06 入梅り中間テスト
雨に打たれるのはキライですが、雨音は好きです。
シャァッ、シャァッ、と車が表の道を通る度に水をはねる音がする。天気は生憎の雨。この空模様のせいか、電気を付けて明るいはずなのに、この部屋はどこかどんよりとした雰囲気に包まれていた。ふとカーテンの隙間から窓の外へ目を遣ると、降りしきる雨がわたしの視界を塞いだ。
「雨だ……」
昨日まで天気が続いていたはずなのに、今日の空には雨雲がびっしりと詰まり、町は無際限の雨に降られている。この雨が梅雨のものなのか、そうでないのか、わたしには分からない。けれど、ここまで激しく降られると訳もなくため息が出る。
こんなに雨を降らしておいてまだ雨雲が枯れないとは、と感心すら覚える中、わたしは目線を手元に移す。開かれたノートと数学の問題集。わたしは居住まいを正し、さっきまで問題の続きから取り掛かることにする。
今日は日曜日。休日だ。なので今、わたしは自宅のマンションの部屋に篭っている。そして、いつもならテレビを見るなりゲームをするなりして休日を楽しむのだけど、今日だけは訳あって折角の休みを勉強に捧げなければならない。なぜなら、わたしには為さねばならぬことがあるから。
学生に定期的に襲い掛かる、人災とも言える恐ろしい敵。そう、定期テスト。それがなんと明日から始まってしまうのだ。このテストで赤点など取ろうものなら、どんな制裁が下るかわかったものじゃない。追試か? 補習か? 休日の返上か? あぁ、考えただけでも恐ろしい。
とは言え、わたしは勉強が苦手なわけでもなくやればできる子(自称)なので、それなりに勉強すれば赤点を取るどころか平均は軽く超えるだろう。高校に入ってからの初めてのテストだけど、そう緊張することはないさ。
気楽にそんなことを思いながら問題を解き進めるわたしは、ある一つの問題に詰まってしまった。テスト範囲の応用問題。それも少し難しめのだ。自分のことをやればできる子だと言ったが、やはりわたしは良くも悪くも普通の子だったようだ。つまり、この応用問題の解法が全く思いつかない。
それでも何とか解けないかとうんうん頭を捻っていると、不意に右方のドアが唸り声とともに開かれた。
「リンちゃぁ~ん……」
その声はわたしの名を呼んでいた。
一体なんだと思いつつそちらへ向けば、ハルちゃんがゾンビのような足取りでこちらに近づいてきた。その目に生気はなかった。足を引き摺るようにして近づき、そしてとうとうわたしの背後に立つと、わたしの首元に腕を回して抱きついてきた。
「リンちゃぁ~ん……暇だよぉ~……」
そして背中に感じる、ハルちゃんの大きくてやわらかな感触。
厄介なことになったぞ。ハルちゃんにこうして抱きつかれては、いろんなことに意識をとられて勉強に集中できない。ほら今も、ハルちゃんが抱きつきながら体をくねくねさせ、おっぱいと言う名の煩悩をわたしに押し付けている。くッ、勉強に集中するため、なんとしても追い払わなければ。
「い、今は勉強中だから。邪魔しないで」
「えぇ~、勉強なんて止めてわたしに構ってよ~」
「だめだよ。テスト明日からなんだから」
「ぶー、リンちゃんのケチー。わたしと勉強、どっちが大切なの?」
そんなの勿論ハルちゃんに決まってるじゃない! と言いかけた言葉を喉元でぐっと堪え、なんとか飲み込む。危ない危ない、ハルちゃんの言葉に踊らされるところだった。こうなったらもう無視するしかない。そうすればそのうちどっかに行くでしょ。構ってちゃんの天敵は無視ってね。
そうと決まれば徹底的に無視を決め込んでやる。そう心に決めたわたしはもう一度問題集に向かい合う。さっきも解けなかったこの問題を、なんとしてでも解いてやる!
そう意気込んだは良いものの、やはりどこから手を付ければいいやらさっぱりだ。その上ハルちゃんがわたしから離れる様子が一切ない。ハルちゃんに密着されているせいでわたしの思考が全く纏まらない。なんてことだ。後にも退けず先にも進めない。わたしはこの責め苦を永遠に味わい続けなければならないのか!?
わたしが孤独にそう絶望しかけたときだった。
「もしかして、この問題が分からないの?」
背後のハルちゃんがわたしが分からないと頭を抱えていた問題を指差した。
「え、えと……うん……」
そして、何故かわたしは素直に頷いた。
そっか、じゃあ教えてあげる。そう言うと、ハルちゃんはわたしの背後から離れ、隣に立つ。
もしかして、ハルちゃんがわたしに勉強を教える気? そんなまさか、あのハルちゃんが?
内心そう思ったわたしがいた。だって、家事もなにもできない頭の中お花畑みたいなハルちゃんだよ? そう思うのも仕方ないよ。
そう思っていたわたしは、次の瞬間から繰り広げられる展開に言葉を失った。
「まずこれがこうなって、それでこの式に代入するの。そうすると……」
ハルちゃんがわたしに勉強を教えている。しかも、一見とても苦手そうな数学を。あべこべに感じる光景がなんだかとても可笑しく思えた。けれど、ハルちゃんの顔はとても真剣で、いつものふにゃふにゃした笑みを浮かべてはいなかった。
そっかぁ、なんだかんだ言っても、この人はわたしより大人なんだ。
自然とそう思えたわたしは、ハルちゃんの解説を聞きながら静かに頷いていた。
外は相変わらずの雨模様だけれど、気付けば時刻は12時を回っていた。
「もうこんな時間。昼ごはんにしなきゃ」
問題集を一旦閉じ、わたしは居間へ向かう。そこにはソファにだらりと寝そべってテレビを眺めるハルちゃんの姿があった。こんな天気だもの。暇つぶしはテレビくらいしかないよね。
わたしはハルちゃんの下へと歩み寄り、その顔を覗き込む。わたしに気付いたハルちゃんもこちらを見つめる。
「勉強は一旦休憩?」
「うん、もうお昼だから」
「え、ほんと!?」
わたしに言われるまで気付かなかったのか、時計を確認する。そして、彼女は笑ってお腹をさすりだした。
「そっかぁ、道理でお腹が空くわけだ」
ハルちゃんにつられてわたしも笑みがこぼれた。
「待ってて、すぐに作るから」
と言って台所へ向かおうとする、が振り返り、
「食べたいものある? なんでも好きなの作ってあげる」
とハルちゃんに訊く。勉強を教えてもらったお礼に。するとハルちゃんは、
「ほんとに!? やったぁ! リンちゃん大好き!」
と子供みたいにはしゃぎながらわたしに抱きついてきた。
「ちょ!? もぅ、ハルちゃんったら……」
わたしも彼女の背中に腕を回そうとする、が触れる寸前で止めた。
今のハルちゃんの言葉が、脳内でこだまする。
大好き。その言葉を何の躊躇いもなく言えるハルちゃんが、わたしは正直羨ましいよ。
わたしだって、ハルちゃんのことが大好きだ。なのに、これまでハルちゃんの大好きに素直に答えられたことがない。その言葉を、口に出来ない。それどころか、今だって、わたしの腕は彼女の背中に触れることができずに空中に浮いたままだ。
本当はわたしだって大好きだって言いたい。ハルちゃんを抱きしめたい。だから、彼女の子供のような素直さが、わたしにはとても眩しく思えるんだ。
「……」
なら、そんな彼女の気持ちに応えることができないわたしは、一体何なのだろうか。彼女のことを子供のように扱い、大人ぶっているわたしは、一体何なのだろうか。
***
翌日の天気も変わらず雨。絶えず涙を流し続けるこの雨雲には、相当悲しい出来事があったに違いない。例えば、好きな人にフラれたとか。あぁ、同情するよ、雨雲さん。
けれど、たとえどんなに自分が悲しくて可哀そうでも、他人に迷惑を掛けるようなことをしてはいけないよ。ほら、あなたの流した涙のせいでわたしのローファーに泥が付いちゃって、おまけに靴下に雨が染みてきちゃったよ。あぁ、感触が気持ち悪い。
たとえ傘を差していても雨から完全に身を守ることはできない。今日みたく風のある日なんか特に。わたしは替えの靴下を持ってこなかった過去の自分を呪いながら学校までの道を早足で進んでいく。
「あぁ、やっと着いた」
弾丸飛び交う戦場を駆け抜けた兵士の如く満身創痍なわたしは、昇降口に辿り着くなりほっと息をついた。傘の滴をパサパサと落としながら周りへ注意を向けると、わたしと同じように全身のいたるところに雨を受けた生徒たちがせかせかとタオルで髪や制服を拭いていた。
あぁ、みんなも大変だなぁと思っていると、昇降口に飛び込んでくる一つの影があった。その影はわたしの丁度隣で止まった。
「ふぅ、雨やべぇ」
言葉を漏らしながら自分の鞄をまさぐる彼は、クラスメイトの岸本くんだった。
「岸本くん……おはよう」
「ん? あぁ、園田さん、おはよう!」
丁度タオルを取り出した岸本くんは、わたしに満面の笑みを向けると、次の瞬間には濡れに濡れた全身を手にもったタオルで拭いていた。ふと彼の足元を見れば一本の折り畳み傘。この小さい傘を差しながらここまで走ってきたのだろうか。そりゃあ濡れるってもんだ。
「それにしても、すげぇ雨だな。ひどい目に遭った」
岸本くんが体を拭きながら言葉をこぼす。確かに、今の彼の状態を見れば誰でもわかるよ。でも、そればかりに気を取られてはいけない。なぜなら今日は『あの日』なのだから。
「雨も大変だけど、今日はこれからも大変だよ?」
「大変って、何が?」
「中間テスト」
ぽつりと言うと、思い出したとばかりに、岸本くんは頭に両手を添えた。
「あぁ、そうだった! 今日テストだった! しまったぁ、全然勉強してねぇよ……」
「ふふっ」
そのリアクションが少し面白くて、わたしはつい笑ってしまった。岸本くんも、小さく笑っていた。
「あぁ~どうしよ。全然勉強してない」
ホームルームが終わり自分の席で一限目のテスト勉強をしていると、真向いにやって来た恵理子ちゃんがそんなことを言ってきた。
「それをわたしに言いに来る暇があるんなら、勉強したら?」
「い、言い返せないぃ」
教科書から目を逸らさずに返事を返すと、目の前で恵理子ちゃんが項垂れるのがわかった。その様子が妙に哀愁に満ちていたので、わたしは何だか申し訳ない気持ちになった。
ううん、話に乗ってあげなかったのはちょっとかわいそうだったかな。今度からは「わたしも~」って答えるようにしよう。
そんなことを考えていると、教室のドアが開かれ、紙束を持った先生が入って来た。時計を見上げれば、授業時間の5分前。遂にテストが始まるのだ。
「はい、みんな席に着いて~」
その言葉に押されるように、クラスメイトたちが自分の席へ戻っていく。恵理子ちゃんも項垂れたままとぼとぼと歩いていった。
遂に始まる、高校生になって初めての定期テスト。精一杯頑張って良い点数を取ろう。心の中でそう意気込み、神妙な面持ちで時が来るのをまった。
最初のテストは数学。大丈夫、昨日あれだけやったんだから、きっとできる。自分を鼓舞していると、やがて鐘が鳴り、先生が「解答始め」の号令を掛けた。
クラス全員が一斉に問題用紙を開いた。
それから、一心に問題を解き進めていく。どれも昨日やったことのあるような問題ばかりだ。いける。シャーペンを走らせながら、心の中でガッツポーズをした。
「――ッ!」
そうして問題を解いていくわたしは、ある問題を前にして手を止めた。問題の後半部分の、ある応用問題だった。解法が分からないわけじゃない。むしろその逆だった。何せこの問題は、昨日ハルちゃんに教えてもらったあの問題の類題だったのだ。
あぁ、ハルちゃん、ありがとう。ハルちゃんのお陰で、わたしはこの問題を解くことができます。
わたしは感謝の心を胸に抱きながら、シャーペンを握り直した。
***
その後、無事テストを終えたわたしは今、家で明日のテストに向けての勉強をしていた。
一限目の数学を含め、初日の出来は上々。明日もこの調子で頑張ろう。そう意気込むわたしの脳裏に、二人の顔が浮かんだ。
『もぉ~、全然ダメだったよぉ』
『空欄がめっちゃあった。やばい』
恵理子ちゃんと岸本くんだ。二人とも今日のテストの出来は芳しくなかったみたい。「全然勉強してない」という言葉に嘘は無かったようだ。もしかしたら二人とも赤点を取ってしまうかもしれない。
やっぱり、勉強しないというのも問題だ。今回だけならともかく、期末テストでも赤点を取ろうものなら夏休み中に補習が組まれてしまう。そうなれば、週末の代わりに夏休みを勉強に捧げなければならなくなる。花の高校生だ。できれば二人ともそんな風になって欲しくはない。
二人とも大丈夫かなぁ、と自然と心配が募る。でもやっぱり、そこは本人たち次第だろう。わたしに出来ることは、取り合えず自分が赤点を取らないように最低限の勉強を頑張ることだ。
「ただいま~」
玄関から声が聞こえてきた。ハルちゃんが仕事から帰ってきたんだ。
シャーペンを置き、ハルちゃんの下へと駆け足になる。ハルちゃんにいち早くありがとうって言いたくて。だって、ハルちゃんのお陰でテストの点数が少し伸びたから。
「おかえり、ハルちゃん! って、あわわッ」
居間に入れば、丁度ハルちゃんがスーツを脱いでいる所だった。わたしは思わず目を逸らしてしまった。
「あぁ、ただいま、リンちゃん」
そんなわたしに構わずにハルちゃんはシャツを脱いでいく。わたしは堪らず体の向きを変え、台所へ向かおうとする。恥ずかしさを紛らわすために。さっきまで言おうとしていた言葉はどこかにすっとんでしまった。
「か、帰ってきて早速だけど、お腹空いたでしょ。何食べたい? 何でも好きなの作ってあげる」
「ほんとに!? 嬉しい! リンちゃんだぁい好きッ!」
去り際に訊ねると、その言葉と共に背後からハルちゃんがまたもや抱きついてきた。そしてわたしの首元には、ハルちゃんのさらりとした腕、白い柔肌が露になっていた。
「ッ!!?」
ももももしかしてハダカ!? い、いや、下着姿かも……。確かに、いままでよりも柔らかい感触が背中に感じるような……。普段の二重の布越しではなく、布約一枚を隔てて感じる彼女の豊かなおっぱい。あぁ、ダメッ! 鼻血が出そうッ! でも、とっても幸せな気分!
わたしはハルちゃんに抱きつかれながら、密かにこの瞬間が永遠になればいいなと思っていた。