくない人のため。忘れなければならない人のため。そして――忘れてもいいと思えるほど、前に進める人のため」
外で、踏切の音が一度だけ鳴った。
文乃の唇に、聞き覚えのない名前がかすかに浮かぶ。
――朝比奈。
どうしてその名前が、こんなにも胸を締め付けるのかは、まだ分からなかった。