第一話
団地の階段をゆっくりと下りながら、高木瑠奈はご近所さん達が噂話をしているのを聴いていた。
瑠奈の話だ。
いや。正確に言うと、瑠奈達家族の話だ。
午後の買い出しに行く気も失せる程暑い、八月のとある午後――
もう何度目かの出来事に諦めの溜息を吐きながら、瑠奈は娘の小さな手をギュッと握りしめた。
聞こえて来る声からすると、話している人達は三人。恐らく、一軒挟んで隣の村田さん、一階下の倉林さん、そして東棟の山口さん辺りだろう。話の内容は、聞かなくても大凡見当は付く。
「……れに、先週は怒鳴り声が……」
「……も聞きましたよ、それ。確かその時はお皿……」
「……なさん、凄く痩せちゃって。可哀相に……」
「……れって絶対、奥さんの責任じゃ……」
「……っこでしょ? 確かあそこの……」
所々に聞こえる『旦那さん』『喧嘩』『娘さん』『不気味』。
話しているのは、瑠奈と瑠奈の夫がしょっちゅう夫婦喧嘩をしている事。最近その夫の体調が目に見えて優れない事。そして、瑠奈が娘に対して過保護すぎる事。そんな所だ。
話の内容が客観的事実なのかは、瑠奈自身が判断すべき事ではないのかもしれない。
ただ、その事について他人にどう言われ、どう思われているのかは、知って気持ちが良いモノではない。
そして彼女の夫は、恐らく団地の人達がそんな話をしている事すら知らないのだろう。
何故なら、自分が何か悪い事をしているのかもしれないと常に頭の隅で考えているのは、瑠奈だけなのだから。
幼い娘が階段を一段一段下りる度に、タンッ!タンッ!と気持ちが良い音がする。そして、娘と一緒に一階に近づくに連れ、聞こえる話声が段々と大きくなって来る。
普通外で人の噂話をするのなら、少しぐらいヒソヒソと話してもいいのではないかと思うのだが、どうやらこの人達はお互いが言う事に対して興味津々なのを丸出しにしたいらしい。
いずれにせよ、コンクリートの階段が瑠奈達の足音を響かせている筈なのに、下で話している人達は近寄る気配に関して全くお構い無しの様子だ。
瑠奈はこの暑さの中で三人の話し声を聴きながら、どんな顔をして階段を下り切れば良いのか考た。こんな事になるなら、せめて口紅くらい差しておけば良かった――と、彼女はそう思った。
ただ、自分の対応を考えれば考える程、自分と、そう考えなくてはならないこの状況に嫌気が差す。それに住居辺りでこんな話をされるのは、流石に堪ったモノじゃない。
「っ! あ、あらぁ、高木さん! こんにちは」
最後の決め手は勿論、瑠奈達が階段を下り切った時に鉢合う噤んだ口、泳ぐ目。そして、してはいけない話をしている所を見つかったから流れる汗。
いや、それは単に夏の午後だからこそ顳顬を伝う汗なのだろうか。
「こんにちは。今日も暑いですね!」
そう言いながら、瑠奈は階段の脇の駐輪場に停めて置いた自分の自転車の鍵を開ける。
そして、娘を後ろのシートに座らせ、ヘルメットを我慢して付けてもらう。
言った通り暑いが、近所のスーパーまで、そう遠くない。安全第一だ。
瑠奈が現れる前までは豪快に話をしていた隣人達は、彼女が自転車で出発する準備をしている間、押し黙っている。リーダー格の村田さんだけはただ一人、作り笑いを浮かべながら「ほんとに! そうですね」なんて言っているが。
「では、失礼します!」
そう元気に言いながら、瑠奈はペコリと頭を下げる。余りの暑さからお団子に結った髪が、自分の頭のてっぺんでゆらゆらと揺れているのを感じる。
せめてヨレヨレではないカットソーを着て来ていれば良かった、と又もや後悔する。
だが、今は後悔するより先にやらなければならない事がある。金曜日の十六時十分前。早くしないと、夫の卓が仕事から帰って来るまでに夕飯の支度を済ませられない。
「よーし! じゃあ、出発するよー!」
後ろに座る娘にそう声を掛けると、瑠奈はペダルを踏む。
ゆっくりと自転車を漕ぎ始めると、瑠奈達は団地と隣人三人組を後にした。
* ~ * ~ *
瑠奈達家族がこの団地に引っ越して来たのは、数年前。年明けに急に空きが出たので、荷物を慌てて纏め、以前住んでいたアパートを引き払った。
夫が勤めている会社が管理するこの集合住宅。所謂「社宅」だ。
勿論、近所にある同じ広さと間取りのアパートに比べると、毎月の家賃がうんと安くてとても助かっている。地下鉄の駅も歩いて数分。夫の会社へもたった一度の乗換で行けるので、立地条件は抜群だ。
ただ、それ以外の問題が無くは無い、と言うだけだ。
今夜の献立を考える事にスイッチを切り換え、瑠奈は大きな十字路を自転車で一度渡る。次の信号を待ちながら、後ろに座る娘のカンナに今夜何を食べたいか訊く。
通り行く車の騒音を暑苦しく感じながらも十字路を二度目に渡り、瑠奈は出来るだけ日陰を通る。
そして数分後。近所のスーパーに到着すると、瑠奈は自転車を停め、娘をチャイルドシートから下した。
もうすぐ三歳になるカンナは、まだ余り喋らない。その代わり、いつも明るく、元気を絶やさない子だ。今日もただただニッパリと微笑んでいる。まるで暑さも何も気にしていない様だ。
瑠奈はカンナの手を取り、クーラーが利いたスーパーに入る。シッピングカートに買い物かごを一つ乗せ、カンナと並んでゆっくりと店内を歩き始める。
最近はカンナも色々な食材に興味を持ち始めたので、買い物も楽しい……と同時に、一苦労だ。何もかも見たい、触りたい娘を連れて買い物をするのは、必要以上に時間がかかってしまう。
それでも、とりあえず最初は青果コーナーだ。見切り品の棚に置かれた野菜や果物で、週末が終わるまでに使いきれそうな物を選んでかごに入れる。
次は納豆、豆腐、そして卵。前回使ったプラスチックのケースに卵を詰め、輪ゴムで止める。
「玉子焼き作ろっか?」とカンナに言うと、彼女は小さな歯を見せながら「うん!」と答える。
続いてはお惣菜コーナーで出来合いの品を探すが、まだ時間が早すぎる為、割引シールが付いていない。仕方無く揚げ物の容器を一つだけ取り、かごに足す。
瑠奈はカンナを連れて、今度はストックが無くなりかけている乾物を探す。シリアル、カレールー、カップスープの素。忙しくて料理に手が回らない時は重宝するので、忘れてはいけない。
それから卓が好きなヨーグルト、娘の為の牛乳、瑠奈が最近飲んでいる豆乳。全て一つずつかごに入れながら、自転車カゴに入る量と重さを検討する。
まぁ、頑張れば大丈夫だろう。
カンナの好きな乳酸菌飲料に手を伸ばし、どっちの色がいいか彼女に訊く。
「うーん」
考える素振りをしながら、彼女は両方の手の人差し指を宙に上げ、ブンブン振る。
「あか!」
弾む声でそう答え、カンナは「へヘッ」と笑う。
その表情に苦笑しながら、瑠奈は選ばれなかった方のパッケージを冷蔵ショーケースに戻す。
さて、残るは甘い物コーナーだ。せっかくカンナも来ているので、今夜のデザートは彼女に選んで貰おう。
せめて金曜の夜くらい、幸せな家庭を演じたいではないか。
そう思いながら、瑠奈は横に居るカンナの方を向く。
「じゃあ、最後は……」
そう話し始めた瑠奈だったが、振り向いた先に娘は立っていなかった。
「あれ? カンナ?」
不思議に思い反対側を向くが、そこにも彼女はいない。
慌ててショッピングカートを動かし、その後ろに娘が隠れていないかを確認する。
そこにも、いない。
ドクリと、一瞬心臓が嫌な音を立てる。
「ちょ……え……?」
ショーケースの角を曲がった所にいるのかもしれないと思い、瑠奈は大股で移動する。
いない。
先にデザートでも見に行ったのか。それともさっきのお惣菜コーナーに戻ったのか。
乳製品辺りから動かない方が良いのか迷いながら、瑠奈はまるで見えない鎖に繋がっているかの様に、本の数歩ずついくつもの方向へ躍り出て見る。
「カンナ? カンナ!」
ここにもいない。あそこにもいない。
あんな子供の脚で、急にどこまで行ったのか。
「カンナ! ねぇ、カンナ?!」
周りの客達が瑠奈の方をチラチラと見始めている。彼女は口をパクパクさせ、説明するべきか悩む。
いや。速く動けば、直ぐに見つかる筈だ。
「カンナ?! カンナ!!」
頭に血が昇って来る。両手の指先が小刻みに震え出す。
息が、できない。
カンナが――
娘が、目の前から消えて、いなくなってしまったのだ。
次の更新は明日(8月20日(火))の19時半となります。