第二章:出会いは夢の続きを紡ぐ④
トゥルクが目覚めると、既に部屋の中にソラの姿はなかった。ベッドの上には、シーツや彼女が昨夜着ていたネグリジェが綺麗に畳んで置かれている。
トゥルクは自分の荷物から服を取り出すと、寝巻きを脱ぎ、手早く黒のスタンドカラーシャツとカーキのズボンという軽装に着替えていく。ブラウンのブーツに足を突っ込み、いつも腰につけているポーチを手に取ると、トゥルクは部屋を出た。
トゥルクが食堂に降りていくと、ソラはオーレンと一緒のテーブルで、芳醇なバターが香る分厚いトーストとベーコンエッグの朝食を食べていた。トゥルクの姿を認めると、ソラとオーレンは朝食を食べる手を止め、
「トゥルク、おはよう」
「お、何だ? トゥルク、寝坊か?」
おはよう、と挨拶を返すと、トゥルクは椅子を引き、ソラの横に腰を下ろした。水差しを手に忙しく立ち働いていたエルカはトゥルクへ近づいてくると、
「トゥルクくん、おはよう。よく眠れた? ところで今日の朝ごはん何にする?」
「ええと、じゃあ、今日はホットケーキで」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
水の入ったグラスをトゥルクの前に置くと、エルカはベージュのエプロンの裾を翻して去っていく。
「朝からホットケーキなんて、子供っぽくない?」
「……ソラ、何か言った?」
別に、とソラは首を横に振ると食事を再開する。育ちがいいのか、ベーコンエッグを切り分けるフォークとナイフの扱いは洗練されている。フォークに刺した焼いたソーセージをオーレンは肉汁を豪快に飛ばしながら噛みちぎった。オーレンはソラが一瞬嫌そうな顔をしたのを特に気にしたふうもなく、
「まあお前らの年代だと、女の子のほうが精神年齢が上だって言うしなあ。さっき聞いた話じゃあ、ソラちゃんはトゥルクの一個下の十二らしいけど、どう考えてもトゥルクよりソラちゃんのほうが大人だよなあ。しかもかわいいし」
「ほら、オーレンさん、早くご飯食べちゃってください。九時のベネット島行きの船に乗るって言ってませんでした?」
焼き上がったホットケーキの皿を運んできたエルカが呆れたように言った。はい、とエルカはトゥルクの前に可愛らしいホットケーキを置く。「エルカさーん、コーヒーお代わり!」別の宿泊客に呼ばれ、エルカは一礼するとトゥルクたちのテーブルを去っていった。ソラはちらりとトゥルクの朝食に目をやると、
「かわいい……けど、十三歳でこれは子供っぽくない?」
大きなホットケーキが一つに、その上部にくっつけるように置かれた小さな半円型の二つのホットケーキ。大きなホットケーキの中心にはバニラアイスが乗せられていて、チョコソースで目と鼻らしきものが描かれている。一緒に添えられた小さな器にはメープルシロップがなみなみと入れられており、甘党のトゥルクが味を変えながら最後まで楽しめるように配慮されていた。
「まあ……くまの形なのは確かにちょっと、僕にはかわいすぎるかもしれないけど……でも、朝は甘いもの食べないと何かいまいち元気出ないっていうか……」
トゥルクが口の中でごにょごにょとそんなことを言っていると、朝食を食べ終えたオーレンが立ち上がりながら、
「そうだ、トゥルク。昨日、俺の馴染みの取引先が面白いネタ掴んだって言ってたぜ。今日、ソラちゃんの服を見にいくんなら、ついでに寄ってみたらどうだ? 今日の大市で旅用の保存食の露店を出してる奴なんだが、俺の名前を出せば大丈夫なはずだ」
それじゃあ俺は船の時間があるから、とオーレンはテーブルの下に置いていた荷物を担ぎ上げると、踵を返す。エルカを呼び止め、勘定を済ませると、彼は宿を出て行った。
トゥルクは愛らしいホットケーキをどう切るか少し逡巡する。とりあえず、くまの耳の部分である小さな半円型のホットケーキにメープルシロップをかけると、トゥルクはそれを口に運ぶ。片耳を失ったホットケーキのくまが心なしか恨みがましい目でトゥルクを見ていた。小さな葛藤を繰り返しながら朝食を食べ進めていくトゥルクの横では、ソラが足をぶらぶらさせながら、涼しい顔でブラックコーヒーを飲んでいる。
「それじゃあ、僕たちもそろそろ行こうか」
ホットケーキを食べ終え、メープルシロップやアイスで汚れた口元を紙ナプキンで拭うと、トゥルクはソラを促しながら立ち上がった。食事の間、テーブルの上に置いていたポーチを腰のベルトに吊るすと、トゥルクは客のいなくなったテーブルから食器を下げているエルカへと近づいていく。
「エルカさん、ごちそうさまでした。お勘定お願いします」
トゥルクがそうエルカに話しかけると、彼女はトゥルクから数枚の硬貨を受け取ってエプロンのポケットへと入れた。トゥルクが支払いを済ませている間に、コーヒーの残りを飲み終わったらしいソラが追いついてきて、ごちそうさまでした、と頭を下げた。さらりと細い肩を滑り落ちた長い黒髪からは何だかいい香りがした。
トゥルクがソラを伴って宿の外に出ると、朝日が燦々(さんさん)と輝いていた。晴れた空は今日も夏らしく清々しい色をしている。
港へ向かう坂道の上を朝食を探す海鳥が舞っていた。遠くにはボー、ボー、ボーという汽笛を鳴らしながら海面を滑り出していく連絡船の姿が見える。ベネット島に行くと言っていたオーレンは今ごろあの船の中なのだろうかとトゥルクは思った。
木組みの街並みを横目に坂道を降りていくと、広場に市が立っていた。この場所では毎朝、朝市が行なわれているが、月に一度の大市の日だという今日は店の数も人出も桁違いだった。
「すごい……」
こういうところに来るのが初めてなのか、ソラは目を輝かせながら、感嘆の声を上げた。小花柄が散らされた白いワンピースに身を包んだソラの姿をすれ違う人々がちらちらと振り返っている。いかにもお嬢さん然としたソラの姿は、その整った顔立ちも相まって人目を引く。しかし、彼女は人々の視線をさして気にしたふうもなく、ワンピースの裾をふわりと翻しながら、くるりと半回転してトゥルクを振り返ると、
「ねえ、トゥルク、どこから見る? 早く行こうよ!」
お金がないからと遠慮していた昨日の様子はどこへやら、興奮したようにソラはトゥルクを急きたてる。自分のおかれた状況を受け入れ、割り切って開き直ることにでもしたのだろうか。出会ったばかりの昨日は緊張や戸惑いからなのか、心細そうで口数が少なかったり、遠慮した様子が目立っていたが、もしかしたらこれが彼女の素なのかもしれなかった。大市にはしゃぐソラの明るい笑顔は、年相応の少女らしくとても可愛らしくて、トゥルクは自分の鼓動が脈打つのを感じた。
「もう、トゥルク、早く行くよ!」
うっかりソラの笑顔に見惚れていたトゥルクは、彼女に手を引っ張られて思わずつんのめる。トゥルクは体勢を整えるふりを装いながら、さりげなくソラの手を握り返した。
あちらこちらの露店から、客を呼び込む元気の良い声が響いている。忙しなく辺りにきょろきょろと視線を巡らせ続けているソラの手を引きながら、トゥルクは歩き始めた。