03 どきどきハイスクール
ΛΛ
(r・ω)r < にゃ~ん
興奮に沸き、夜も眠れない。そんな日を、きっと誰しもが経験するだろう。修学旅行のホテルで過ごす夜。大好きなアイドルのコンサートや、恋人とのデートの前夜。明日のことをあれこれ妄想しては胸を躍らせる。そんな日が、きっと誰しもに訪れる。
そしてそれは、わたしも例外ではない。そう、まさに今日こそが、わたしにとっての「転換期」なのだ!
「遂に来た、この日が! 待ちに待ったこの時が!」
昂ぶる気持ちを胸に抱き、わたしは勢いよく寝室のカーテンを開く。その瞬間、全身に穏かで暖かな日差しが降り注ぐ。遠くへ目を遣れば、街路樹が微かにその豊な枝葉を揺すっていた。
わたしは右へ視線を移す。見える壁には、朝日を浴び輝く一着の制服がハンガーで掛けられていた。深い紺色のブレザー。ねずみ色の、ちょっと短めのスカート。そして、胸元には情熱的な赤いリボン。そう、これこそが、わたしの通う高校の制服なのだ。
そして今日、わたしはとうとうこれに袖を通すことになる。つまり今日は、これから通う高校の入学式。わたしがまた一歩、大人に近づく日なのである。
「ううん……」
大人な自分を想像してニヤついていると、足元から唸るような声が聞こえた。ふと目を遣ると、ハルちゃんが日光から逃れるように布団を被り、中でモゾモゾと動いていた。
「もう……ハルちゃんったら」
その様子を見て、自然と言葉が漏れた。わたしは彼女の側にしゃがみ、布団の上からぽんぽんとたたいた。
「ハルちゃん、起きて。もう朝だよ~」
「むぅぅん…………はぅっ!」
突然彼女はガバッ体を起こし、目をパチクリとさせる。ふわふわとした、肩まで伸びる亜麻色髪には、所々寝癖がついていた。そんな彼女にわたしは優しく微笑みかけた。
「おはよ、ハルちゃん」
「お、おはよぅ……」
まだ寝起きで頭がはっきりしていないのか、ハルちゃんはそのままポカンとした表情を浮かべている。そんなハルちゃんもまた可愛い。わたしはニコニコ顔になりながら立ち上がった。
「じゃ、今から朝ごはんの支度するから、出来上がるまでには目を覚ましておいてね」
「……うん、わかった」
ハルちゃんの可愛らしい返事を聞いた後、まずは洗顔をと思い、わたしは洗面所へ向かっていった。
朝食などを済ませ、現時刻はおよそ7時15分。まだ準備するには早い時間だけれど、今日は入学式。ついつい気合が入っちゃったって仕方ないよね。
「では、いざ」
というわけで、我慢できなくなったわたしは、早速ハンガーに掛けてある制服を手に取り、不慣れな手つきでそれを身に纏っていく。しわなどが付かないように、恐る恐る、丁寧に。
「おぉ……」
着替え終わったわたしは、姿見に移った自分の姿を見て変なため息をついた。中学の頃のセーラーとは違う印象。着ている服が違うだけなのに、自分が随分大人に見えてしまう。制服の力ってすごい!
「むむ、リンちゃんが制服着てる」
「あ、ハルちゃん」
制服の凄さに感動していると、いつの間にかハルちゃんがわたしの後ろに立っていた。彼女は既に仕事への準備は万端らしく、寝起きにはあった寝癖は整えられ、その大人な体はピシッとしたスーツに包まれている。なのにどうしてだろう。立派なスーツを身に纏ってもなお、彼女のほわわんとした雰囲気が滲み出ている気がする。ハルちゃんに限っては、制服の力も及ばないようだ。
「あぁ、そっか。今日高校の入学式かぁ」
と合点がいったようにハルちゃんが手を打った。とても大事なことなのに、どうやら今の今まで忘れていたようだ。
まあでも、のんびりとしてて物忘れの多いのはいつものことか、と半ば諦めに入ったわたしは、彼女と向かい合って声を弾ませる。
「そうだよ。ねぇねぇ、ハルちゃん。この制服、どうかな? 似合う?」
そう言ってわたしはその場でくるりと回ってみせる。ももにかかるスカートの裾と背中まで伸びる長いポニーテールがひらりと舞った。
「うん、バッチリ決まってるよ!」
ハルちゃんが親指を立ててそう言った。そう返してくれると初めから分かっていても、実際に言われるとやっぱり嬉しくて、ちょっぴり照れくさい。わたしはその気持ちを誤魔化すように、ハルちゃんの真似をして親指を立てた。
「ハルちゃんも、スーツ姿、かわいいよ!」
「そう? えへへ~、ありがと」
ハルちゃんは少し照れたように締まりのない笑顔を浮かべ、髪を指先でくるくると弄りだした。あぁ、かわいい。
ハルちゃんのかわいさに見とれながらちらりと時計を見れば、時刻は7時半。そろそろ出発しても良い頃だ。
「じゃあ、ハルちゃん。わたし、そろそろ行くね」
わたしは新しい鞄を掴み、玄関へ向かう。わたしの後ろにハルちゃんが続く。玄関でローファーを履くわたしの背中に、ハルちゃんが声をかける。
「リンちゃん、友達作れるようにがんばってね!」
靴を履き終え振り返ると、ハルちゃんがにっこりと笑っていた。その笑顔が、なんだかわたしに勇気をくれるようだった。
「うん、頑張るよ。ハルちゃんも、お仕事頑張ってね! 行ってきます!」
そしてわたしは、元気に玄関のドアを押し開ける。新たな一歩を踏み出そうとするわたしの背中に、ハルちゃんの「いってらっしゃい」の声が届いた。
川を挟んで並ぶ桜の木々。その下に続く道を、わたしは一人歩いていく。右手には川が、左手には小さな林が見える。とても穏かな朝の風景。
道端へ目を向ければ、桜の浮いた小さな水溜りに、元気に生えるツクシたち。そして、わたしの背中を押す暖かな春風。無意識に足の運びが速くなり、その後ろを桜の花びらがひらひらと追いかけてきた。
高校。それは全く新しい環境。残念ながら、中学までの友達はわたしの高校にはいない。みんな別々の高校へ進学してしまった。けれどわたしは悲しくは無い。別に今生の別れってわけじゃないし、友達がいないのなら作ればいいのだから。よぅし、初日から頑張るぞ。
「にゃ~ん」
「ん?」
心の中で意気込むわたしの耳に、何やら猫の鳴き声らしき音が届いた。猫の鳴き声……にしては少し違和感を感じる。そう、まるで人間が猫の鳴きまねをしたような声だ。
いやいや、もしかしたら本当に猫がいるかもしれない。もしそうなら写真をとってハルちゃんに見せてあげよう。ハルちゃんはかわいいもの好きだから、きっと喜んでくれるに違いない。そう思ってきょろきょろと辺りを見渡すと、左の林を少し入ったところに人の影を見つけた。よくよく見てみれば、その人はわたしと同じ制服を着ており、しゃがんで前に手を伸べていた。きっとあの子がさっきの猫の鳴きまねをしたんだ。
「にゃ~ん」
彼女がもう一度猫の鳴きまねをした。もしかすると、そこに猫が居て気を惹こうとしてるのかな。
興味が湧いたわたしは、そろりそろりと彼女の側に歩み寄っていく。林の端に来た所で、ようやく木々の間から全体の様子を窺うことができた。彼女はにゃんにゃんと猫の鳴きまねをしながら手をちょいちょいとさせる。そして彼女の前には黒とグレーのトラ猫が一匹、彼女のことをじっと見つめていた。猫の首に首輪は巻かれていなかった。
本物の野良猫だ。かわいい~!
胸に感動が込み上げるわたしは、無意識に一歩前へ出てしまう。
ピシリッ。鋭い音が静寂な林にこだまする。その音に弾かれるようにして猫は林の奥へと走り去っていき、猫の鳴きまねをしていた彼女がこちらをはっと振り返る。
「あ、えっと……」
猫の鳴きまねをしていた女の子と、それを聞いてしまったわたし。
き、気まずい。
これが真っ赤な他人だったら何事も無かったかのように立ち去ることもできるかもしれない。でも、彼女はわたしと同じ制服を着ているのだから、全くの無関係ではない。ほら、もしかしたらこれからすぐに学校でばったり会っちゃうかもしれないし。
気まずさに動けなくなるわたし。一方彼女は、顔を真っ赤にしたまま同じように固まっている。
いけない。なんとかこの寒い状況を変えなければ。
必死に頭を働かせる。言え。何か、この場を和ませる何かを。そう考えること数秒後、
「にゃ、にゃ~ん……」
わたしも、猫になることにした。
「はぁ、思い出しただけで恥ずかしい。人前で猫の鳴きまねなんて……」
そう言って彼女、南恵理子さんは、若干こちらから顔を背け、首元を手でパタパタと扇いでいた。え? どうして彼女の名前を知っているか、だって? それはね、実はさっきお互いに自己紹介をしてたんだ。
わたしたちは今、一緒に登校中だ。わたしも猫の一員となり、何となくあの場を凌ぐことができたわたしたちは、どちらからともなく一緒に学校へ行こうということになった。ちなみに彼女も今年入学する新入生。彼女の胸元にわたしと同じ赤色のリボンが輝いているのがその証拠。これから通う高校は、学年でリボンの色が違うのだ。
ちらりと、南さんへ目を向ける。少し明るい色のショートボブと、落ち着いていて澄んだ声。何だか大人しそうな印象を受ける。
「南さんは猫、好きなの?」
「うん、大好き! ウチの家族ね、みんな猫好きでね、5匹も飼ってるんだ!」
「へぇ~、すごいなぁ」
会話を途切れさせてはいけないと思い何となく問いかけると、結構な返事が返ってきた。この人、初対面でも物怖じせずに結構話す人なのかもしれない。
「園田さんはどう?」
「え、わたし?」
唐突な問いかけに、わたしは戸惑ってしまう。わたしは結構人見知りするタイプなのだ。
「あ、えっと、猫は結構好きだよ」
「え!? ほんと!?」
何とか言葉をひねり出すと、急に南さんが食いついてきた。
「ねぇねぇ、もしかして園田さんも猫飼ってたりするの?」
ずずいと顔をこちらに寄せてきる南さん。わたしはその勢いに圧倒され、つい背中を反ってしまう。前言撤回。大人しそうな印象とは真逆で、結構活発な人なのかもしれない。
「ね、猫は飼ってなくて、その、わたしの家、マンションだから……」
「そ、そんな……」
答えると、南さんは急にしょんぼりと肩を落としてしまった。おまけに歩く速度も半減。いったいどうしたのかと若干焦っていると、南さんが口を開いた。
「猫好きが猫を飼えないだなんて、そんなの残酷だよ。それがどんな理由であれ。わたしも園田さんの気持ち、分かるよ。昔のわたしも同じ状況だったから。そう、あれはわたしがまだ小学生の頃、わたしもマンション住まいだったんだけど、ペットがダメとかそんなルール知らなかったから、誕生日が来るたびに猫飼いたいってパパとママにお願いしてたの。でも毎回毎回ダメだって言われてすっごい悲しかった。そんなわたしが猫と触れ合えるのはおばあちゃん家だけだったの。おばあちゃん猫飼ってたから。だからわたしはね、猫と触れ合いたくなったらいっつもおばあちゃん家に遊びにいってたの。片道一時間自転車で。それでね……」
「……」
わたしの気持ちに共感し話し出した南さんは、まるで決壊したダムのよう。彼女の話は止まることなくどんどん広がっていく。こんな子と友達になれたら、きっと話の種が尽きなくて楽しいんだろうな。なんてことを思いながら、わたしは適当に彼女の話に相槌を打っていた。
そんな中、わたしは心の中で、でもね、と呟く。
でもね、わたしは猫が飼えなくて悲しいだなんて思わないよ。だって、家には猫よりもずっと可愛い子がいるから。
わたしは微笑むと、彼女の話に耳を傾けながら、静かに学校への道を歩んでいく。
しばらく南さんと歩き、時刻はおよそ8時。わたしたちはとうとう目的地へ到着した。県立豊岡高校。至って普通の公立高校だ。この高校の特筆すべき点は……特には思いつかない。そもそもそんなことに言及できるほど、わたしは全国の高校について知らないのだ。
何はともあれ、無事時間内に高校に着いたわたしたちはこれで一旦はお別れかと思われた。ところが、ここで意外な事実が。
「あ、わたし園田さんと同じクラスだ!」
そう、なんとわたしと南さんはクラスが同じだったのだ。そのことを知った南さんはまるで旧友と再会したかのような安堵の表情を浮かべていた。まぁわたしも、全く知らない人たちの集まる教室よりも、ついさっきとはいえ知った人のいる教室のほうが断然居心地は良いと思う。
ということでわたしたちは教室へ向かい。その後の恒例行事を淡々とこなしていく。入学式、校長先生の話、その他いろんな人の話。教室に戻ってからの担任、副担任の先生の話、クラスメイトたちの自己紹介。それらを一通り終え、時刻は12時前。ここで今日は解散となった。所謂半日授業というやつだ。
先生たちが教室を後にし、クラス内がざわつき始める。もう既にグループの形成が始まってるようだった。数人で集まり、これからどこかご飯いかない? 遊びにいかない? といった会話が四方から聞こえてくる。そんな中、さてわたしも誰かを親睦を兼ねたご飯に誘おうと席を立つ。やっぱり誘うなら今朝会った南さんかな。と考えていると、後ろから肩をポンと叩かれた。振り返れば、案の定と言うか、南さんだった。
「園田さん、これから時間ある? よかったら一緒にご飯行こうよ」
「うん、いいよ。どこ行こうか」
鞄を肩にかけながら、わたしは二つ返事でOKした。まあ、元からそのつもりだったし。うん、交流って大事。
こうしてわたしたちは、活気溢れる教室を後にした。
***
時刻は既に夜の8時過ぎ。外はすっかり暗く、世界は夜に沈んでいる。いろんなことがあったけど、思い返せばあっという間の一日だった。
夕食もお風呂も済ませ、わたしとハルちゃんは居間でのんびり過ごしていた。わたしはソファに座って携帯ゲーム。ハルちゃんはわたしの隣に座ってテレビを眺めている。ちらりとテレビ画面を見ると、政治家達が何か小難しい言葉を並べて話していた。
「あ、そういえば」
ハルちゃんが唐突に口を開いた。まさか、現代政治に対する考えでも述べようというのか。
「リンちゃん、初めての高校はどうだった? お友達作れた?」
まあそんなはずもなく、至極普通の質問が飛んできた。しかしわたしは、ついつい口元がニヤけてしまう。わたしはハルちゃんにそれがバレないように顔を携帯で隠し、自信満々に言った。
「もちろんだよ。その友達とお昼を一緒に食べたりもしたんだから」
教室を後にしたわたしと南さんは、近くのファミレスで昼食を摂った。制服のままどこかのお店に入るのは初めての経験だったし、それがいかにも女子高生って感じでわくわくした。そこでお昼を一緒しながら他愛も無い会話をした。何処の中学出身だとか、趣味は何だとか、あと猫の話とか。きっと、普通の入学したての女子高生のする会話だったと思う。
「そっかぁ、それなら安心ね」
「む?」
ハルちゃんはさらっと言ったけど、その言葉がわたしの胸の奥に引っかかった。まるで、ハルちゃんがわたしのことを心配していたかのような口振りだったから。
「ちょっと、安心ってどういうこと?」
率直に訊くと、ハルちゃんはニッコリして答えた。
「ほら、リンちゃんって人見知りするでしょ? だから、新しい環境で友達も作れずに一人ぼっち……なんて、心配してたんだよ」
「なッ……!」
なんて失礼な! わたしにだって最低限の社交性は残ってるんだから! それに、ハルちゃんだって昔は人見知りを体現したような子だったじゃない! それなのに、心配してたんだよ、なんてお姉さん面しちゃって!
と考えたところで、わたしはその言葉を飲み込んだ。ここで言い返したところで、わたしが少なからず人見知りしちゃうのは事実だし。あぁでも、何か言い返したい。
心の中でうんうんと唸っていると、ハルちゃんがくすりと笑った。その笑みでわたしは悟った。ハルちゃんにはわたしの心の内などお見通しなのだと。何だかんだでハルちゃんはお姉さんなのだ。
はぁ、ハルちゃんには敵わないよ。
小さくそう呟き、わたしは携帯ゲームへ視線を落とす。さっきのわたしの言葉は、きっとテレビの政治家の声が掻き消してくれたことだろう。