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第五話

 瑠奈と卓は大学時代からの知り合いだったが、実際に付き合い始めたのは卒業後、何年も経ってからだった。

 一年上の彼とはサークルの同窓会で再開し、お互い職場も近かった為、その後ちょくちょく会う様になった。

 学生の頃はそれ程親しくはなかったが、社会人になってから話したら、一緒に時間を過ごすのがとても楽しかった。

 気付いたら一緒に寝泊まりする様になっていて、利便性も考えてお互いを家族にも紹介し、卓のアパートで同棲を始めた。

 彼の三十歳の誕生日が近くなった頃に婚約し、瑠奈が三十歳になった年の六月に結婚した。

 その日は、雨が降っていた。

 瑠奈の親しい友人達は既に結婚していたが、新卒で入った広告会社での仕事が好きだった瑠奈にとっては、丁度良いタイミングだったと思う。

 だから、結婚してから一年もしない内に長女を妊娠した時、仕事を辞める決断をするのは辛かった。

 キャリアはそこそこ積んでいたと思う。でも、好きだから出世できる訳ではない。

 やりたい企画を任せて貰える力を未だ付けていなかった瑠奈は、仕事に専念したいと言う卓と話し合って、自分は産休に入るのではなく、退職する事にした。

 実際願った妊娠ではあったので、それなりにアリだとは思った。そして、いずれ育児が落ち着いたら、パートや家でもできる仕事を探そうとすら考えていた。

 それでも、やはり夫だけの収入で生活するとなると、生活習慣も変えなくてはならかった。娘も産まれ、出費もそれなりに増えた。

 そして今度は、アンナが生まれてから半年もしない内に、卓が何年も勤めていた会社でリストラに遭い、転職せざるを得なくなった。

 幸い二ヶ月もしない内に新しい仕事は見つかり、移った会社も同じ職種だったのはありがたかったが、卓は自分がやりたい事や本当にやるべき事について色々と考える様になった。

 それでも、家計が苦しくなる前に社宅に移れたのは、運が良かったのかもしれない。

 団地に引っ越したのは、瑠奈達が住む街には珍しく、雪がハラハラと降る二月上旬の日だった。近所の人達が、微笑みながら話しかけてくれたのを今でも覚えている。

 卓の仕事や新しい住居での生活が一旦落ち着き、アンナが一歳頃に離乳した後は、瑠奈にももっと気持ちに余裕が出来るかと思った。

 でも、アンナの夜泣きは続き、その度寝かし付けるのは瑠奈の役目だった。次の朝出社する夫に、そんな事はさせられない。

 瑠奈が仕事をしていなかったので、金銭的に考えても、アンナはまだ保育園には入れない事に決めた。単に、家事をしながら瑠奈がアンナを看ていれば良いだけの事だった。

 そう考えていたから、瑠奈は気付かなかった。

 自分の時間が欲しいなんて贅沢は言えず、家事と育児を一日中し、外出する機会も無く、仕事の稼ぎもゼロ。

 正直、瑠奈は参っていたのだ。

 そんな中、まだ正月飾りも片付けていない頃、二人目の妊娠が発覚した。来ない生理が気がかりになり、妊娠検査薬を使用した。結果は、陽性だった。

 最初に溢れ出た感情は、戸惑いだった。そしてそれを夫に伝えた時、彼は言った。

『今のこんな状態で育てられないよ』

 瑠奈も確かに、そう思った。

『無理、だ』――

 産めない。産みたくない。だって、育てられない。

 だから願った――『産まれて来ないでくれ』

 瑠奈は、二人目の子がこの世に生まれて来ない事を願ったのだ。

 毎日、毎日。お腹に手を当て、自分の中で徐々に育って行く命が消え失せる様に念を送った。アンナの時はあんなに温かい気持ちで待ち焦がれた事を、今度は身体全体で拒絶した。

 検査の結果女の子だと分かったが、それでも瑠奈の気持ちは変わらなかった。

 朝起きた後。アンナの昼食を準備する間。夜寝る前。時間が経つにつれ、瑠奈の胸の奥底からは憎悪だけが溢れ出て来た。

 でもその感情は、お腹に宿った命に対してではなかった。

 こんな状況を齎した、自分の愚かさに対してだった。そして、そんな自分が共に人生を歩もうと選んだ、夫に対してだった。

 そうやって瑠奈が二人目の子の命を絶えさせようとして、数ヶ月。朝布団から起きると、下半身に違和感を覚えた。

 下着が、パジャマが、血でべっとりとしていた。

 黒に近い赤。

 ドロドロとした何かが自分の体内から流れ出ていた。

 それが、それまで自分の体内で育っていた娘だったと理解した時、吐き気がした。

 喜ぶべきだったのだろうか。だって、願っていた事が、叶ったのだ。毎日、それだけを望んでいたではないか。

 そうだった。それだから二人目の娘は産まれて来る事もなく、死んでしまったのだ。

 自分が、殺したのだ。

 そうではないか。

 そして、その次女の代わりに、長女のアンナに対してどこか過保護になり始めたのだ。


 それから三年。瑠奈は、気付いた事がある。

 彼女は……夫をも殺そうとしている、と。お腹の中の娘を殺した様に。実にゆっくりと、誰にも悟られない様に。

 毎日、毎日。顔を合わせる度に、念を送っている。彼の存在自体を消し去るかの様に、瑠奈は願っている。

『消えてくれ』

 そして、『償ってくれ』―― 

 彼女は、そう思っているのだ。そして償い方は、たった一つしかないのだ。

 性格が変わってしまった夫は、今は身体の精気すら変化させている様だった。

 食欲も余り無く、随分と体重も減った。中々寝付けず、睡眠も浅く、寝起きも悪い。毎日顔を合わせている瑠奈でも、彼がやつれて来ているのが分かる。

 そして時々、変な咳もしている。

 一人で呆然として、虚ろな目で瑠奈の方を見ながら、肩で息をしている事もある。

 最初は、瑠奈もそんなつもりはなかった。

 でも、夫婦仲が一変してから、二人目の事もあり、瑠奈はもう夫を前の様に見られなくなってしまった。

 そうだ。瑠奈は今、時折自分でも気付かない内に、夫をも死に追い遣ろうとしているのだ。


次の更新は明日(8月23日(金))の19時半となります。(最終話です。)


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