第四章:水底に眠る秘密②
トゥルクとソラがオーレンの泊まる金鳥亭を訪れたのは待ち合わせの五分前のことだった。いらっしゃいませ、と若い男性の店員に出迎えられ、「あの、待ち合わせなんですけど。商人のオーレンさんっていう人と」待ち合わせである旨をトゥルクが説明すると、彼は二人をビールの空き瓶が積み上げられた客席へと案内してくれた。ソラはうわぁ、と顔を引き攣らせると、
「オーレンさん……一体、何時から飲んでらっしゃったんですか……?」
恐る恐るといったふうのソラの問いに、オーレンは四時ぃ、と答えた。トゥルクとソラを待っている間に一体どれどけ飲んだのか、呂律が回っていない。
ごゆっくりどうぞ、と店員は呆れたようにビール瓶を回収すると、代わりに人数分のグラスと水差しを置いて去っていった。ソラはオーレンの向かいに腰を下ろすと、手早くグラスに水を注いでいく。水の入ったグラスをソラはオーレンに渡しながら、
「オーレンさん、これ飲んでください。というか、ご飯も食べずにお酒ばっかりあんなに飲んじゃ駄目じゃないですか」
今日はもうお酒禁止です、と言うソラからオーレンはグラスを受け取りながら、
「ソラちゃん手厳しいな……」
ぼやきながら水に口をつけるオーレンへと、駄目なものは駄目です、とソラは畳み掛けた。
しばらくして多少酔いが覚めたのか、顔色から少し赤みが薄れたオーレンがそうだった、とこの時間に待ち合わせた理由を思い出したように、
「そうだ、ソラちゃん。約束していた服の件だが、欲しいやつあったら言ってくれ。たぶん、昼間見てたあのワンピースは買うだろうと思ってたから、上着と下、合わせやすそうなものである程度絞っておいた」
オーレンはテーブルの下から衣類が入った大きな紙袋を取り出しながら、夜の客を迎える準備をしている店員へと「悪いが、もう一個テーブル使わせてくれ」「いいですよー」店員の許可を得ると、まだ少し体をふらつかせながらもオーレンは立ち上がり、隣の四人がけのテーブルの上に服を広げていく。
温かな色味の茶色い格子柄の薄手のコート。ボディラインにぴったりと張り付くデザインのネイビーのレギンス。シンプルながらもフェミニンさを合わせ持った黒いジャケット。オフホワイトのスリムパンツ。繊細な刺繍が美しいロングカーディガン。千鳥格子柄のハイウエストパンツ。
わあ、とソラは大きな黒い目をきらきらとさせながら、椅子から立ち上がるとオーレンの側に近寄っていく。服を手に取って、自分の体に合わせてみたりしながら、ああでもないこうでもないとソラは服を吟味していく。ソラは検討に検討を重ね、最終的に残った黒のジャケットとオフホワイトのスリムパンツを手に、
「オーレンさん。これとこれ、いいですか?」
「おう。二枚で銀二枚でいいぜ」
銀二枚、とソラは思わず聞き返した。昼間に買ったワンピースが金貨一枚に銀貨二枚という価格だったのを考えるとこれは破格の値段だ。街中で会ったときに三割引にするだとか言っていた気がするが、それを踏まえてもいくら何でも安すぎないだろうか。それをソラがオーレンへと伝えると、彼は美少女割だなどと嘯いて、
「トゥルクが相手だったらこんなに安くしねえよ。ソラちゃんはかわいいから特別ってやつだ。ま、そういうわけだから気にするな」
はあ、と呆気に取られながらも、ソラは自分のミニリュックから財布を取り出した。銀貨二枚を財布から出すと、ソラはそれをオーレンへと差し出す。いいのかな、と思いつつも、これ以上問答を重ねることで、オーレンの厚意を無碍にはする気になれなかった。
毎度、とオーレンは銀貨を受け取ると、テーブルの上に広げた衣類を畳んで片付け始めた。ソラも買ったばかりの黒いジャケットに袖を通すと、スリムパンツはミニリュックの中へとしまった。
「よし、トゥルク、ソラちゃん。それじゃあ、飯にするか。好きなもん頼みな」
そう言いながら、オーレンはトゥルクの斜向かいへと腰を下ろした。ソラもトゥルクの隣に座ると、メニュー表を覗き込む。
「ねえ、トゥルク。これは何て読むの? あとこれは? 牛肉っていうのは読めるんだけど」
「こっちはラタトゥイユ、そっちはビーフシチューだね」
ソラがトゥルクと出会ってから、一ヶ月ほどが過ぎた。文字が読めなかったソラは日々、トゥルクにいろいろと教えてもらって、簡単な単語や数字くらいであれば読めるようにはなっていた。しかし、難しい固有名詞などになると、まだまだ知識不足は否めず、今でもこうしてトゥルクに時々補足してもらうことがある。
「じゃあ、私はラタトゥイユにしようかな」
「じゃあ僕はゴロゴロ肉のガーリックライス」
「あ、それいいな」
「ソラ、ちょっと食べる?」
「うん。トゥルクにもラタトゥイユ分けてあげるね」
「僕はいいよ、ナス苦手だし」
「もうトゥルク、好き嫌いしてたら健康にも悪いし、大きくなれないんだから」
えー、とトゥルクは嫌そうな顔をする。少年と少女の向かいに座ったオーレンは咳払いをすると、
「お二人さん、随分と仲がよろしいことで。もしかしなくても、おじさん邪魔?」
「オーレンさん誤解だってば! ソラも何か言って!」
「えー、私はいいよ。そうやって慌ててるトゥルク見てるの面白いもん」
「ソラ!」
ソラに適当に受け流されたトゥルクは思わず声を上げた。こちらを見るオーレンのにやにやとした視線が痛い。
「トゥルクー、ちょっと会わねえ間に随分と尻に敷かれてんなあ。っていうか、ソラちゃんってこんな感じだったっけか? 何かもっと大人しそうな子だった印象があるんだが」
「オーレンさん、ソラはこれが本性なんだよ……前のときはまだ猫被ってたというか……」
何か言った、とソラはトゥルクとオーレンの顔を見比べながら、にっこりと笑みを浮かべる。可愛らしいはずのその顔が何故か恐ろしいものに見えて、「何でもないです……」トゥルクは視線を泳がせた。オーレンは肩をすくめると、頑張れよ、とうんうん頷いていた。
それじゃあそろそろ飯頼むか、とオーレンはアイコンタクトで店員を呼び寄せた。
「ラタトゥイユとガーリックライス、ポークソテーと鶏肉の生ハム、あとビール」
オーレンさん、とソラが再び笑顔でオーレンを威圧する。オーレンはソラを軽く拝むと、
「ソラちゃん、一杯、一杯だけだから。トゥルクもソラちゃんも食後にデザート頼んでいいから、一杯だけ見逃してくれ」
仕方ないですね、とソラは肌が露わになっている細い腰に手を当てると、
「金鳥亭特製スペシャルプリンパフェ。約束ですからね」
デザートをちらつかせてソラを陥落させると、オーレンは注文にビールと金鳥亭特製スペシャルプリンパフェ二つを追加した。注文を確認し、男性の店員がトゥルクたちのテーブルを去っていくと、それで、とオーレンは本題を切り出した。
「トゥルク、お前に教えておきたい話がある」
何、とトゥルクはオーレンの真面目な顔を見て居住まいを正した。横に座るソラもつられて背筋を伸ばして座り直す。
「このシャトンからしばらく西に行ったところにリーウェっていう村がある。リーウェの近くにあるナコル浜の沖合で何やら廃墟のようなものが見つかったらしい」
「廃墟? 海に?」
トゥルクは聞いたこともない話にテーブルから身を乗り出した。テーブルが揺れ、グラスに入った水がちゃぷりと音を立てた。ああ、とオーレンは逞しい両腕を胸の前で組むと、
「眉唾物の話なんだがな。あの辺りで素潜り漁をしていたリーウェの漁師が見たんだと。見たこともないような建物が、それも明らかに今の時代のものじゃなさそうなものが海の底にたくさん見えたって話だ。けど、長時間海の底に潜ることなんて今の技術じゃまず無理だし、真偽のほどを確かめるのは難しいだろうな」
見たこともないような、今の時代ではありえない建物群。トゥルクとソラは顔を見合わせた。それはもしかしたら、トゥルクが探している七賢人の遺産やソラが両親と再会するための手段に繋がる何かかもしれなかった。
「オーレンさん。その話、詳しく教えてもらえませんか?」
ソラはオーレンへと頭を下げる。その黒瞳は真摯な光を湛えていて、オーレンはやれやれとかぶりを振った。
「トゥルク。ソラちゃん。こっから先は冗談みてえな荒唐無稽な話だ。それでもいいか?」
構わない、とトゥルクとソラは頷いた。「仕方ねえな……」オーレンは彼が聞いたという話を語り始めた。
午後六時を回り、夕飯や宿泊の客が食堂に増え始めていた。ざわざわとした喧騒の中を肉が焼ける匂いやトマトのフレッシュな香りが混ざり合い、人々の食欲を刺激するようにたゆたっていた。