表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星屑図書館の忘れもの  作者: お試し丸
1/5

第1話 「閉架」という扉

 八月の夕暮れは、どこか遠い街の匂いがする。

 商店街のアーケードを抜けると、錆びたシャッターと、まだ灯りのついた喫茶店の境目で空気が変わる。長谷川文乃は、背中の鞄を抱くように持ち替えた。校門を出てから、人通りの多い道を避けるのが、最近の癖になっていた。


 その日、路地の奥にあるはずのないものを見つけた。


 古い木の扉。月明かりの欠片みたいに光る真鍮のプレートには、凛とした文字で《閉架図書館》と刻まれていた。

 聞いたことのない名前だった。市立でもないし、学校の付属図書館とも違う。

 扉の隙間から、紙と埃と、かすかな香の匂いが混じった空気がこぼれてくる。心臓の鼓動が、少し速くなった。


(なんだろう……ここ)


 指先で扉を押すと、古い蝶番がわずかに呻き、室内の空気がこちらに流れ込んだ。


 中は思ったよりも狭い。高い天井まで積み上がった書架が、古井戸の壁みたいに四方を囲み、中央にだけ机と小さな真鍮のベルが置かれている。

 本の背表紙の間に、薄く瞬く光が見えた気がした――が、瞬きをすると、ただの影になっていた。


 ベルを鳴らすと、遠くで衣擦れの音がして、奥の通路から一人の女性が現れた。

 三十代後半ほどだろうか。落ち着いた色の着物に、眼鏡の奥の瞳が静かに文乃を射抜く。どこか、懐かしい後味を残す視線だった。


「いらっしゃいませ。……初めての方ですね?」


 声は穏やかだが、鼓膜に小さな鐘を吊るされるような響きがあった。


「あの……本を、探してて」


「ここにあるのは、少し変わった“蔵書”です」


 女性――三条冴子は、棚の影に片手を差し入れ、小さな箱を取り出した。銀細工の蓋を開けると、中には微粒子のような光が漂っている。風がないのに、淡く揺れていた。


「これは“記憶”です。短時間なら、誰でも借りられますよ」


「……記憶、って……?」


 ありえないはずの単語が、違和感なく耳に沈んだ。冴子はごく自然に説明を続ける。


「あなたではない誰かの一場面を、五感ごと体験できる。代わりに、あなたの中から“何か”が少しだけ失われます」


 嘘だ、と思う余裕はなかった。箱の光は、魂の心拍みたいに温かく、視線を離すことができない。

 文乃は――気づけば、首を縦に振っていた。


 光が指先に触れた瞬間、世界が夏に変わった。


 午後の縁日。焼けたアスファルトの匂い。水槽越しに透ける金魚のひらめき。

 浴衣の袖がすれて、隣の誰かの手が重なる。鼓動が伝わった。見上げれば、青い射的の輪。

 その横顔に、見覚えがあった。


(……どうして、知ってるの? 誰、これ)


 胸が満たされる幸福と同時に、背筋が冷たくなる。

 映像が途切れたとき、手のひらに小さな空虚が残った。何を失ったのか、すぐには分からない。ただ、確かに“何か”が抜け落ちている。


「それが代償です」

 冴子の声は、先ほどよりも深く沈んでいた。「代償は選べません。花の香りを得て、誕生日を忘れることもある」


 文乃は口を開きかけて、言葉を飲み込む。代償。記憶。穴。

 ずっと心の奥にあった“説明できない欠落感”と、目の前の輝きが、ゆっくりと繋がっていく。


「……この図書館は、誰のためにあるんですか」


 冴子は少しだけ目を細め、棚の背に手を添えた。その視線の先、窓の外には赤い夕陽が沈んでいく。


「忘れたくない人のため。忘れなければならない人のため。そして――忘れてもいいと思えるほど、前に進める人のため」


 外で、踏切の音が一度だけ鳴った。

 文乃の唇に、聞き覚えのない名前がかすかに浮かぶ。


 ――朝比奈。


 どうしてその名前が、こんなにも胸を締め付けるのかは、まだ分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ