独身男の平日の朝
俺は朝は食べない。仕事前の朝に食欲がそもそもわかないから。
思い返せば、基本的にもう中学生の頃ぐらいから食べていないのかもしれない。
と、ずっと思っていたのだが、彼女が隣に越してきてからは朝に少し食欲が湧くようになった気がしなくもない。
だからと言って、朝に何かを食べるかと言われれば面倒くさいし別に今までどおり食べはしないのだが、今日もまた...。
いい匂いがしてくる。
味噌汁。そして焼いた魚の匂い。満腹中枢を刺激する匂い。
おそらく西野の家からのものだろう。間違いなく隣のおっさんではないはずだ。
そして彼女のことだ。毎日しっかりと朝ご飯も食べているのだろう。毎日いい匂いがベランダから俺の部屋まで漂ってくるということはそういうこと。
何だろう。想像でしかないけれども、白米、味噌汁、焼き魚、卵焼き、煮びたし、漬物、海苔的な、日本人の理想を体現するような完璧な朝ご飯?
とりあえず、別に彼女の朝ご飯の匂いがどうこうは全く関係はないが、俺の最近の朝の日課はベランダを開けることから始まるようになった。
区切りがあるからもちろん隣は見えないけれど、おそらく向こうも朝の空気を取り入れるためとかそういう理由でベランダが開いていたりするのだろうか。だからこの匂いがここまでしてきているはずだ。
そして、よくトントントンと包丁で何かを切っている心地のいい音も聞こえてくる。
懐かしい音。小さい頃に台所から聞こえてくるこの音で目が覚めることが多かった記憶がある。
でも、本当におかしいぐらいに...完璧だと思う。
本当に。
そう。美人で、社交性があって、料理もできて家庭的。彼女はまさに世間一般で言う理想の嫁の最上位的存在なのではないだろうか...。そもそも一人暮らしでここまでマメなんだ。子供ができたりしても、絶対にいい親になることは間違いない。
だから、きっと、この音で起きて、彼女が作った完璧な朝ご飯を毎日食べて、出社する。そんな男が現れるのも時間の問題なのだろう...。
そもそも今、彼女にそういう相手がいないのがおかしいだけ。
そしてその相手は、彼女に見合うだけの完璧な男に違いない。
そう。少なくとも、俺ではない...。
俺では...。
まあ、それが俺でないことは当たり前ではあるし、別にそれがどうこうという話も俺には全く関係のない話ではあるが、いつか、隣から同棲する彼氏との朝食の楽し気な会話が朝から聞こえてくるようにもなったりするのだろうか...。
何故かまた、そんなことを俺はスーツに肩を通しながらぼんやりと考えてしまっていたりする。
やっぱり、最近の俺は色々とおかしくなっているのかもしれない。本当にどうでもいいことを色々と...。
今度はそんなことを考えながら、そろそろ出社するためにベランダのドアを閉める俺。
今日はいつもより早く出なければならないから、こんな意味のないことを考えながらボーっとする時間なんてそもそもがない。
って、あれ? 何だ。建付けが悪くなっているのか、ドアがガタガタと閉まらない?
おいおい、勘弁し「どうかした。何かすごい音が聞こえてきたけど」
「え?いや、ちょっとドアが、あ、閉まったわ」
良かった。何とか閉まった。
「大丈夫そ?」
「ああ、大丈夫、大丈夫。じゃあ行ってく...」
「へぇー、今日はもう仕事なんだ。早っ、ふふ、うん。いってらっしゃい」
「...」
「行ってきます...」