第四章:水底に眠る秘密③
その日の夜、ソラは夢を見た。オーレンから聞いた海底の廃墟の話に期待を覚えてしまったせいか、まだ両親やリノアがそばにいたあのころの懐かしい夢だった。
夢の中のソラは、研究員たちが忙しく立ち働く研究室の片隅で、空中に映し出された子供向けの通信教育のテキストをおざなりに眺めていた。その内容は情報工学についてだったが、テキストに載っているレベルのプログラムの解説は科学者の両親を持つソラには簡単すぎて、文字の羅列が視覚の表面を素通りしていく。
「ソラちゃん、今日も退屈そうだねえ。ねえねえ、お姉さんとちょっとお茶しない?」
ソラが振り返ると、モカブラウンの髪を花の意匠のかんざしでお団子にまとめ、よれよれになった白衣に身を包んだ少し年上の少女が茶目っ気たっぷりにウィンクしていた。その手には湯気の立ち上るブラックコーヒーの入った紙コップが二つ握られている。
「リノア! いいの? こんなところでサボってると、また他の人に怒られるよ?」
ソラがそう聞くと、いいのいいのと笑いながらリノアはソラの隣へと腰を下ろす。ソラは右耳の水色の星型のイアホンに触れ、目の前のテキストを消すと、リノアの手から紙コップを受け取る。
「休憩時間を取るのは労働者の権利なんだからいいの。ただでさえ、研究なんてやってたら意識的に休憩取るようにしないと、いつまでだってずるずる仕事しちゃうんだから。ここのところ、ずっと徹夜続きでもう私疲れたー! 単位はとっくに全部取り終えたとはいえ、一応、私まだ学生なのにちょっと働かされ過ぎじゃない? 私の青春どこ行ったの!」
休みほしーい、と喚きながらリノアはテーブルに突っ伏す。そして、もぞもぞと白衣のポケットをまさぐりながら起き上がると、
「あ、そうだ。ソラちゃん、こんなものしかないけどお茶請けにどうぞ」
おそらくはチョコレートだったものだと思われる小さな袋を手渡され、ソラは受け取った。ソラは隣でううともああともつかないおっさんくさい呻き声を上げながらちびちびとコーヒーを舐めている四つ年上の少女にじっとりとした視線を向けると、
「ねえ、これ賞味期限一年くらい過ぎてるんだけど……しかも溶けてるし」
「あれ? いらない? 過ぎてるっていったって所詮賞味期限だし、まだ全然イケるよ?」
「……リノアってどうでもいいことに対しては本当に適当だよね……。天才って皆こうなの?」
ソラが呆れたように言うと、リノアは天才という単語だけを都合よく拾い上げて、
「えー、やだソラちゃんってば、天才だなんて、そんな褒めないでよー! いくら本当のことだからってさー!」
「そこは否定しないんだ……。ところで実際のところ、研究の進捗ってそんなによくないの? 他の研究員の人たち、ずっとすごくぴりぴりしてるけど」
ソラはチョコレートの包みを手でもてあそびながらそう聞いた。同じ研究所の中にいても何日か両親には会えていないし、他の研究員たちは所長夫妻の娘であるソラの扱いがわからず遠巻きにしている。リノアにくらいしかこんなことは聞けそうになかった。リノアはコーヒーをぐいっと飲み干すと、一ヶ月は洗濯していなさそうな薄汚れた白衣の両腕を組み、
「いやー、ワープ理論の方がちょっとね。宇宙空間にワームホールを生成して、その間を宇宙船で超光速航法で駆け抜けることで、航行時間を大幅に短縮させる想定なんだけど、ワームホールを繋げられる距離の制限が破れなくって。それに今のままだと超加速フェーズに入ったときに、人間が耐えきれずに、原子レベルに分解されて元に戻れなくなっちゃいそうなんだけど、それの打開案が見つからなくってさ。一度、タキオン粒子にコンバートをかけるアプローチで検討し直してるんだけど、再コンバートのための技術が確立されてないからお手上げ状態で。それでも、わからないけどわからないなりに闇雲に頑張らないといけない状況だから、皆ちょっとぴりぴりしちゃってるみたい。
でもまあ、この星ももう何年ももたない――何週間先に、何日先にその日が来るかわからないって言われてるからね。私たち科学者は何のためにいるのか、地下のシェルター暮らしの人々が多い今の世の中でどうしてこんなに衣食住の面で優遇してもらえてるのかって話よ。この星が秒読み状態の今、人類の未来を守るために、私たち科学者は今、頑張らないと」
使命感に燃えるリノアの顔は、連日の激務で頬がげっそりとこけていて、ひどくやつれて見えたが、それでもソラの目にはとても眩しく見えた。ところで、とリノアは自分の思想を語った直後にけろりとして話題を変えると、
「ソラちゃん、何日か匠真先生にも涼香さんにも会ってないでしょ? さっき一個実験が終わったところだし、今なら会えると思うよ。行ってみない?」
「いいの? 後でリノアが怒られたりしない?」
「大丈夫、大丈夫。二人ともソラちゃんのこと大好きだし。それに、そもそも二人がソラちゃんに会えないくらい毎日頑張るのは、ソラちゃんのためでもあるしね」
どういうこと、とソラは聞き返す。ふふ、とリノアは立ち上がりながら含み笑いを漏らすと、
「それはきっと、ソラちゃんが大人になったらわかるよ」
「大人って……リノアだってまだ十六のくせに」
適当にごまかされた気がして、ソラは頬を膨らませる。リノアは指先でソラの頬をつんつんと突っつくと、行くよ、と立つようにソラを促した。
二人は途中で倉庫に立ち寄り、何種類かの合成食料を調達すると、ソラの両親が居室がわりにしている研究室へと向かった。
「匠真先生、涼香さん。今いいですか? 私、リノアです」
研究室の前に立ち、リノアがこんこんと扉をノックする。はーい、と女の声が中から聞こえ、ピピっという電子音と共に扉が開いた。
「あらリノアちゃん、どうしたの? って、ソラも一緒なの? ソラ、駄目でしょう? リノアちゃんにわがまま言って、迷惑かけたら。リノアちゃんだって研究で忙しいのよ」
扉から顔を出した三十代後半の女性――ソラの母親の涼香は、数日ぶりに会う娘の姿を認めると、彼女を咎めた。リノアは違うんです、と首を横に振ると、
「私がソラちゃんに頼んで、涼香さんたちにご飯持ってくるの手伝ってもらったんです。涼香さんたちだってせめて食べるもの食べないと倒れちゃうでしょう? そしたら元も子もないじゃないですか」
仕方ないわね、と肩をすくめると涼香は二人を部屋の中に招き入れた。
部屋の中では涼香と同じくらいの年齢の白衣の男――この研究所の所長でソラの父親の匠真がデスクの前でたくさんのモニターを険しい顔で見つめていた。あなた、と涼香が匠真を呼ぶと、彼は振り返った。
「リノアちゃんとソラがご飯を持ってきてくれたの。実験は少し研究員の子たちに任せて、私たちは少し休憩にしましょう」
ああ、と匠真は頷いた。そして、ソラの姿を認めると優しげに目を細め、その名を呼んだ。
「お父さん!」
ソラは匠真へと駆け寄ると、その腕に縋りついた。無邪気な笑みを浮かべる愛娘の髪を匠真はよしよしと撫でながら、
「ソラ、元気にしてたかい? ちゃんと勉強は順調?」
「うん、私は元気だよ! 勉強だって、順調も何も、この前のテキストの範囲なんて私、とっくに完璧だよ? ねえ、私、勉強なんかより、お父さんたちのお手伝いがしたい! 何か私にできることはない?」
匠真はそうだなあと穏やかに微笑むと、
「ソラにできることは、そうやって元気で笑っていてくれることかな。それが一番、お父さんもお母さんも励みになるんだ」
何それ、とソラは茶化されたような気分になって、むくれた顔をする。何だか先ほどもリノアに同じようなことを言われて煙に巻かれたような気がする。
「リノア」
開けっぱなしになっていた研究室の扉の外から、余裕なくぴりついた若い女性研究員の声がかけられた。リノアは手に持っていた合成食料の包みを涼香に手渡すと、戸口を振り返る。
「ソフィア。どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、そろそろ次の実験の開始時間です。持ち場に戻ってください」
「了解、すぐ行くね。それじゃあ、ソラちゃん、またね。匠真先生も涼香さんも、失礼します」
そう言うとリノアは年相応の少女から天才科学者としての顔に戻り、足早に部屋を出ていった。
縋りついた匠真の顔。夫と娘を眺めながら、やれやれと微笑む涼香の表情。遠ざかっていくリノアのよれた白衣の背中。それらすべてがソラの視界からぼやけていく。匠真と涼香がソラへと話しかけてくる声が遠い。
はっとしてソラが目を開くと、視界に映るのは、ここ何日か宿泊しているシャトンの宿屋の天井だった。隣のベッドではシーツにくるまって鳶色の髪の少年がすうすうと穏やかな寝息を立てている。
「夢、か……」
落胆を覚えながら、ソラは小さく呟いた。意識が覚醒するにつれて、つい先ほどまで一緒にいたはずの両親やリノアの気配が薄れていく。
ひどく懐かしい夢を見た、と思った。あのころは当たり前にあった、ソラにとっては大切な日常の風景だった。
七賢人の遺産の力を持ってすれば、両親やリノアにまた会うこともできるかもしれないとトゥルクは言っていた。オーレンから聞いた海底の廃墟の話はやはり、七賢人の遺産と関係のある話なのだろうか。
確かめたい、とソラは思った。朝になったら、リーウェに行きたいと改めてトゥルクと話をしてみようと心に決める。
窓の外の空はまだ闇に覆われていたが、月は西に傾き始めている。世界はまもなく訪れる朝を受け入れる準備を始めていた。