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第六話

 もしそうなら……これからどうしたら良いのだろう。

 いや。もしそうなら……

 それが何だって言うんだ。

 指の関節が白くなる程携帯を握りしめながら、瑠奈は呆然と目の前に立つ飯村と、彼女の後ろに待機している店員達を見つめる。

 浅く息をしながら、前のめりに倒れそうになるのを堪え、何とか口を開いた。

「えっと、あの……お、お騒がせして……申し訳ありませんでした……」

 そう言って、瑠奈はフラフラと店の外に歩み出た。

 午後の日差しが、まだ熱い。

 自分の自転車に辿り着いたと思ったら、今度は店の中に放置してきたショッピングカートの事を思い出した。しまった。置いた間々では、店の人の迷惑になる。それに、夕飯の買い出しもしなくてはならない。

 瑠奈は動悸を落ち着かせようとしながら、もう一度店内に足を踏み入れた。

 乳製品売り場でカートを見つけ、レジまで移動する際、最初に瑠奈に声をかけてくれた店員にバッタリと会う。

「あっ……!」

 店員はそれだけ言うと、バツが悪そうな顔で会釈をして来た。

 きっと、飯村との話を聞いて、思ったのだろう。瑠奈が、いもしない娘を探し回る、おかしな女だと。

 瑠奈は最短のレジの列に並び、買った物をエコバッグに入れると、そそくさと店を出た。袋を自転車のカゴに入れ、鍵を開け、シートに跨る。そして、やっとの思いで、出発する。

 団地に帰ると、先ずは食料品を冷蔵庫やパントリーに仕舞い、それから玄関に舞い戻って今度は突っ掛けを履いた。

 長女を、迎えに行くのだ。一階の、杉沢さんのお部屋にいる筈だ。

 実際訊いた事はないが、杉沢さん——いつも「涼子でいいわよ〜」と彼女は言う——は、瑠奈より幾つか年上に見える女性だ。一人娘の(まい)ちゃんが、アンナと同じ保育園に通っている。

 この団地にいる、瑠奈のたった一人のママ友だ。

 今日は、週末読む本を図書館に借りに行くのに、アンナも一緒に連れて行ってくれたのだ。大体の金曜日は、そうしてくれている。

 杉沢家の扉の前に辿り着くと、瑠奈はピンポンを押す。その時やっと、自分が涼子からのメッセージに返信していない事に気が付く。自分に呆れて、瑠奈は思わず溜息を吐いてしまう。

「はいはーい!」

 中から涼子の低めの声が聞こえる。それと同時に、小さい女の子達のキャッキャとした声も玄関の向こうに響く。

 ガチャリと音が鳴り、重い扉が大きく開くと、涼子が眩しい笑みで瑠奈を迎える。

「いらっしゃーい! 入って、入って! 今日も暑いですねー!」

 何処かで聞いた様な台詞が、彼女の口から出て来る。

 でもそれは、不思議と気持ちが籠っている様にも聞こえた。

 瑠奈は背後でドアを閉め、サンダルを脱いで揃えると、自分の家と全く同じ間取りの部屋に上がる。

 いつも思うが、涼子の家は……散らかっている。

「ごめんなさいねー、相変わらず散らかってて」

 涼子は瑠奈が考えていた事を見透かしたのか、そう言いながら瑠奈に麦茶のグラスを手渡してくれる。

「あ、いえ、その……今日も、杏奈をありがとうございました。いつも助かります」

 釣られて一口麦茶を飲むと、瑠奈は慌てて付け足す。

「あと、すみません、メッセージに返信してなくて。ちょっと、色々あって……」

 気付かない内に、瑠奈は杉沢家の居間のテーブルに座っていた。隣に座るアンナはそこで舞とお絵描きをしていた様だ。

 二人は今、クーピーをピンクの箱に戻している。

「いいのよー、別にー。舞も、今日は楽しかったねー」

 涼子は瑠奈の向かいに座り、隣にいる自分の娘に問いかける。

「うん!」

 舞はそれに明るく答えながら、後片付けを終える。アンナはアンナで、貰い物のレッスンバッグに紙を数枚押し込んでいる。

「あ、いけない! 舞、こないだばぁばにもらったクッキー、杏奈ちゃんのお母さんにもお渡しするから、カンカン持って来て」

「はぁい!」

「え? なになに〜?」

 そう言いながら、舞とアンナは台所の方へトタトタと駆けて行く。

 その隙に、涼子は瑠奈の方へと身を乗り出す。

「瑠奈さん。私、聞いちゃったんですけど」

「え?」

 更にワントーン落とした声で話し掛けられ、瑠奈はドキッとする。

「ご近所さんが噂してたんですけど。最近、瑠奈さん家でいつもより怒鳴り声とか、お皿が割れる音とかが聞こえる、って」

 身体中からブワッと嫌な汗が出る。ここでも、それについて話さないといけないのか。

「それは私も前から聞いてたんですけど、でも最近は旦那さんの調子が変だって」

 やはり他人にも分かる程、夫の身体は影響されているのか。いや、思ってみれば、それもそうだ。

 あぁ、もしかしたら涼子は、私が夫を殺そうとしている事にも気付いているのかもしれない。

 もしそうだったら、どうしよう。

 瑠奈は、一瞬の隙に考えた。

 そもそも、誰かに何かを言われる筋合いがあるのか?

 同じ団地に住んでいる人に、とやかく言われなくてはいけないのか。

 そして、自分の夫を殺すより……関係無い、赤の他人がこの世から消えた方が、良いのではないか。

 もし、次に誰かを――

「瑠奈さんは、大丈夫なんですか?」

「へ?」

 そう考えていたから、涼子からの質問が頭に入って来なかった。 

「だから、瑠奈さん自身は、大丈夫なんですか? DVとか、体調とか」

「は……?」

 涼子の言っている意味が、理解できない。

 でも、その困惑はアンナと舞がケタケタ笑いながら居間に戻って来た際に、掻き消されてしまった。

「もし困ったことがあったりしたら、私、話聞きますよ」

 涼子はそれだけ言うと、舞からクッキーの缶を受け取った。

 そしてそれを開けると……

「あーっ?! ちょっと、舞! アンタもしかして、お母さんが見てない時にクッキー食べてるでしょ?!」

「へへへへへ!」

 舞はそう笑うと、アンナと向き合って更に笑う。

「もー……どうすんのよぉ……あぁ、すみません。あの、気持ちだけでも」

 涼子はそう言うと、小さいクッキーの袋を缶から四つ取り出した。そして側にあったジッパーバッグに手を伸ばし、その中にお菓子を詰めて行く。

「この袋、確かキレイですから!」

 涼子は、安心させるかの様に宣言しながら、またカンカンを閉める。

 目の前に置かれたそのクッキーの袋詰めを見下ろすと、瑠奈は何故か吹き出したい気分になった。

 だから瑠奈は、両手で顔を覆い、肩を震わせながら素直に笑う。

 たったの数秒。でも、それは彼女にとって、とても長く感じられた。

 やっと落ち着くと、瑠奈は顔を隠していた手を離し、お菓子の袋を手に取った。そして、大きく息を吸う。

「ありがとうございます。嬉しいです。頂きます」

「瑠奈さん……?」

 涼子の心配した声には気付かぬフリをして、瑠奈はアンナに言う。

「ほら、お家帰るから。舞ちゃんと杉沢さんにご挨拶して」

「まいちゃん、バイバイ! すぎさわさん、ありがとうございました!」

「アンナちゃん、またね〜!」

「またいつでもね」

 舞と涼子は、そう言って瑠奈達を送り出してくれた。


* ~ * ~ *

 

 夏の日が傾く中、瑠奈と彼女の娘は二人一緒に団地の階段を上る。そして、家の扉の前まで、ゆっくりと歩く。

「今日、楽しかった?」

 掠れる声を絞り出しながら、瑠奈はアンナに訊いた。

「うん! たのしかった! ほん、としょかんでかりたの! おかあさん、みてね!」

「うん! アンナが借りて来た本見せて貰えるの、楽しみ!」

 あぁ、ダメだ。今日の夕日を見ていると、やけに泣きたくなる。

 その気持ちを抑えながら、瑠奈は娘の小さな手をギュッと握りしめた。


これにて完結です。

お読み頂き、ありがとうございます。

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