6 Sarah Qinglan
ダイニングテーブルの上で着信を告げているセルフォン。
画面に表示されたSarah Qinglanの文字を見て、若くネット情報に接することも多い相手からの着信に、落ち着きを取り戻したばかりの心臓が再びどきりとする。躊躇いつつ応答を決めたウィリアムは、スピーカーをオンにすると息子を抱いたまま近くの椅子に腰かけた。
『兄さん、お忙しいのにすみません。お時間大丈夫ですか? あっ、ライライ、そこにいるの? 元気にしてるかな? ライが本当に恋しい。ダダ達がアップしてくれる写真を日に何度も見てるんだよ。今度会えたら、たくさんハグをさせてね』
ぷくぷくとした指を口に入れ、セルに近い場所でくぐもった声を発する我が子。そのあどけなさに通話相手の顔が綻んだのが分かる。
「私は問題ないが、お前こそこんな時間に珍しい。休校日ではないだろう?」
ウィリアムはベビー服に垂れた滴と涎まみれであろう口元を拭きながら、何気ない風を装って問いかけた。
『ええ、元々ランチのために空けている時間帯なのですが、午前中のクラスが教員都合で急きょ休講になったので今日は余裕があって。用事を済ませて早めのランチを食べて……そう、普段はカフェテリアで食べることが多いんですけど、今日はフードトラックで何か食べてみようと思って、和食のトラックでオニギリセットを注文したんです。そうしたら、揚げたてのチキンがとってもおいしくて! 演奏会で日本に行った時のことを思い出しました……ああ、長々とすみません、ええと、そうしたら昼時になったので、兄さんも一休みしている頃かなと思いお電話したんです。ここからは手短に話しますね。こんな時間に連絡をしたのは、出来る限り早く伝えた方がいいと思ったからなのですが……』
普段は淑やかなタイプで同世代の中でも取り分け落ち着いているのに、自分に対しては酷く饒舌になる。幼い頃から変わらぬ癖を、仕方がないことだと呆れつつ微笑ましく感じていると、急に相手が改まった。
何を告げるつもりでいるのか……ずり落ちた息子の体勢を立て直し、ミルクで膨らんだ腹を撫で擦って緊張を誤魔化す。
『実は、論文提出で夏期講座一つ分の単位を貰える制度があるんです。それなりの物を書かないと認められないそうなんですけど……それで、先ほど申し込みをして、乳児と音楽をテーマに論文を書くことに決めました。ただ、夏季休暇中はパートタイム先の保育施設も規模を縮小して運営されるので学生は仕事がなくて、観察対象としてライアンが必要なんです。重ねてのお願いで煩わしく思われるかもしれませんが、休暇中、そちらにお邪魔させていただけないでしょうか』
今度こそ例の動画について触れられるのではないかという嫌な予感が外れて安堵しつつ、我が家へ滞在する格好の理由を見つけてきたことに苦笑した。タスクに追われトラブルを思い煩う日々に忘れかけていたが、数週間後には長い夏季休暇が始まる筈だ。
『泊めていただくスペースがないのなら、兄さんのアパートメント近くにある大学の提携施設に安く宿泊出来るので、そこから通います。食事も自分で用意して、ご迷惑は最小限に抑えますから』
幼い頃から真面目な性分だった。わざわざ特殊な方法で単位を取らずとも、余裕をもって授業を組んでいるに違いない。もう何を言っても来る気でいるのだろう……ここまで来たら抗うだけ無駄だと感じた。
『兄さんに何か良くないことが起きる気がして、近頃ずっと不安なんです。私の嫌な予感は当たるので……』
縁起でも無いことを言ってくれる……眉を顰めたウィリアムは乾いた笑いを浮かべた。同じ姿勢に飽きたのか、もぞもぞと動き始めた息子を抱いて立ち上がり、あやしながら会話を続ける。
「分かった。いや、OKという意味じゃない。私一人で決められることではないから、レイの意思を確認して折り返し連絡する。ちなみにいつ寮を出る予定なんだ。こちらの都合もあるから__」
「あーうぅう!」
通話を終えたウィリアムは困ったように笑って、上機嫌な息子の頭に頬ずりをした。身内の、それも懇意にしている人間の要望を夫が断ることはまずないので、既に了承したも同然である。突き放す力も衰えた今、気抜けしたところにあれこれと捲し立てられ、折れてしまった。
平気な姿を見せて不安を除いてやれば、一、二週間で満足して親元へ移るだろう。離れて暮らす歳若い親戚との触れ合いは、息子に良い刺激を与え、心理的発達や人格形成に好影響を及ぼす筈だ。ウィリアムはポジティブに捉えることにした。
「ライは嬉しそうだな。セーラとは生まれてすぐに一度会ったきりだから、たくさん遊んでもらえるって喜んでいるのかな」
夫がこれを機に自分達を主寝室へ呼び戻そうとすることは想像に難くなかった。しかしウィリアムは、殆ど使われていない子供部屋にベッドを用意してゲストルーム代わりにするつもりでいる。
ゲスト用の宿泊グッズは一揃え用意があるが、長期の滞在となると新たに必要な物があるだろうか……思案するウィリアムは、我が子に肩を食まれつつリビングへと戻った。




