重なった視界
車で田舎の道を走っていると、夕暮れが近く、川沿いの景色が鮮やかでつい車を止めてしまった。
ハザードを点け、エンジンを切って車を降り、車体に背を向けてファインダーを覗く。山と川、そして空。なんてことない自然の風景だけど、今にも沈んでいこうとする太陽は赤に近づいてゆき、背後からは夜の帳が迫ってくる。そんなグラデーションを浴びた雲は、混ぜた絵の具のように、それでいて色を濁すことなく僕の目を楽しませてくれる。
シャッターを半押しすると、どうも空に対してピントをつかめなかったようで、すごくピントのボケた像が目に飛び込んでくる。でも、その柔らかな色彩も悪くないと思った。
「カシャッ」
ピントが遠くへ戻っていく途中、まだぼやけた世界の中でシャッターが切れた。
「・・・ん?」
そういう状態でシャッターが切れるということをあまり経験したことがなく、違和感を覚える。そしてすぐに違和感はそれだけではないことに気づいた。
音が変わった。
背後の車からの反響音が感じられない。聞こえるのは、ただ前方からの川の流れる音だけ。風の音すらさっきまでなかっただろうか。あまりにも静かだ。
ファインダー内にピントの合った景色が見える。大まかに川の形や山の稜線は似てはいるものの、違う。
体が、五感が異常を知らせてくる。なのにまるで理解が追いついていない。そんな僕を嘲笑うかのように、やたらと乾いた風が頬をなでて去っていった。
期待しないまま振り返るが、車がない。というか道路もない。いや、かろうじて砂利道はある。砂利道の向こうにはただ広い草原。いや、こちら側にも山が見えたはずなのに、草原の向こうには夜闇が広がっている。
インターネットのオカルトなサイトなんかで読んだことがある。ふとした拍子に違う次元あるいは異界に飛ばされるような話。電車に乗っていると、存在しない駅に到着するみたいな。そんな事が頭をよぎるような静寂の世界。
流石にそんなこと本当にあるわけがないと、理性が訴えかけてくる。だから、理性が促すのはスマホの確認。しかし、無情にも電波強度は圏外を示している。 GPSはどうだろうと、マップアプリを開くも、地図自体は先程までいた地点を表示しているのに、現在地の点を囲う円は、今までに見たことのない大きさに膨らんでいた。
何もない場所に、ただ自分独り。ここが異界なのか異次元なのか、あるいは全くの異世界なのか。意外にも心は落ち着いている。
しかし、そんなこんなしている間に夜が来る。魔物だとか妖怪だとか言っている場合ではなく、シンプルに野生動物との出会いが怖い。
持っているのは、どこにも繋がらないスマホと、デジタル一眼レフだけ。今ならちょっとした小動物にも負けてしまうだろう。
「とりあえず、歩いてみるか」
声に出してみると、なんとなく心が落ち着いた。いや、声に出すことで自分を奮い立たせた。
一応、今の地点に戻ってこれるようにと、周りの写真を押さえて、地面に足で印を書いておいた。
先ほどまで車で走っていた方角へ、引き返すように足を進める。歩き出しの方向が同じなだけで、道の形も多分違う。
焦っても仕方がないし、ゆっくりと足を進める。そんな自分の歩みに合わせるようにして、夜の帳が隣を歩く。
この時間はやはり好きだ。ずっと空が色を変えていく。そのグラデーションは、名前がついている色の数をはるかに超える豊かな色彩。
現実逃避をしようというわけではないけれど、そんな景色を楽しみながら歩いていると、すっかりと夜闇に包まれてしまった。どんどん暗くなり、足元も見えなくなるのではないかと怖くなってきたから、少し大きな木を見つけて座り込む。
火でも起こせるならいいけど、とにかく暗い。今日は新月だったのだろうか。食べるものもない。
目をつぶる。けれど、少しの風の音の合間に、何かのうめき声のような低い音が混じっている。それが怖くて目を開けてしまう。
車はどうなっただろうか。明日の仕事までに元の場所に戻れるのだろうか。眠りに落ちたら、自宅のベッドで目を覚ませないだろうか。そんなふうに頭がぐるぐるしているうちに、いつの間にか意識は遠く、深く、沈んでいった。