私が竜人王太子様の番?お断りです!
「リリーシャ! そなたとの婚約は、たった今を以て破棄とする。我は……とうとう、運命の番を見付けてしまったのだ!!」
王宮で開催された、隣国の要人を招いた夜会の場にて。一体何の騒ぎかと他人事のように首を傾げていると、まさに渦中の男が一人……驚く人々を掻き分けるようにして、こちらへ向かって来るなり言った。
「そなた、名はなんという!?」
「……アダルベルト侯爵が第一女、エリーザベトと申します」
なんだか必死過ぎて怖い――そう戸惑いつつも非礼のないように、完璧な淑女の礼をとる。だが相手は不意に私の目の前に跪くと、自らの名も名乗らぬままで、すっと手を差し出した。
「とうとう見つけた……我が運命の『番』よ!!」
貴族ばかりが集うこの夜会の場でも、ひときわ上等な長上着に身を包んだ男の瞳は金色で、縦に切れ長の瞳孔を持っている。この瞳は、人間のものではない。そして翡翠色の長髪に、恐ろしいまでに冷たく整った容姿――彼はきっと、隣国を治める竜人の高位貴族なのだろう。
「恐れながら、お名前を伺っても?」
「この我を知らぬとは……まあ良い。我が名は、サタナエル」
その名を聞いた瞬間、私は再びスカートに両の手を添えて、深く腰を落とすことになった。だが差し出されたままの手を取ることだけはしなかった。――本能が警鐘を鳴らしていたからである。
「これは……ドラクラム王国の王太子殿下でございましたか。大変失礼いたしました」
「分かったのならば、喜べ。お前を、栄えある竜人族の王の子たる我が花嫁に迎えよう!」
「……花嫁、でございますか? あまりにも急なお話で、少々困惑しております」
「あまりにも突然の栄誉に、驚かせてしまったようだな。だが我はひと目見て、気付いたのだ。そなたこそが、我が運命の番であるのだと!」
「恐れながら、『番』とは……貴国の文化を不勉強で、大変申し訳ございません」
「そんなことも知らぬとは……まあ良い、不勉強を恥じる態度は殊勝であろう。特別に教えてやる。『番』とは、我ら竜人族にとってどうしようもなく本能で惹かれる運命の相手なのだ――」
うっとりと熱に浮かされたかのように、彼は語り続けた。どうやら彼等にとっての『番』とは、滅多に見つからないものなのだが、一度見付けてしまうとどうしても手に入れたいという欲求に抗えない存在なのだという。そしてその相手と番うことができたなら、その竜人はさらなる強大な力を得て、子々孫々まで繁栄するのだそうだ。
「――なるほど、お話は理解できました。とはいえ、公の場で晒し上げるかのように突然の婚約破棄を突き付けるとは……年頃のご令嬢に対し、ひどい話ではございませんか」
私は周囲に支えられながら失意のうちに会場を去る水色の髪のご令嬢の後ろ姿を見送って、眉をひそめた。
「なんだ、そのようなことに心を痛めるなど、我が番はなんと心優しいのだろうか! お前が心配する必要はない。リリーシャとの婚約は、あくまでも『運命の番が現れなければ』という条件付きで交わされた契約に過ぎぬ。あの者も竜人族である以上、きちんと弁えているだろう。次代の王に番が見つかったことが、王国にとってどれほど喜ばしいことか……すぐに気付いて、我らが幸せを祝福するはずだ。さあ我が愛しの番よ、今すぐ我が妃として、竜王国へ共にゆこう!」
そう芝居がかった声音で言った自称『運命』の男は、さらにずいっとこちらに手を差し伸べた。だが私はどうしても、その手を取る気にはなれなかった。
そもそも、運命だの何だのということが、問題なのではない。いくらでも手順を踏むことができたはずなのに、それも立場のある王族が、なぜこれほどまでに軽率な振る舞いを見せることができるのか……すっかり不信感を覚えてしまっていた私は、慎重に口を開いた。
「サタナエル殿下、それは光栄の至りに存じますが……わたくしには引き継がねばならない職務があるのです。いずれ嫁ぐにしましても、相応に支度のお時間をいただきたく存じます」
「職務だと? ご令嬢の暇つぶしの仕事など、どうせ大したものではあるまい。そんなことより、一刻も早く我が妃となることの方がどれほどそなたにとって幸せなことか。この次代の竜王たる我に、誰よりも愛される存在となれるのだぞ? それこそが、お前たち女にとって、最高の幸せではないか!」
言葉と共に強引に取られた右手を、私は思わず振り払うように引っ込める。
「……わたくしのような人間ごときを相手に紳士らしからぬ振る舞いをなさっては、殿下のご名誉にかかわるのでは? 本能に抗えないだなんて……竜人族の王太子殿下は、野生の獣でいらっしゃるのかしら」
思わず挑発的な目を向けた私に、サタナエル殿下は激高したように声を上げた。
「我が番に選ばれて喜ばぬどころか、なんだその不遜な態度は!」
「エリーザベト、ひかえなさい! 殿下、どうぞ娘のご無礼をお許しください!」
だがそこで声を上げたのは、ここまで一連のやりとりを近くで呆然と見ていた父である。口では叱りつけながら、だが私を庇うように間に割って入った父の背を見上げ、私はハッと我に返った。
そうだ、これは私だけの問題ではない。王宮で開かれた公的な夜会で、私はこの国カレンベルクの侯爵家に生まれた娘、そして相手は隣国ドラクラムの王族だ。この場でこの二人の間に起こったいざこざは、国と国同士の問題に発展しうるのだ。
「……女子には、必要な準備というものがございます。どうぞ、お時間をくださいますよう」
「身支度など、いくらしたところでどうせそれほど変わるものでもあるまいに。まあ、我のために少しでも美しく見せたいと思う気持ちはいじらしく思うぞ。よかろう、舅殿の顔を立て、今日は仕切り直してやるとしよう。後日改めて、古式に則った手順にて、我が国へ招待させてもらおうではないか」
*****
「――ということがあったのよ! 本当に、何様のつもりかしら!?」
「何様って、王太子サマだろ?」
「皮肉で言ってるの!」
高等魔術を究める者たちの集う『塔』――その一室に与えられた自分の執務机の前に座るなり、私は昨夜の顛末を隣席の男に語った。誰かに聞いてもらわなければ、どうにも腹の虫がおさまらなかったのだ。
「じゃあ次にそのクソトカゲ野郎に会ったら、横っ面を引っ叩いてやれよ」
「貴方ねぇ……それが淑女に向けるべき助言かしら?」
「悪いな、下賎の出なもので」
まだ若い身ながら、このカレンベルク王国随一の魔術師と呼ばれる彼――ディートヘルムは、そう言って透き通った紫の瞳を意地悪げに細めると、軽く鼻で笑ってみせた。
自らを下賎と呼んだ彼の身分は、実はこの国の第四王子殿下その人である。だが城の洗濯女中を母に持つ彼は、貴族ばかりが集う学院に入学すると……他に六人もいる王子の取り巻き達から、その出自を嘲笑されることになった。
そんな彼の行動を貴族らしからぬと周囲があげつらうたび、彼は逆に反発するかのように、いかにも平民のように粗雑に振る舞うようになったのだが……やがて、周囲の雑音を実力で黙らせることになる。国力に影響を与えるほどの、類稀なる魔術の才能を示したからだ。
――もっとも彼は、才能なんてバカ共が考えた努力しないための言い訳だなんて言ってはばからないけれど。
そして魔術が好きという以外、幼い頃から貴族令嬢という型にはまってしか生きられなかった私は――そんな誰にも屈しない彼を『かっこいい』と思ってしまった初等部のあの日から、ずっと好ましく思っているのだ。
彼と少しでも長く一緒にいたくて一心に魔術を学び、なんとか同期で『塔』に入職することができたのに……そんなものさっさと投げ出して、今すぐ嫁に来て竜人族のしきたりを学べだなんて。あの竜王国の王太子様は、私の積み重ねてきたこれまでを一笑に付したのである。
だがその日の夜。一日の業務を終えて邸へ帰ると、さっそく竜王国からの招待状が届けられていた。それも『番殿にはぜひ我が国にひと月ほど滞在し、まずはその良さを知ってもらいたい』という、少なくとも文面だけはごく物腰の柔らかな内容である。それも勅使を通しての、正式な招待なのだ。
「お父様、どうにか、お断りすることは……」
「難しい……いや、未だ婚約者もいない身では、絶対に無理なことだろう。先方は、両国間で長年の係争地だったヴェルデ地方の領有権を、正式に放棄してよいとまで言っておるのだ。かの種族にとっての番とは、何よりも大切な存在なのだということは、本当のことなのだろう。だからきっと、悪いようにはされまい。……行ってくれるか?」
「……はい」
この国の貴族に生まれた私には、拒否権など無いも同然だった。
*****
――翌朝。珍しく朝早くから出勤していた隣席の同僚に会うなり、招待の顛末を語ると……彼はぐっと眉をひそめて言った。
「……本当に、行く気か?」
「仕方ないわよ。きちんと手順を踏んでのご招待だもの。断るなんてできないわ」
こんなことになるのなら、もっと早くに想いを伝えておくんだった。関係性の変化を、なぜ恐れてしまったのか……。でもこうなってしまっては、今さら好意なんて伝えたところで彼を困惑させてしまうだけだろう。もう、外堀は埋められてしまったのだ。
悲しみのままに項垂れてしまった私に、だが頭上から降ってきたのは、いつものつまらない悪態だった。
「はは、偉そうなこと言って、本当は満更でもないんじゃないか? なんせ、あの大国の王妃サマになれるんだからな。上位種ぶって偉そうな竜人の貴族共を、顎で使える高みの存在になるんだろう?」
「なによ……嫌に、決まっているじゃない!」
私が好きなのは、貴方なのに……!
思わず零れそうになる本音の涙を、私はぐっと抑え込む。私の身勝手で彼を困らせてしまうのは、本意じゃない。
――でも、感情の全ては、隠しきれていなかったのだろうか。返って来たのはいつものような軽口の応酬ではなくて、重みを感じる声だった。
「……茶化して悪かった。詫びに、これを持っていけ。護符の効果を掛けてある」
そう言って彼が懐中から取り出したのは、シンプルな魔石の一粒ネックレスである。親指の爪ほどの大きさのアメジストは彼の瞳によく似た色で、魔力が宿る石特有の仄かな光を帯びていた。
「ありがとう……。でも護符って、一体どんな効果が付与されているの?」
私が差し出した手に、彼はそっとネックレスを乗せる。そして、どこか面白そうに口角を上げながら言った。
「それはお前が危機に瀕した時のお楽しみだな」
「何それ、縁起でもないわ! まあ王家を通して正式に招待されているんだもの。一応私は高位貴族なのだし、国家間の軋轢に繋がるようなご無体はなさらないでしょう」
「だといいんだが。同盟を結んだとはいえ、竜人族が心の奥で俺たち人間族を侮っている事実は変わらない。いくら特別な存在なのだと言われても、信用し過ぎるな。……気を付けろよ」
「何よ、いつも軽口ばっかり言うくせに、深刻そうな顔をして」
すると彼は珍しく、困ったように笑って言った。
「……でもお前、面食いだろ?」
「もう、大丈夫だってば!」
――あの頃からずっと、本当は貴方が一番輝いて見えるのよって……もっと早くに、言っておけばよかった。
*****
「よくぞ来た、我が運命の番よ!!」
両国の国境まで待ちきれぬとばかりに自ら出迎えに来ると……竜人特有の瞳孔を縦に細めて、彼は笑った。ねっとりと絡みつくような視線は、獲物に狙いを定めた爬虫類を思わせる。美しく整いすぎた容貌が逆に血の通わぬ人形のようで……そら恐ろしく感じた私は、思わず小さく身を震わせた。
だがなんとか心を奮い立たせると、返す視線に力を込める。目を逸らした瞬間、ヘビに睨まれた哀れなカエルは、ひと呑みにされてしまうことだろう。
「そんなに熱烈な瞳で、我に見惚れているのか? 愛い奴め」
本当に私がその運命の番だというのなら、いっそこちらも本能的に惹かれてしまうことができたなら、楽だったのに。
「……申し訳ございません。私などが殿下の『番』であると、未だに実感を得られていないのです」
「愚鈍なる人間族には、その運命を紡ぐ半糸を感じ取ることができないのは仕方ない。だが生まれこそ愚かな人間とはいえ、お前は選ばれし者なのだ。我が国にわずかでも滞在するうちに、すぐにこの栄誉ある運命に感謝するようになるだろう」
それからの、竜王国での滞在中――私は一日中サタナエル殿下のそばに留め置かれ、彼がいかに偉大な存在であるか、本人から、そして周囲から、その武勇伝の数々を聞かされ続ける日々を送ることになった。
それにうんざりとしていた、ある日。遠方でどうしても外せない公務があるという彼の言葉に内心密かに喜んでいると、どうやら私は彼の留守中、与えられた客間に閉じ込められることになるらしい。なんでも私の身を、危険から守るためなのだという。
その扱いにやんわりと抗議した私に、彼は言った。
「か弱き人間であるお前を護ってやるには、こうするしか方法がないのだ。――お前は何も言わず、ただ我に愛されていればよい。欲しい物があるならば、どんなものでも与えてやろう。気に入らない者がいたならば、すぐに処罰してやろう。我が番であるお前には、その権利があるのだからな。だが、ゆめゆめ忘れぬことだ。もしも我に逆らおうというならば、その時は――お前の家がどうなるか、分かっているな?」
ひやりとした手で頬を撫でられると、全身の毛が逆立つようである。私は思わず一歩後ずさると、触られた場所を手のひらで温めながら言った。
「……まだ、婚前でございます」
「その小生意気な唇を、今すぐ塞いでやろうか? ……と言いたいところだが。まあよい、頑ななお前を甘く蕩かしてやる日が楽しみだ」
恐ろしいまでに美しく整っている顔が、ニヤリと歪む。その姿に寒気を感じた私は、思わずぎゅっと自らを抱きしめた。
『か弱き人間であるお前を護ってやるには、こうするしか方法がないのだ』
――って、このお城、どんだけ治安が悪いのかしらね!
ようやく部屋を出て行ったサタナエルの言葉を思い返しつつ、内心そう悪態をつくと。私はお行儀悪く、思いっきりベッドに倒れ込んだ。
それから丸三日をただ部屋に閉じ込められて過ごした私は、とてつもない暇を持て余していた。この時間に学べと言われてテーブルの上に積み上げられているのは、この竜王国の歴史書だけである。だがまたあの王子の延々と続く自慢話のお相手をさせられるかと思うと、歴史書にでも向かっていた方が幾分かマシなのだろうか。……そう、考えていたときのことである。
三日ぶりに部屋の扉を開けた使用人以外の存在は、サタナエルの弟アルキスを名乗る竜人だった。彼はまだ少年の面影を残した顔で、どこか申し訳なさそうに、だがきちんと挨拶をのべる。私はようやく話の通じそうな相手を見つけて、少しだけ安堵した。
「兄上の公務が長引いており、本当に申し訳ございません。その間ずっと部屋に閉じこもりきりでは、エリーザベト嬢もつまらないでしょう。せっかく滞在していらっしゃるのですから、よければお庭の散策でもいかがでしょうか。この王城には、まだまだ気に入っていただけそうな場所がたくさんあるのです」
「ぜひ、お願いいたします」
数名の供を連れたアルキス王子に立派な庭園を案内してもらっていると、やがて彼は憂うような顔で口をひらいた。
「あの、兄上はいつもはそこまで強引なお方ではないのです。ただ我々竜人族は番を見つけると頭に血がのぼり、周囲が見えなくなってしまう傾向があるようで……ご無礼があり、本当に申し訳ございません」
「いいえ、わたくしは……」
「ただ、どうかご理解いただきたいのです。兄上の想いは、まごう事なき本物です。どうか、兄上のことを、我ら竜人のことを、誤解しないでほしいのです」
「アルキス殿下……」
その瞳は金だったが、暖かく誠実な色を宿している。私は彼の真剣な様子にほだされて、思わずうなずこうとした……その時だった。
「アルキス! そこで何をしている!!」
「兄上! お戻りだったのですね」
「胸騒ぎがして急ぎ戻ってみたら、やはりか! お前は、私に番が現れたのが羨ましく、横取りしようとしたのだろう!?」
嫉妬に燃える表情で駆け寄るサタナエル殿下に、アルキス殿下は慌てたように声を上げた。
「誤解です! エリーザベト嬢をお庭にお誘いしたのは、同盟国の貴族をこのように軟禁するなど、同盟関係に亀裂が入ってしまいかねないからです。何よりもう三日も一室に閉じ込められているなど、気の毒ではありませんか。兄上にとって、エリーザベト嬢はとても大事な女性なのでしょう!?」
「お前如きが気軽に我が番の名を呼ぶな! 大事だからこそ、だ。お前のような不埒な男が我が番に近づくことを防ぐために決まっているだろう! それでも違うというのなら、今すぐ我が番の視界から消え失せろ!」
アルキス王子は悲しげに顔を歪めると、深く一礼して立ち去って行った。
*****
私はこの『運命』とやらに、どれだけ振り回されたらいいのだろう。滞在期間もようやく残すところあと五日という日、私は王城で開かれた夜会に出席させられていた。
そこでサタナエル殿下が私のそばを離れたところを見計らったかのように、ドレスの脇を掴んでつかつかと足早に近づいてきたのは……水色の髪のご令嬢である。あの特徴的な髪の色には、よく見覚えがあった。おそらくサタナエル殿下の元婚約者の女性だろう。
彼女は思いつめたような表情で私の目の前に立ちはだかると、思いきり手を振り上げる。頬を叩く乾いた音が辺りに響き渡ると、彼女は叫んだ。
「わたくしの方が、昔からずっとあの方を想っていたのに! 人間なんかのくせに急に出てきてあの方の運命の番だなんて、一体どんな姑息な手を使って騙したの!? この売女っ!」
必死の形相を浮かべる彼女は、今にも泣き出しそうである。形式上の婚約者とはいえ、きっと彼女は、サタナエル殿下のことを本気で愛していたのだろう。片恋すら失った者同士、その心情が痛いほどに伝わってきて……私は思わず、謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい……」
「なによっ! 謝るくらいなら返して! なんで、なんであの日殿下の前に現れたのよ……ッ!」
私が言葉に詰まっていると、騒然としていた周囲にひときわ大きなざわめきが広がった。
「我が番に何をしている!」
怒りに我を忘れた顔で、この国の王太子殿下が元婚約者の頬を叩く。横殴りの衝撃によろめいた彼女は、ドレスが脚にもつれてしまったのだろうか……そのまま床へ倒れるように座り込むなり、愕然とした表情でサタナエルの顔を見上げた。
「でん、か……」
「売女はお前だ! 竜人の誇りを忘れて王妃の地位に目がくらみ、嫉妬に醜く狂った女め。我が番を傷付ける者は、何人たりとて許さぬ!」
床にうずくまり、ひどく傷ついた顔でぽろぽろと涙を流す元婚約者の姿――それを鼻で笑った男は、不意に私の腰に腕をからめた。
「もう大丈夫だ。我が離れてしまったばかりに、怖い思いをさせてしまったな」
そのままぐっと抱き寄せられると、強い嫌悪感に背筋が粟立つようである。
その瞬間――国のためにと抑えていた怒りが、一気に弾け飛んだ。
「この方は、つい先日まで貴方の婚約者だった方なのでしょう!? それがなぜ、こんな酷い仕打ちができるのです! 運命でなければ、人を愛することすら許されぬとでも言うのですか!?」
「何だと? お前のために仕置きをくれてやったのではないか!」
サタナエルの顔が、再び赤く怒りに染まる。だがそこで彼は言葉を切ると、私の耳元に唇を寄せて、囁いた。
「だがまあ、気の強い女は嫌いではない。……婚前だろうと構うものか。一夜を共にしてしまえば、すぐに気も変わることだろう」
ザッと音を立てるかのように、私は全身から一気に血の気が引くのを感じていた。この人が一体何を言っているのか、理解ができない。いや、したくない。
私は両腕で強く彼を突き離すと、叫んだ。
「無理矢理妻にされるくらいなら、わたくしは死を選びます!」
「なんだと!?」
私は騒然とする野次馬たちを掻き分けるようにして廊下へ飛び出すと、自分に与えられていた客間へと走った。こんなこともあろうかと、あの閉じ込められていた時に、少しずつ部屋に強力な結界の術式を刻んでおいたのだ。
国から迎えが来るまで、あと五日。
籠城戦を始めた私に、扉の向こうから聞えよがしな声が響いた。
「放って置け。どうせ何不自由なく甘やかされて育った高位貴族のご令嬢だ。少し飢えさせればすぐに気が変わって出てくるだろう」
*****
あれから三日――水は魔術で手に入ったが、全く食べ物を口にできないと、どうやら血が足りなくなってくるらしい。人間は水のみで七日は生きられるという記録を読んだことがあるけれど、そういえば七日ずっと元気だとは書かれていなかった。
たったの五日、それだけ持ちこたえて国から迎えが来れば、無体なことはできないだろうと思っていたけれど……こんなにも早く、身体が動かなくなるなんて。
そういえば過酷な環境で進化した竜人族は、確か人間族より飢えや渇きに強かったはずだ。自分から出ていかなければ、きっと異変に気づかれることはない。でも、どうしても出て行きたくなんかない。サタナエルの勝ち誇った顔を想像すると、身震いがした。
私、このまま意地を張ったまま死ぬのかしら……。
私さえ我慢すれば、国のためにも全てが丸く収まるのかもしれない。
でも、私は――。
寝台から動けなくなった私の、もうあまり力の入らない指から……淡く輝く石が零れ落ちた。
何よ、私が危機に瀕した時のお楽しみだとか言って、笑っていたクセに……。
――その時。突如として床にぐるりと描かれた輝きは、空間転移陣のものである。陣からあふれる光の中から現れた人影は、ずっと焦がれていた人のものだった。
うそ……幻が見えるなんて、いよいよかしら――。
だが人影は横たわる私に気がつくと、慌てたように駆け寄りながら懐から小瓶を取り出した。
「リーザ、大丈夫か!? 水薬だ、飲めるか……?」
大丈夫だと言いたくて乾いた唇を開いたが、出て来たのは僅かに掠れた音だけだった。それに気づいたらしい彼は自ら瓶を呷ると、私の唇を覆う。温かく甘い液体が流れ込み、衰弱していた身体に再び血が巡っていくようだ。
「ディー……」
「すまん、魔術障壁をすり抜けるのに時間がかかった。これは一体、何があった!?」
一国の王城の障壁を警備に気付かれずにすり抜けるなんて、さすが一人で国力に影響を及ぼすほどの魔術師と言われているだけはある。強い安堵の気持ちがこみ上げて、乾ききった目の奥が、じんとうずいた。
「私……あんな人のものになんて、どうしてもなりたくなくて……。でも断ったりしたら、国の……」
「だからといって、お前が犠牲になる必要なんてないだろう!?」
「でも、この国の人達が皆口を揃えて言うのよ。ツガイと一緒になれるのは、この上なく幸せなことなんだ。ウンメイを否定するなんてありえない、とても罰当たりなことなんだ、って。こんな価値観で拒否などしたら、穏便には済まされないわ……」
「いや、穏便に諦めてもらう方法ならある。竜人族の習性については、詳しく調べがついている」
彼はコートの内側に挿されていた数本の小瓶の中から一本選んで抜き取ると、私の目の前に差し出して、言った。
「これを飲めば侯爵令嬢エリーザベトは、死ぬ。だがお前は、自由を手に入れる。……リーザ、俺を信じてくれるか?」
「ええ……信じるわ!」
ようやく力の戻った喉で、それでも二つ返事で応えると……彼は自分で言ったくせに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「いや、死ぬ、と言っただろう。そんな即答でいいのか!?」
「だって、ディートのことはもうずっと信じているもの」
それを聞いた彼は一瞬大きく目を見開いて、だがすぐに不敵な笑みを浮かべた。
「よし、覚悟は決まったようだな。ならば聞くが、お前、体重は?」
「なっ! 淑女に突然、なんてこと聞くのよ!?」
「この毒薬は、きちんとした分量を服用すれば一時的に仮死状態になることができる。その薬の分量計算に、服用者の体重が必要なんだ。まあ、そこまで厳密な値ではなくても大丈夫だ。ここ数日で体重が落ちている可能性もあるが、それくらいは誤差の範囲だろう」
そういう意味なら正直に言うしかない……。私がしぶしぶ最後に測ったときの体重を口にすると、彼は呆れたような顔をした。
「なんだ、思っていたより随分と軽いんだな。念の為聞いておいてよかった。二度と目覚められないところだったぞ」
「もう、ばか!」
その翌日。堂々と部屋を出た私は、父とディートヘルムの姿を含む祖国からの迎えの一行の目の前で、豪華なドレスの袖口に隠し持っていた小瓶を取り出した。
「何でも自分の思い通りになると思っている王子様。貴方のものになんて、絶対になってやらないわ。――さようなら!」
サタナエルの方を振り返り、そう強く啖呵を切ると。驚きに目を見開く彼に向かって不敵に笑いかけてから、私は薬を一気に呷ってみせた、その瞬間。
喉に、臓腑に、腕に、脚に……走るようにびりびりとした痺れが拡がって、そこから動かなくなってゆく。急激に霞みゆく視界の端に、愕然とした顔で手を伸ばす自称『番』の姿が映りこんだ。
崩れゆく私の身体を抱きとめて、彼の悲痛な叫びが……どこか遠く、他人事のように、響く。
「死ぬな、エリーザベト!! 何故だ!?」
――なぜって? まだ、わからないのかしら。
「どうか我を置いて逝かないでくれ……お願いだ!!」
そんな絶望したように涙を流すぐらいなら、どうして、もっと――
――そこで私の意識は、途切れた。
*****
『番がその運命を拒否し、自ら死を選んだ』という事実は、竜人族の民から王太子への求心力を一気に低下させた。さらに大貴族の娘の死を我が国の貴族たちが外交に利用した結果――竜王国はヴェルデ地方を手放し、サタナエルは廃嫡され、次男アルキスが新たに立太子された。それほどまでに竜人達にとって『番』が大事な存在だったことにも驚いたが、それ以上に、サタナエル本人が抜け殻のようになってしまったのだという。
そんなにも『番』が大事であるならば、なぜその気持ちをもっと思いやることが出来なかったのかしら。今ではもう、聞くことはできないけれど。
――侯爵令嬢エリーザベトは、死んだのだ。
しばらく領地にある別邸で密かに静養していた私のもとに、ディートヘルムが訪ねてきた。彼は臣籍に下ってアルトナー公爵となり、間もなく辺境に賜った広大な領地へ移り住む予定なのだという。
「政治なんて興味がないと常々言っていた貴方が領地経営だなんて、一体どういう風の吹き回しなの?」
「クソ兄弟共からわざわざあの領地を分捕ってきたのは、その、お前が気に入るかと思ってな。あの場所ならトカゲ野郎の顔を二度と見なくて済むし、反対側の隣国の魔術都市が近いから、遊びに行く先も困らないだろ。しかも領内には大きな魔石の鉱床もある。いいだろ、研究し放題だ」
「それはとても魅力的な提案だけど……今後もしサタナエルに私の生存が気付かれてしまったら、きっと貴方にも迷惑が……」
「迷惑なんか気にするぐらいなら、そもそも助けになんか行くわけがない。もしあの野郎に気付かれたとしても、俺が必ずお前を守る。だからどうか、一緒に来てくれないか? リーザ・フォン・アルトナー公爵夫人として」
「え……夫人?」
「初等部の頃……バカ共の嫌がらせに屈しなかった俺にハンカチを差し出しながら、『カッコよかった』と言ってくれたことがあっただろ? 俺はずっとその言葉を支えにして、ここまで負けずにやって来れたんだ。あの時からずっと、お前……いや、君のことが好きだった。その、無理強いはできないが……」
困ったように頭を掻くディートヘルムに、私は思わず破顔した。
「ふふっ、いつも自信満々なくせに、なんでそこで急に弱気になるのよ!」
「いや、元の立場を失うように仕向けておいて、そこに付け入るが如く自分の有利な立場に物を言わせるなんて……まるであの野郎と同じじゃないか」
「全然違うわ。貴方はいつだって、私の気持ちをちゃんと考えてくれていたもの。……私も、ずっと貴方が好きだった!」
「リーザ……」
ためらいがちに広げられた腕の中に、私は思いっきり飛び込んだ。
私の運命の人は、この人だ。
私がそう、決めたのだ――。
―終―
その後、サタナエルは水色の髪の令嬢の献身的な看護により、ようやく本当の愛に気付くことになるのだが――その話はまた、別の機会に。
最後までお読みいただきありがとうございました。
評価などいただけますと何よりの励みになります。
ほかにも短編や長編などいくつか書いていますので、よければ読んでみてください。