第一章:祈りは出会いを繋ぐ①
赤く染まった空の下、一頭の黒い馬が街道を進んでいた。背には一人の少年と少しの荷物を乗せている。
日中の暑さは鳴りを潜め、気温が下がってきていた。しかし、馬体にまとわりつくハエたちにはまだ家路に着く様子はなく、馬は時折立ち止まってはいらいらと振り返る素振りを見せていた。
鞍上の鳶色の髪の少年――トゥルクはほらほら、と虫を気にする相棒を宥めてやりながら、
「リブレ、虫ばっかり気にしてないでよ。早く街に戻らないと夜になっちゃう」
トゥルクが声を掛けてやると、青鹿毛の牝馬は渋々といったふうに前を向いて、てくてくと歩き始めた。
今は夏で、日没が遅い季節だとはいえ、完全に日が落ちてしまえば冷え込むし、何かと物騒だ。ある程度きちんと整えられた街道沿いとはいえ、夜陰に紛れて獣や盗賊に襲われる危険だってある。仕事柄、多少の護身の術は心得ているものの、できることならそういった危険とは関わり合いにならないのが一番だった。
空に夜の藍色が混ざり始めた東の方角へと向かって、一人と一頭は進んでいく。この道をしばらく進めば、トゥルクが何日か前から滞在しているコルニスの街に着く。しかし、こんなゆっくりとした速度で進んでいては、コルニスに着くころにはおそらく月が昇ってしまう。
「リブレ、ちょっと走ろうか」
トゥルクが脹脛でリブレの腹部を圧迫して指示を出すと、それまでゆったりと歩いていたリブレの足取りがすたすたと早くなる。リブレの頭の上下動が大きくなり、歩幅が広がったことを確認すると、トゥルクは体を起こす。手綱を短く持ち直すと、左脚を後ろに下げる。トゥルクが左脚でリブレの腹を押すと、リブレは一瞬、嫌そうに耳を後ろに倒した。しかし、それ以上リブレは反抗を見せることはなく、タタタンタタタンと走り始めた。
西の地平線の向こう側へ沈みゆく夕日が、一人と一頭の後ろ姿を静かに見ていた。
トゥルクがコルニスの街に入ったころには、空は宵闇に覆われ、星々が思い思いの図形を描いていた。とっぷりと日は暮れ、肌を撫でていく風が少し冷たい。
運河と木組みの家々の間をトゥルクはリブレに跨ったままゆっくりと進んでいく。石畳の道の両端に等間隔に並べられた篝火がトゥルクの行く手を煌々(こうこう)と照らしている。
青い屋根の大きな木組みの建物の前まで来ると、トゥルクはぐっと手綱を握る手に力を込めた。トゥルクの合図に気づいた黒い馬はすぐに反応し、足を止める。
リブレが完全に止まったことを確認すると、トゥルクはぽんぽんと彼女の首筋を叩いて褒めてやる。そして、右脚を鐙から引き抜き、左脚を軸にしてトゥルクは体を回す。左脚も鐙から抜くと、体をリブレに押し当てながら、地面へとぽんと飛び降りた。左右の鐙を鞍の上に乗せると、トゥルクは手綱を引いて、リブレを厩へと連れて行く。
「リブレ、今日もお疲れ様」
労わる言葉をかけながら、トゥルクはリブレの背にくくりつけていた荷物を下ろしてやる。続いて鞍を固定するためのベルトを外し、よいしょ、と気合いをいれながら、ずっしりと重い鞍とその下の厚手の敷き布をリブレの背から下ろした。
喉元のベルトを解き、ハミと手綱が連なった革製の馬具――頭絡をリブレから外してやると、トゥルクはそれを慣れた手つきで畳んでいく。鞍と頭絡を片づけると、煩わしい荷物から解放されたリブレがおやつを求めてトゥルクへと擦り寄ってきた。
はいはい、とトゥルクは右手で相棒の鼻筋を撫でてやりながら、左手で腰に下げた革のポーチから角砂糖を取り出した。ご褒美の存在に気づいたリブレはトゥルクの左手に口元を近づけてきて、嬉しそうにそれを口にした。
荷物からブラシを取り出すと、角砂糖のお代わりを要求してくるリブレを適当にいなしながら、トゥルクは丁寧に彼女の黒い体毛を梳かしていく。体を刺激するブラシの感触が心地よかったのか、次第にリブレは大人しくなっていく。
トゥルクは腰のポーチから、小さなブラシと金属の突起がついた蹄を手入れするための道具――鉄爪を取り出すと、軽く屈む。足元を飛び交うハエを追い払いたいのか、時折振り上げようとしている後肢に注意を払いながら、トゥルクは肩でリブレの前肢を押す。足の裏を手入れしてもらえることを察したリブレは、トゥルクに押された足の角度を変える。トゥルクはリブレの足を持ち上げると、爪の部分を掴み、鉄爪の金属の突起で足の裏に詰まった土を抉り出していく。リブレの足があらかた綺麗になると、トゥルクは鉄爪の小さなブラシで彼女の足の裏にわずかに残っていた土を払い落とした。リブレの足を下ろすと、トゥルクは残りの三本も同様に手入れを続けていく。
一通りの手入れが終わると、トゥルクは出した道具をしまい直し、下に置いたままだった荷物の袋を背負う。額に愛らしいハート模様がある顔をすり寄せてきたリブレの首筋をぽんぽんと撫でてやると、「おやすみ、リブレ。ごはんとお水はもらえるように宿の人に言っておくね」トゥルクは厩を出ていった。
トゥルクは宿屋の正面に回ると、ガチャンと音を立てて木の扉を開く。扉の上部に付けられた真鍮のベルがチャリンと音を立て、彼の帰着を知らせた。
ベルの音を聞きつけたらしい女主人のエルカが他の宿泊客に給仕をしていた手を止め、トゥルクを出迎える。
「あら、トゥルクくん。遅かったわね」
「すみません。今日はバリュス廃坑のほうに行ってきたんですけど、少し奥の方に入り込みすぎちゃって」
「夢中になるのはいいけれど、気をつけないと駄目よ。子供があんまり危ないことをするべきじゃないし、こうして遅くまで出歩くのも心配だわ」
話の内容がだんだんと小言じみてきて、トゥルクは辟易する。歳の近い息子がいるというエルカは、ついトゥルクのことが心配になってしまうようだ。危険がつきものの商売に身を置くトゥルクは、気持ちだけはありがたく受け止めることにして、近くに置かれていた本日のお品書きへと視線をちらりと向ける。ここの宿はエルカの作る家庭料理がおいしい。本日のおすすめは朝採れたまごの半熟オムライスとなっている。
「エルカさん、今日ってまだオムライスありますか? 僕まだ晩御飯食べてなくって」
そう訊くと同時に、タイミングよくトゥルクの腹がぐぅぅと鳴る。昼食はりんごをリブレと半分に分け、軽めに済ませてしまっていたので、空腹なのは当然だ。エルカはまだ小言を言いたりなさそうにしていたが、仕方ないわね、と肩をすくめると、
「ちょっと待っててちょうだい。すぐ準備するから」
エルカは近くの客の空いた皿をテーブルから下げながら、カウンターキッチンの中へと入っていった。
エルカがとんとんと包丁で具材を切っている小気味よい音を聞きながら、トゥルクはきょろきょろと空いている席を探す。
「トゥルク」
ふいに男の声に名前を呼ばれ、トゥルクはそちらを振り向く。視線の先には、ビールがなみなみと注がれたジョッキを手にした赤ら顔に髭を生やした豪気そうな中年の男がいた。ジョッキを持ってない方の手で手招きをしているよく見知った男へと会釈すると、トゥルクはテーブルへと近づいていく。
「オーレンさん。この街に来てるなんて、偶然だね」
「おう。このエリン島の鉱山からはいい石がよく採れるからな。この街はどこに行くにしても便利だし、おまけにここの女将は美人な上に飯も美味いからな」
立ち話もなんだし座れって、と相席を勧められ、テーブルの下に荷物を置くと、トゥルクはオーレンの向かい側の椅子に腰を下ろす。
オーレンは旅の商人だ。日用品や高価な装飾品、果てには情報まで手広く扱っている。オーレンは、今は亡き、学者だった祖父のウェドフのもとで学問を教わっていたことがあり、一時期トゥルクの家に居候していた。その縁で、まだ十一歳だったトゥルクが唯一の肉親を失い、生きるためにトレジャーハンターとなった後も、彼は何かと良くしてくれていた。
「おまちどうさま」
エルカがたまごがとろとろのオムライスの皿を運んできて、トゥルクの前へと置いた。上からかけられたデミグラスソースの匂いが食欲を刺激する。
オムライス以外にも、皮がぱりぱりのチキンステーキやさくさくとしたきつね色の衣がついたコロッケ、バターが添えられたふかし芋や軽く炙られたバケットと、エルカはテーブルの上に次々と皿を並べていく。美味しそうではあるが、頼んだ覚えのない品の数々にトゥルクは困惑しながら、
「エルカさん……これは?」
「トゥルクくんは成長期なんだからもっと食べないと駄目よ。お代なら気にしないで。そこのおじさんが払ってくれるから」
しれっとエルカがそんなことをのたまうと、ぎょっとしたような顔でオーレンが口に含んでいたビールを吹いた。
「ちょっとオーレンさん、汚いわよ。その辺、後でちゃんと拭いておいて」
「いやいやいや! 知らないうちに俺の奢りになってる上にこの仕打ち! エルカさん、そりゃないっすよ!」
「冗談よ。トゥルクくん、これは私からのサービスだから気にしないで食べてちょうだい」
「ありがとうございます。あと、申し訳ないんですけど、リブレにもごはんとお水をあげてもらってもいいですか?」
「わかったわ。ちゃんとやっておくように息子に言っておくわね」
それじゃごゆっくり、とエルカは軽く一礼すると、踵を返して去って行った。エルカがいなくなると、何なんだよもうとぼやきながら、オーレンはビールを一息に飲み干した。
いただきます、とエルカの厚意に感謝しながらトゥルクは手を合わせると、テーブルの隅にあったラタンのカトラリー入れからスプーンを手に取った。まだ固まりきっていない黄身と白身のマーブル模様が美しいオムライスをスプーンですくおうとしていると、オーレンが近況を尋ねてきた。
「トゥルク、最近どうだ? さっきエルカさんに今日はバリュス廃坑に行ったとか言ってたが、成果はどうだった?」
オーレンはテーブルに肘をつきながら、オリーブのオイル漬けをフォークの先でつついている。トゥルクは口の中のオムライスを飲み下し、スプーンを動かす手を止めると、
「オーレンさん、行儀悪いよ。今日は上々かな。帰りが遅くなっちゃったけど、おかげでまあまあ価値のあるものが出てきたし」
「お、何が出てきた? 物が悪くなければいつも通り買い取ってやるよ」
興味を示したように、オーレンはテーブルから身を乗り出し、酒臭い顔をトゥルクへと近づけてきた。トゥルクはスプーンを皿の上に置くと、テーブルの下に置いた荷物をまさぐり、じゃらじゃらと音がする小袋を取り出した。トゥルクは袋をオーレンに手渡しながら、
「たぶん、古い時代のお金だと思うんだよね。最近流通しているものとは、全然デザインも重さも違うし」
オーレンは袋を受け取ると、急に真顔に戻り、
「わかった。鑑定が終わったら、後で部屋に行く。ところで、トゥルクはまだしばらくこの街にいるのか?」
「どうしようかなって思ってる。北の森のほうにも足を伸ばしてみたいけど、今のところ特に目ぼしい情報もないし」
バケットを手に取って、オムライスのソースをつけながらトゥルクがそう答えると、オーレンは椅子の背に掛けていた上着のポケットから一枚の羊皮紙を引っ張り出した。
「北ってことは、ドバシアの森のことだよな? ここにドバシアの森の地図があるんだが、譲ってやろうか? 格安で」
本当に、とトゥルクは聞き返しながら、食事の手を止めると、口に運ぼうとしていたバケットを皿の上に置く。彼は茶褐色の目を輝かせ、テーブルから身を乗り出すと、
「オーレンさん、いいの!? いくら?」
「そうだなあ、そこのコロッケ一つと交換でどうだ?」
「お金なら別に持ってないわけじゃないし、払うのに……本当にいいの?」
「おう。エルカさんのコロッケは美味いからな」
わかった、とトゥルクが頷くと、持っていた地図をオーレンは差し出した。トゥルクがそれを受け取ると、「交渉成立、と。それじゃ遠慮なく」オーレンは手を伸ばし、コロッケへとフォークを突き刺した。
トゥルクは紙ナプキンで指を拭うと、がさがさと音を立てながら、オーレンからもらった地図を開く。目に飛び込んできた地図の緻密さにトゥルクは思わず息を呑んだ。トレジャーハンターなんていうものを生業にしていても、手に入る地図は大まかな地形と主要な道や川が記されているだけのものなどが多いのに、この地図には獣道と思しき細い道までしっかりと記入されていて、その精度に驚かされる。印がつけられた場所の近くには古い時代の文字で書き込みがされているが、トゥルクの語彙力ではその単語の読み方も意味もわからなかった。呼吸も瞬きも食事も忘れて地図を見入っていると、コロッケを食べ終えたオーレンが呆れたように、
「まったく、ウェドフ先生そっくりの顔しやがって。おーい、トゥルク」
名前を呼ばれて我に返ったトゥルクは地図から目線を上げ、髭面の男を見た。
「オーレンさん? 何?」
「何って、お前なあ……。まったくそんなきらきらした嬉しそうな顔しやがって。本当にウェドフ先生――じいさんそっくりだよ、お前は」
苦笑混じりにオーレンにそう言われ、トゥルクは在りし日の祖父のことを思い出す。考古学や地質学を専門としていたウェドフは、この世界の歴史についての考察をとっておきの物語を教えるように、時折トゥルクに話してくれた。そういうときのウェドフはいつだって楽しそうで、彼の口から紡がれる物語にトゥルクはいつしか憧れを覚えるようになっていた。
「この世界にまだ知らないものがあるかもって、見たことのないものがあるかもって思うと、僕はどきどきして仕方ないんだ。きっと、おじいちゃんもそうだったんだと思う。それに僕がおじいちゃんに似ているのは当然じゃない? おじいちゃんの話を聞いて育ったからこそ、自分で未知のものを探しに行きたいって思ったんだし。だから、おじいちゃんが死んで一人になったとき、僕はトレジャーハンターになる道を選んだんだよ」
オーレンは眩しいものを見るような目でトゥルクを見ていたかと思うと、ビールが入っていたジョッキにテーブルの上の水差しの中身をどばどばと注ぎ始めた。オーレンは水を一気に飲み干すと、
「トゥルク、そういうとこだよ、お前。体力仕事なトレジャーハンター様はちゃんと飯食え。っていうかさっさと食わねえと、せっかくの飯が冷めるぞ。いらねえなら俺が食うけどな。コロッケの中のクリーム濃厚で美味かったし」
ジョッキをテーブルに置き、フォークを握り直すと、げらげらと笑いながらオーレンはチキンステーキの皿に狙いを定める。トゥルクはテーブルの隅に地図を畳んで置くと、目の前の大人に冷ややかな視線を浴びせながら、「やめてよ、オーレンさん。大人が子供のご飯取るなんて恥ずかしくないの?」「えー、いいだろ少しくらい」二人は顔を見合わせるとぷっと吹き出した。
「もう何でもいいからさっさと飯食え。俺は先に部屋戻って、さっきのやつの鑑定やっとくから」
トゥルクのおかずを掠め取るのを諦めると、オーレンはフォークを置いて立ち上がる。
「それじゃあ後で」
「おうよ」
オーレンはふらふらとしながらもトゥルクが渡した小袋を持って踵を返すと、客室のある二階へと続く階段を登っていった。その背を見送ると、トゥルクはスプーンを握り直し、食事を再開した。