第八十七話 取引
胴体を袈裟斬りに裂かれながら、ローズポート伯は剣を振り上げる。
が、そこまでだった。
剣が振り下ろされるよりも早く伯爵は力尽き、そのまま崩れ落ちた。
伯爵は倒れてもなお、剣をしっかりと握りしめていた。
俺はうつぶせに倒れたその背に、金斧の刃を一発刺し入れてから伯爵を裏返した。
力の抜けたその体はぐったりと重く、うめき声一つ上げない。
そしてその死に顔は、殺されたというのに妙に満足げだ。
俺には理解のできないことだった。
本陣に目をやれば、乱戦の中に突入したホースヤード勢が、背後からローズポート勢の生き残りを皆殺しにかかっているところだった。
あちらの方でも戦いは終局に向かいつつある。
それでも、まだ戦いが続いているというのなら行かねばならない。
俺は疲れた体に鞭打って、よろめきながら本陣へと向かった。
*
ようやくの思いで本陣にたどり着いた頃には戦闘は終わっていた。
が、どこか奇妙な気配が漂っている。
勝利の後だというのに、先の会戦の後のような浮ついて弛緩した様子が見られない。
誰もかれもが落ち着かない様子であたりの様子を窺っている。
まあ、つい先程ある種の不意打ちを食らったばかりなのだから当然ともいえる。
伯爵が置き去りにして来たであろう歩兵部隊の位置だって分かっていないのだから、警戒はすべきだ。
それにしてもだ。
あまりにヒリつきすぎている。
なにより、彼らの関心が外に向いていない。
手近な奴を捕まえて、いったい何があったのか問いただそうとしたところ、騎士のダニエルがこちらに駆けて来た。
兜はあちこちがへこみ、マントはズタズタ。防具のいくつかは留め革がちぎれて外れかかっている。
戦場ではいつの殿下のすぐそばに控えているはずの彼がこうまでボロボロになるとは、よほど激しい戦いだったらしい。
「ジャック殿! 良いところに!
スティーブン殿下がお呼びだ。ついてきてくれ」
さては、さっきの一騎打ちの褒美がもらえるんだろうか?
それにしてはダニエルの雰囲気が妙だ。
俺は声を落として聞いてみた。
「何か不味い事でもありましたか?」
ダニエルも小声で答える。
「ここでは言えぬ。皆が動揺する」
余程か。
二人して黙って歩く。
殿下の天幕は、近衛騎士の生き残りによって厳重に守られていた。
といっても、その数は五十ばかりに過ぎない上、多くが大小の差こそあれどこかしらに手傷を負っている。
今回の勝利はかなりの薄氷の上にあったらしい。
天幕入口の垂れ幕が、人目をはばかるように小さく捲られた。
ダニエルと一緒に腰をかがめて中に入る。
最初に目に入ったのは、力なく横たわる殿下と、それに半ば覆いかぶさるようにしてその手を握りしめる姫様だった。
殿下の胸元は大きくはだけられており、師匠と、それから医者らしき男たちが手を真っ赤に染めて傷口を抑えている。
どうやらまだ生きてはいるらしい。
姫様が顔を上げた。
「ジャック!」
その声には平素の冷静さが全く欠けていた。
今にも泣きだしてしまいそうな様子だ。
「ステフが! 血が、止まらないの!
どうしよう……助けて……」
俺もこれまで少なくない数の負傷者を見てきている。
その経験を踏まえて、殿下が助かる見込みはなかった。
それは必死に傷を抑えている師匠の顔つきからも明らかだった。
「ねえ、ジャック! なにか……何かいい薬草はないかしら。
このままじゃステフが……!」
姫様に哀願されても、俺にはどうすることもできない。
魔法の斧も今は役に立たない。
俺には首を横に振ることしかできなかった。
「申し訳ありません」
姫様は今度こそ声を上げて泣き出してしまった。
その時、天幕の外で騒ぎが起こった。
「殿下は誰ともお会いにならぬ!」
「ええい、危急の要件だ! 道を空けんか!」
何やら押し合う気配の後に、入口の垂れ幕がさっと開かれた。
姿を現したのはホースヤード伯であった。
「フフン、やはり手傷を負っておったか」
姫様が顔を上げて叫んだ。
「出ていきなさい!」
応じて俺も手に斧を出す。
ホースヤード伯は両手を上げながら不敵に笑って言った。
「そう邪険な態度をとるものではありませんぞ、殿下。
スティーブン殿下の危機と聞いてこうして馳せ参じたのですから」
そう言いながら、伯爵懐からどこか見覚えのある小壺を取り出した。
「お、おいそりゃあ……!」
ホースヤード伯は驚く俺に目を向けてニヤリと笑って見せた。
「いかにも、これは魔女が作り出した魔法の膏薬よ」
「どこでそれを手に入れた」
「もっともな疑問だな。
実は以前に逐電したオクスレイ城の代官めがそれがしを頼ってきおってな。
この膏薬はそやつに保護を与えるのと引き換えに手に入れたのよ。
まあ、あ奴はこれの価値に気づいておらんようだったがの。
お主にこの右手を斬り落とされた折にも、この通り見事に繋げなおしたのだから効果は保証済みだ。
さて、この薬ならあるいは命にかかわる怪我をも治せるかと思い持参したのだが……」
それを聞いて姫様の眼の色が変わった。
「ならいますぐそれをよこしなさい!」
「無論お渡しいたしますとも、殿下。
その為にお持ちしたのですから。
しかしこの膏薬も大変貴重な品。
ただでお渡しするわけにはまいりません」
「もちろん褒美は思いのままよ!
なんだってしてあげる! だから……!」
ホースヤード伯はどういうわけか姫様から視線を外して、俺の方に向き直った。
そうして持ち出した条件はあまりに意外なものだった。
「ジャック、お主に命令する権利が欲しい。
一度でよい。どうだ?」
試すような視線が向けられている。
ふざけやがって。
「随分と安い報酬じゃねえか」
「リチャード卿を仕留めたそうではないか。
当世最強の騎士だ。命の重さに釣り合う価値はあろう」
なるほど?
「よし、わか――」
「待って!」
俺が答えようとしたところに姫様が割り込んできた。
「ダメよジャック!
報酬なら私達が払うわ。領地でも金でも、望みのままに――」
「お言葉ですが、殿下。
殿下と、そこの男とでは言葉の重みが違います」
「私は王女よ! ステフに次ぐ王継承者で、宮廷でも大きな権力を持つことになる身よ。
何が不足だっていうのよ! 私が女だから?」
「いいえ、違います殿下。性別など問題ではありません。
ただ、そこの男はどのような約束であれ必ず守る。
そこに、命と秤にかけるに足る重みが生じるのです。
策士の言葉にはそれがない。
殿下とて、それがしの言葉など重くは扱いますまい」
姫様がぐっと黙り込んだ。
「して、ジャックよ。どうする?」
「いいさ。なんだってやってやらあ。
俺の命なら一つや二つかけたっていい。
ただし、いくつか条件は付けさせてもらう」
「言ってみろ」
「まず、姫様や殿下に危害を及ぼすような命令はなしだ。
不利益が生じるようなのも当然ダメ。
直接でなくとも、間接的にそうなる可能性があるのもだ」
「フフン、危害を加えるような命令についてはもっともであるな、認めよう。
だが間接的な、とは曖昧に過ぎる。
世の中なにがどう影響するかはわからぬのだからな。
不利益、というのも同様だ。
さらに言えば、殿下との間に利害の対立が生じた時にこそこの権利は生きるのだ。
命をお救いするのだから多少の不利益は呑んでもらわねばならぬ。
よって後の二点については認められぬ」
姫様にではなく、俺に取引を持ち掛けてきた理由が見えて来た。
要するに、こいつは俺を縛ることによってある種の保証を得ようとしているのだ。
「理屈は分かる。
だが、俺は忠誠の誓いもたてている。
それに矛盾する命令は受けられねえ」
「なるほど。
しかしこれも殿下のお命を救うため。
ならば、ヴェロニカ殿下のお許しがあれば誓いを立てることも可能になるか?」
「……多分な」
「では殿下、お許しをいただけますかな?」
「か、代わりに領地をあげる。だから――」
姫様の言葉を、ホースヤード伯がぞっとするほど冷徹な声で遮った。
「それではダメなのだと先ほど申し上げましたぞ」
それから、咳ばらいを一つして少しばかり雰囲気を緩めてから続けた。
「交渉も結構ですが、殿下に残された時間はあまり多くないのでは?」
そう言って、スティーブン殿下へと視線を向ける。
そこでは、師匠と医師たちが必死の形相で止血の努力を続けていた。
殿下の顔色はいっそう白く、呼吸も弱々しくなっているような気がした。
姫様はその様子を見て途方に暮れたような顔になり、それから縋るような目でこちらを見る。
そんな姫様に、俺は力強く頷いて見せた。
「任せとけ」
姫様が、絞り出すような声で言う。
「……認めるわ」
「ではこれを」
ホースヤード伯が差し出した小壺を、姫様がひったくるように受け取った。
それから大急ぎで師匠にそれを渡して、医師たちと揃ってそれを殿下の傷に塗りたくる。
ホースヤード伯はしばらくその様子を満足気に見下ろしていたが、やがて俺に向き直って言った。
「ああそうだ、薬が効かず、殿下がお亡くなりになった場合には先の契約は無効としてよい。
この取引は誠実でなくてはならぬ」
それからまた殿下の方に向き直って一礼。
「それでは皆さま、薬が効くことを願っておりますぞ」
そうしてこちらに背を向けると、悠々と天幕から出て行った。




