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4 Raymond Liu


「やぁウィル、オーブンからいい匂いが(ただよ)っていますね」

 夜。コンロの前に立つウィリアムに、帰宅したその足でキッチンにやって来た夫、レイモンドが声をかけた。ソース作りの手を止めたウィリアムは、コンロのスイッチを切ると背後の夫に向き直り、軽いキスで一日の労をねぎらう。

 甘く端正な顔立ちに、同じアジア系ながら六フィート二インチある長身。老舗高級テーラーのカタログから抜け出してきたような男は、博識ながら倦怠期という言葉は知らないと見えて、出会って五年が経つ今も配偶者を愛することに熱心だった。

「五月に入ってマザーズデイの方が近くなってしまいましたが、イースター気分でラム肉のローストを。チョップを数本買うかラックにするかで悩んだのですけど、張り切ってラックにしたので思う存分食べてくださいね。サイドディッシュはサーモンマリネ、ショートパスタのサラダと芽キャベツのソテー。手作りのパンとワインの用意もあります」

「随分と豪勢ですね。楽しみだ」

 今宵のメニューを発表するウィリアムの左右に分かれた前髪の中央、白い額に唇が寄せられる。式の当日、ウエディングドレス姿の花嫁と対面した花婿のような微笑が眩しい。一時疲労を忘れたウィリアムは、早くも手間暇をかけた甲斐があったと感じた。


 秘書から良くない知らせを受けたウィリアムがまず夫にしたことは、トラブルの報告や相談ではなく『今日は時間に余裕があるので夕食は自分が用意する』というメッセージの送信だった。

 (つつが)なく日々を過ごすことを望んだウィリアムは、自身の一大事を夫と共有することを忌避した。久し振りの本格的な料理は平穏を保っていることを家庭内に示すだけでなく、現実逃避の手段としても最適だった。

「ラム肉を購入したらミントソースが付いてきたのですが、マスタードソースも作ったので最後まで飽きずに楽しめると思います。あと十五分で出来上がりますから着替えてきてください」

「一日忙しかったでしょうに、手の込んだ夕食を本当にありがとうございます、ウィル」

「忙しいといっても貴方程じゃありません。今日はライも良い子でいてくれましたし……いつも私達の為にありがとう、レイ」

 見つめ合ってキスと抱擁を交わし、リビングの隅にあるベビーベッドを覗いた後に廊下へと消えた夫。微笑み見送ったウィリアムは、薄暗い目をして出来上がったソースをポットに移した。


「疲れた……」

 転寝(うたたね)した愛息に感謝しつつ、時間をかけて穏やかに楽しんだ夕食後。先にシャワーを浴びた夫が用意した乳白色のバスタブに浸かりながら、ウィリアムは消え入りそうな声で呟いた。

 久々のアルコールと溜めたばかりの湯で血色が良くなった顔を天に向け、静かに目を閉じる。じわじわと疲れが湯に溶け出していくのを感じたが、心は少しも休まらなかった。バスピローに預けた頭の中、秘書との通話内容が蘇る。


『お忙しい所申し訳ありません。至急お耳に入れておいた方が良いかと思いまして、ご連絡差し上げました。実は……情報システム部のホワイトから、SNSでリウ代表に似た人物の動画を見たと報告があったのです。個人的にインターネットを閲覧している際に、偶然に見掛けたそうなのですが__』


 極めてプライベートな動画が、不特定多数の人間に閲覧されているらしい。

 教会からパーキングへ戻り粗相の処理をしたウィリアムは、フラットにしたシートの上で息子を遊ばせつつ秘書から送られてきたURLを開いた。

『新たな性癖に目覚める1分』という、頭が痛くなるようなフレーズと共にSNSに貼り付けられた動画を再生する。

 映像には心当たりがあった。昨年秋口の自分が、医療スタッフや夫に見守られながら腹部に与えられる激痛に悶えている。

 東アジア系の若い男が出産シミュレートを体験し、苦痛に喘いでいるだけの一分少々の動画。そんなものに十万回以上もLikeボタンが押されていた。


『必死に抑えてる感じの喘ぎ声エロすぎる』

『ベッドの上でもこうなんだろうかって思ったけど、ここもベッドの上だった(笑)』

『あんまり映ってないけど顔がいいね。彼は俳優なのかな? 撮影のワンシーン?』

『誰か彼の名前を呼んでないかと思って音量を最大にしたけど聞き取れなかった。もっと長い動画が欲しい』

『検査着が邪魔なんだが』

『0:24のとこヤバすぎて一万回リピートした。こんなのもうゲイビデオだろ』


 悪趣味なコメントの数々。上から幾つか拾っただけで低俗さに眩暈(めまい)がした。

 実際に産むことは出来ないのだから、せめて疑似体験しておきたいという切実な親心。それをポルノとして消費されている現実を嘆き悲しむほど無垢でも打たれ弱くもなかった。また、(いきどお)る余裕も今はない。

 しかし、こうしている間にも世界中の人間に無防備な姿を曝しているという事実は、単純に不快で気味が悪かった。

 身元が割れていないのと、傍らで見守っていた夫の姿が映っていないのは、不幸中の幸いだったと思う。隠し撮りされている映像なので、自身の顔もそこまで鮮明には映っていない。

 子を望む男親が涙ぐましい努力をしているだけの映像であって、何一つ(やま)しいところはない。堂々としていれば良いのだという思いもあったが、家族や従業員を抱える身では取り合わない訳にいかなかった。


 秘書からの連絡を受けて知人弁護士に相談したところ、ネットトラブルに強い事務所を紹介され、直ちに対応を依頼した。すると入浴前に早くも簡易報告があり、幾つかの事実が判明する。

 事の発端は、ライアンの誕生を待つ間、ミーティングのために訪れた病院で勧められた陣痛の疑似体験。腹部に取り付けた電極による刺激で、陣痛に似た痛みを体験出来るというものだった。

 時間の都合で一人だけ受けることにしたのだが、その際の様子を人目を盗んで撮影した者がおり、何を思ったかひと月ほど前にネットの掲示板上にその動画を投稿したらしい。それが数日前、何かのきっかけで複数のSNSに転載され、人々の関心を集めているとのことだった。

 何という面倒事を起こしてくれたのだと、ウィリアムは苦々しい思いがした。閉鎖的な空間での出来事である。馬鹿げた真似をした犯人は、悲しいことに医療従事者に他ならない。非があるのは相手方とは言え、世話になった病院に責任を追及することは楽しい行為ではなかった。

 その上、病院がある都市は州内とはいえ車で半日かかる場所にある。弁護士に対応を任せるにしても、近場の方が何かと都合が良かっただろうにと、ウィリアムは乳白色の湯に顎まで体を沈めながら嘆息した。


 起きてしまったことは受け入れるしかない。落ち込んでいる暇もない……体を起こしたウィリアムは、湯を(すく)った両手を顔へ押し当てた。

 今日は一段と食欲がなく、ローストラムもパンも小量しか喉を通らなかった。普段通りに過ごそうと努めているつもりだが、味見で満腹になったという下手な嘘を、夫がどれだけ本気で信じただろうと気にかかる。

 夫には平穏な日々を過ごして欲しい。こうも下品で唾棄(だき)すべき事柄に巻き込むべきではないと考えた。弁護士事務所の連絡によると直ちに各所へ削除を依頼するとのことだったので、それで済むのであればこのまま沈黙して嵐が過ぎ去るのを待ちたかった。夫の理想とする人物は、惨めな姿を世に曝されて笑い(ぐさ)になるような、間抜けな事態には陥らない。

 微睡(まどろ)むことも出来ずに風呂を出て髪を乾かしていると、バスルームに持ち込んでいたセルフォンが不意に鳴り始めた。社の人間がかけてくるには遅い時間だが、弁護士からだろうかと手を伸ばす。表示されているのは大学の同期で、卒業後そのまま母校に就職した男の名だった。頻繁に連絡を取り合う仲ではないので、不審に思いつつ応答する。


『__という訳で、悪い話ではないと思うんだけど、頼めそうかな?』

「そうだな。前向きに検討させてもらうよ」

『それは有難い。明日改めて担当者から連絡を入れさせるよ。遅い時間に悪かった。いい夜を』

「ああ、いい夜を」

 慌ただしい一日の終わりに、ウィリアムのもとへ思わぬ仕事が舞い込んできた。

 卒業生や関係者が講師として招かれ、各々が在職している業界について在学生に紹介する恒例の特殊講義。その一コマを担当してもらえないかという打診の電話だった。昨年の同窓会で再会した際、密かに目星をつけていたと言う。

 講師料が支払われるのは当然のこと、直接の顧客とはならなくとも若者達への良い宣伝になる。その上、レセプションルームに設置予定のテーブルセットを購入するというオマケつきだった。問題はないのかと聞けば、事務室のウォーターサーバーも卒業生の勤め先のものだと言われ、そんなものなのかと思う。

 寸暇をさいて取り組んでいる資格取得のための独習が、先日の模擬テストで満点に達し落ち着いた今、丁度いいタイミングだった。多少の利益も嬉しいが、何より逃避先が生まれたことが有難いと感じていた。学生達が(くだん)の動画を見ていたらという不安に関しては、弁護士に相談してからでも良いだろうと考え、無駄に知らしめることはしなかった。


 湿気の残っていた髪はいつの間にかさらさらと乾いており、歯磨きなどを済ませてリビングへ向かう。寝かしつけに成功したらしい夫が、窓辺に設置しているハイタイプのベビーベッドに我が子を下ろすところだった。

「遅くなってすみません。貴方の優しさに甘えて寛いでしまいました」

「そのために用意したのですから謝る必要はありません。寛げたのなら良かった」

 間接照明が照らす柔らかで静かな室内。色違いのパジャマを着て、座り心地の良いハイバックソファに体を沈めた。夕食が絶品だったと優しい低声で改めて褒めそやされ、ウィリアムの頬に再び赤みが差す。

「近頃、何か困っていることや、助けが必要なことはありますか?」

 静かな語らいの後でいつものように気遣われ、ウィリアムはうぅんと微苦笑した。今日その問いを投げかけられるのは、些か具合が悪い。

「……ライアンが、ここ数日、寝ぐずりが酷くて……立ってあやす時に変な癖がついたのか、腰と右腿の付け根から臀部にかけてが痛むんです。今日は良い子だったので抱っこは少なかったけれど、運動量の多い一日だったので患部を酷使してしまって」

 体の不調を訴えることが、今のウィリアムに出来る最大限の甘えだった。夫は男性らしく形の良い眉を顰めて、右肩に回していた手を細腰に添える。

「それは大変だ……少し、マッサージをしましょうか」


「レイ、私、妙な意味で言った訳ではないのですけど……」

 渋みの強いモスグリーンのソファに悠然と笑みを浮かべて座る夫。その膝上に対面で腰を下ろしたウィリアムが、不服と羞恥が入り交じった顔をして抗議する。色素の薄い瞳は薄らと潤み、その語勢は弱弱しい。並んでいては患部に手が届かないと言う夫に言われるがまま跨ったものの、誤解されていてはと思うと決まりが悪かった。

「美しく不敵な貴方が、こと性愛に関しては繊細で大胆さを失うことは重々承知していますよ」

 愛しくて堪らないといった様子で目を細めた夫が囁く。理知的な顔をロマンティックに近づけられたウィリアムは、両肩に置いていた手を首に回し、恋愛ドラマの主人公にでもなったような気分でキスをした。

 シルクの隙間に差し入れた手で直に細腰を掴んだ夫は、指先を強く患部に押し込み、こんな体勢では土台無理だと思っていたマッサージを器用に進めていく。

 適度な刺激を心地良く享受していたウィリアムだったが、腰から臀部、そして腿と念入りに揉み込まれていくうちに、愛されることを忘れかけていた体が次第に官能を拾うようになっていった。


「リアム、このまま続けても……?」

 主にベッドの上で用いられる特別な愛称。首に抱き付いていたため表情は見えていなくとも、息遣いや震えで快感を(さと)られたらしい。背筋がぞくりとするほど甘い声で囁かれた。

「今日は準備をしていません……それに、ライがいるから……」

「大丈夫、貴方の嫌がることはしません。ライは良い子で寝ているし、これだけ離れていれば平気でしょう。リビングが広いアパートメントを選んで正解でしたね」

「もう……」

 意思とは無関係に漏れ出でる鼻にかかった自身の声。電気刺激に苦しむ声とは少しも似通っていないではないかと、ウィリアムはSNSのコメントを嘲った。

 パジャマの中、上半身を這う手に多くを期待してしまう。浮いたあばらの感触に夫の表情が曇ったのを見逃さなかったウィリアムは、先程よりも濃厚な口付けを仕掛けて言葉を封じた。


 目を覚ますと、主寝室の広いベッドに一人だった。枕元に置かれていたセルフォンで時間を確認すると、明け方の六時が近い。

 夫の意のままに一人欲を解放させられ、眠りに落ちてしまったらしい。

 初めて息子と離れて夜を過ごし、人並みに熟睡した効果は覿面(てきめん)で、頭も体も驚くほど軽くなっていた。痛みがあった部位には丁寧に湿布薬が貼られ、ナイトテーブルにはペットボトルの用意がある。

 見事に寝かしつけられてしまった……

 ミネラルウォーターで喉を潤したウィリアムは、夫の気遣いに感謝すると同時に、自身の至らなさに小さく肩を落とした。


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