第五章:幻想と希望の狭間③
トゥルクが意識を取り戻すと、彼の視界にはソラが装置を動かす前と何ら変わりのない実験室の風景が広がっていた。いつの間にか、あれほど激しかったはずの揺れも止まっているし、二人を包んでいた青白い光も消えている。はっとして視線を落とすと、消えてしまったはずの手があった。きちんと感覚も戻っているし、体の部位がどこか欠けている様子もない。
「ソラ! よかった……無事で」
すぐ傍に見慣れた長い黒髪の少女の姿を認めると、安堵でトゥルクは胸を撫で下ろした。光の中に溶けて消えてしまったはずの彼女がきちんと五体満足でここにいる。大袈裟だなあとソラは呆れたような表情を浮かべると、
「だから、大丈夫って言ったでしょ?」
「でも僕、このままソラが消えて、もう会えなくなっちゃうんじゃないかって不安だったから……」
そのとき、無機質な声が、無事に過去への転移が終わったらしいことを告げた。
『転移完了。終了フェーズに移行します』
ソラは立ち上がると、キーボードに指を滑らせて手元の装置を操作していく。一体ソラは何をやったのか、実験室の壁や天井、床が透明になり、トゥルクは瞠目した。
「トゥルク、これが私の生まれ育った……」
そう言いかけたソラの言葉が不自然に途切れた。彼女は信じられないものを見るようにあんぐりと口を開けたまま、壁の向こうの光景を凝視している。
透き通った壁の先には深い藍色の海が広がっていた。魚一匹いない暗い世界では、荒廃しきった街並みが眠りについていた。
「何、で……どうして……!」
ソラは思わず筐体に拳を叩きつけた。外の景色は、トゥルクとソラが研究所に入る前に見ていたものと大差ない。自分たちの体が今ここできちんと再構築されている以上、大きな問題は起きていないはずだった。もしかしてリノアたちですら把握していなかった不具合があったのかとソラは混乱しながらもコンソールを覗き込む。黒い画面に何やら白い文字が出力されており、ソラはそれに目を走らせていく。文章を読み進めるごとに、ソラの表情は固く強張っていく。
(そんな……パラメータのアンダーフローなんて……!)
コンソールにはエラーメッセージが出力されていた。ソラはこの機械を動かすにあたって、元々暮らしていた時代をパラメータとして入力していたが、演算で使用するうちに、システムが許容できる最小値を下回ってしまったようだった。
自分が暮らしていた時代に戻ってこられなかったことは理解できたが、それなら今は一体いつなのだろうとソラはシステムの時計を確認する。
「西暦十二万年……?」
ソラが地球を離れたのは西暦二三一六年のことだ。今いる時代はソラが生きていた時代から遥か先だ。トゥルクの時代は一体どれだけ先の未来だったのだろうと思うと、ソラは何か大きなものに飲み込まれてしまったような心細さを感じた。
今いる時代からもう一度、この装置を使えば今度こそ元の時代に戻れるだろうか。そう思いながら、モニターの表示を切り替え、エネルギー残量を確認したソラは愕然とした。
恐らく、この装置を使えるのはあと一度が限度だ。しかし、ソラが自分の時代に帰るためにこの装置を使ってしまっては、トゥルクが自分の時代に帰れなくなってしまう。
「どうしよう……」
ソラは弱りきったように眉尻を下げる。どうしたの、とトゥルクは問う。
「あのね、トゥルク。一度に移動できる時間には限界があるみたいで、私の時代に戻ろうと思ったら、もう一回、この装置を使わないといけないみたいなの。だけど、エネルギーの残量からして、この装置が使えるのもあと一回が限度。つまり、私の生まれ育った時代に戻ることを選べば、トゥルクは自分の時代に帰れなくなっちゃうってこと」
そう、というトゥルクの反応は究極の二者択一を突きつけられているとは思えないほど落ち着いたものだった。どうしようと動揺するソラの目をトゥルクはまっすぐに見つめると、
「ねえ、ソラ。もう一度聞くよ。ソラはどうしたいの?」
「………」
ソラは俯いた。あの時代に戻り、両親やリノアに会いたいのは事実だ。けれども、ソラの理性はトゥルクから元の時代で生きる権利を奪ってまですることではないと訴えていた。あくまでソラの意志を最優先してくれようとする優しい彼は、きっと自分が元の時代に帰れなくなったとしても怒りはしないだろう。しかし、美しい世界で生きることを望まれた結果、大好きだった人たちとの別れを強いられたソラ自身がそれはすべきではないと知っていた。大人たちが良かれと思ってした決断に、ソラは感謝もしていたが、同時に憤りをも覚えていた。
「わかんないよ。トゥルク、私、わかんないの。自分がどうしたいのか、どうするべきなのかわかんないの……!」
ソラはトゥルクの腕を掴むと、縋り付くようにその胸元へとつるりとして滑らかな額をつける。
「お父さんもお母さんも私のことを思って、私のことを送り出したのはわかってる。リノアだって、幸せな時代に私が生きられるようにって、あえてトゥルクに見つけてもらえるまで私をそのままにしておいたんだってことも、頭では理解してる。
だけど、お父さんとか、お母さんとか、リノアに会いたいって思っちゃいけないの? 私の幸せって一体なんなの?」
トゥルクはソラの背中にそっと腕を回した。細いその体は小刻みに震えている。トゥルクは優しく彼女の名前を呼ぶ。
「ソラ。ソラは今、不幸せ? 僕とこうやって、旅をしながら過ごす生活は嫌?」
「そんなことないけど……でも」
「でも?」
ダークブラウンのシャツの胸元にじわりと温かい液体が広がっていく。涙で声を滲ませるソラの背中をトゥルクはよしよし、とそっと撫でる。
「みんなみんな、勝手だよ。私にとって何が幸せなのかを勝手に決めつけて、私を一人にして。それを幸せなんて言葉で片付けるのはずるいよ……」
喉の奥から絞り出すようなその言葉から漏れ出す感情に胸が苦しくなって、トゥルクはソラをぎゅっと抱きしめた。彼女を愛していた人々がトゥルクの生きる時代へと繋いでくれた彼女の命は、どくどくと鼓動を打っていて温かい。
「ソラは……寂しかったんだね。ソラの意志なんて関係なく、大人たちだけでソラのことをどうするか決められて。それが善意からのものだったとしても」
腕の中でソラが頷くのをトゥルクは感じた。わかるよ、とトゥルクは言葉を続けていく。
「幸せになって、ってすごく身勝手な言葉だよね。二年前、僕のおじいちゃんも亡くなる前にそう言ってて、どうしたらいいんだって思ったよ。そんなよくもわからない未来のことなんてどうでもいいから、今ここからいなくならないでって、一人にしないでって。
だけどね、ソラ。僕は感謝してるよ。こうやって、ソラのことを大事に思って、ソラの幸せを願ってくれた人たちがいたからこそ、僕はこうやってソラと出会えたんだから」
「トゥルク……」
「僕とソラは今ここで生きてる。何のためでもなく、誰のためでもなく、自分のために生きてるんだよ。
ここしばらく、ソラは僕と一緒に色々な物を見てきて、楽しくはなかった? 知らないものを見て、わくわくしたりはしなかった? 僕はね、美しくて沢山の謎が眠るこの世界が大好きだよ。僕がこういうものに興味を持てるように育ててくれたおじいちゃんにも今は感謝してる。
僕はできれば、この先もソラに僕が大好きな世界を見せてあげたい。一緒にくだらないことで笑い合ったり、美味しいものを食べたりしながら、明日も明後日も僕は生きていきたい。
ねえ、ソラ。ソラがどうしても元の時代に帰りたいっていうんなら、僕はそれを止めない。だけど、ソラはご両親やリノアっていう人に会ったあと、どうするの? ソラが生きたい明日はどこにあるの?」
「私の……明日?」
はっとしたようにソラは顔を上げる。動揺で言葉尻が揺れている。両親やリノアに会いたいという気持ちばかりが先行して、元暮らしていた時代に戻ったとして、その後どうするのかなんて考えてはいなかった。
トゥルクと出会った時代へ帰るための手段がない以上、あのころに戻ったとしてもトゥルクとソラは蔓延する疫病や肺を蝕む汚れた空気などによって、遠からず死に至るであろうことは疑いない。だとすれば、自分は一体何のためにあの時代へ帰るのだろう。命を賭して送り出してくれた両親の前に自分が姿を現したら、二人はどう思うのだろう。ソラは初めてそのことを考えた。
今、ソラがここにいるのは、両親やリノアの愛情によるものなのだろう。ソラにも言いたいことはあるが、それだけはきっと確かなことなのだろうと信じられた。
(私が戻れば、お父さんとお母さんの気持ちも覚悟も無駄になる……リノアの心遣いだって……。私に皆の思いを踏み躙る覚悟はあるの?)
ソラは改めて、自分の胸にそう問いかける。しかし、そんなものを背負うだけの覚悟は自分にはないとソラは思った。同時に、どれだけ自分が軽はずみに両親やリノアに会いたいと言っていたのか、今になってようやく実感が込み上げてきた。
「私がしたいことは、少なくとも、お父さんやお母さん、リノアの思いを踏み躙ることじゃない……。死んじゃったとしてもいいからお父さんやお母さんと一緒にいたかったのにああいう形で引き離されちゃったのは悲しかったし、私の気持ちなんて無視して、大人たちだけで何もかも決めちゃったのが嫌だったのは確かだよ。だけど、私がしたいのはそんなことじゃない……!」
ソラは喉の奥から言葉を絞り出すようにしてそう言った。それは紛れもないソラの本音だった。
「私、トゥルクといるの嫌じゃないよ。トゥルクと一緒にいろんなところに行って、冒険するのも楽しいし。まだ、トレジャーハンターが今の私のやりたいことなのかどうかわからないけど……それでも、私、トゥルクと一緒にいてもいいかな? 私、これ以上、誰かと別れたくない。一人になりたくないの」
いいよ、とトゥルクは頷いた。大きな目を真っ赤に泣き腫らしたソラの頭をぎゅっと抱き寄せると、トゥルクは耳元で囁く。
「ソラ、僕は一緒にいるよ。ソラから離れたらなんてしないから。二度とソラにそんな思いをさせたりなんてしないから。
だから、ソラ。一緒に帰ろう。僕たちの時代に。僕たちの日常に」
「うん。……帰ろう、トゥルク」
ソラはとん、とトゥルクの肩口に一瞬、額をつけるとするりと猫のような動きでその腕の中から抜け出した。ソラはごしごしと黒いジャケットの袖口で目元を拭うと、強気な笑みを浮かべる。明るくて気丈な、トゥルクがよく知っているソラの笑顔だった。
ソラはワープ装置に手を触れると、トゥルクと出会った時代へ戻るための準備を始める。キーボードの上に指を走らせ、パラメータをソラは入力していく。二人を囲むように、先程と同じ光のサークルが床に現れたことを確認すると、ソラは丸く滑らかな手触りの赤いボタンに手を触れた。
「トゥルク」
「うん」
トゥルクは背後からソラを抱きしめるようにして、ソラの手の上からボタンに触れる。トゥルクとソラは顔を見合わせて頷き合うと、ボタンを押した。
『第一フェーズ開始まで、三、ニ、一……』
部屋の中に無機質な女性の声が響く。足元のサークルが眩い光を放ち始め、青白い光の円柱が二人を覆う。再び、二人の体は光の粒子となって、末端からほろほろと分解され始めた。
「ねえ、トゥルク」
「なあに?」
「ありがとね」
ソラは背後のトゥルクを振り返ると、はにかんだような表情を浮かべる。大好き、とソラは小さく呟いたが、スピーカーから発せられた機械音声にかき消されて、トゥルクの耳に届いた様子はなかった。
『まもなく加速フェーズに突入……』
これから訪れるであろう揺れに備えて、ソラは背後のトゥルクへと背中を預けた。トゥルクはそれを拒むことはなく、背後から両腕を回してソラの肩を抱いた。
もうこれで、自分が両親やリノアに会えることはきっとない。今日のこの選択を後悔することがあるかもしれないけれど、それでもこの決断をした自分を今は誇っていたいとソラは思った。
とくとくと脈打つお互いの鼓動がやけに大きく聞こえる。トゥルクとソラは互いの体温を感じながら、その時を――再び時間を越えるその瞬間を待った。