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19 忘れられないクリスマス

急展開 そして長い

 もし、過去の自分が別の選択をしたなら、今とは全く違った現在になっていたのかな。

 もし、過去の自分にもっと勇気があったら、わたしの本当に望む現在になっていたのかな。

 ……わたしは、『今』という現在は嫌いじゃないよ。だって、わたしが望んで、そうして手に入れたものだから。やっと気付いた、みんなと同じ『普通』だもの。

 でも、もし誰かに、これまでの選択に後悔は無かったかと訊かれたら、わたしは首を縦には振れない。選択をやり直したいかと問われれば、もしかしたら、頷いてしまうかもしれない。

 わたしは、まだ迷っている。これで良かったのか、このままで良いのか。考え、悩み、時間だけが過ぎていく。

 結局、今のわたしも勇気がないまま。恐れるばかりの臆病者だ。

 そんなわたしに、過去をどうこう言う権利は、きっと無いんだろう。


 ***


 風の冷たさはさらに増した。こんなにも寒いのに、街中の木々はすっかり木の葉を散らしてしまった。時折吹く北風に木々が寒そうに裸の枝をしなわせる中、しかし一方で、町中の雰囲気は華やかだ。理由は明白、クリスマスシーズン真っ只中だからだ。

 もう一週間も前から近くの住宅はちっちゃな電球で所々を飾り、ドアにはリースを、きっと家の中にはツリーも飾られていることだろう。コンビニでもスーパーでも、クリスマスセールみたいなもので連日賑わっているし、イベントとかもあるみたい。なんかもう、みんな浮かれきってる。でも、そういう空気は、正直好きだ。

 イベント事は好きだった。去年も一昨年も、ずっと子供の頃も、何かにつけてハルちゃんと遊び歩いた。春はお花見、夏は海に花火にお祭り、秋は紅葉とお月見、冬はクリスマスとお正月。全部楽しみだったし、全部楽しかった。どれも、大切な思い出だ。けれど、それはきっとハルちゃんがいたから。ハルちゃんが一緒だったから、全部が眩しい思い出になったんだと思う。

 だから、今年のクリスマスは、そうはいかない。だって、ハルちゃんは一緒じゃないから。

「今日の夜、ちょっと出かけるね。帰りは……何時になるかわからないわ」

 24日、クリスマスイブの朝に、ハルちゃんが唐突にそう告げた。ソファに背中を預け、見ていたテレビから一つも目線を動かさずに。

 まだ顔も洗っていなかったわたしは、その言葉で眠気が一気にすっとんだ。思わず、夜に一体どこに行くのって聞き返すところだったが、それをぐっと飲み込み、

「そ、そう。わかった」

 と返すのが精一杯だった。

 どこに行くのか。そんなの、決まってるじゃない。だって、今夜はクリスマスなんだから。

 それに、わたしも同じ。今日は一日、岸本くんとデートだ。だから、ハルちゃんがどこで、誰と、何をしていたとしても、わたしには何も言う権利はない。わたしも、ハルちゃんにデートのことを告げていないのだから。

 そう分かってはいても、ちらりと、あの男の影が脳裏にちらつく。頭をぶんぶんと振ってそれを追いやり、ハルちゃんが作ってくれた朝ごはんの並んだ席に着く。ハルちゃんは、もう朝食は済ませていた。

「そういえば」

 茶碗のご飯を小さく箸でつまむわたしに、今度は顔を振り返ってハルちゃんが呼びかける。

「今日、リンちゃんもお出かけするんだよね? これから」

「う、うん……」

 訊かれ、小さく頷けば、彼女は眉を少し寄せ、口角を少し上げた。まるで、無理に笑顔を作ったような表情だ。

「そう、楽しんできてね」

 そして、ハルちゃんの目線は再びテレビへ戻った。食卓に一人残されたわたしは、もそもそと白いご飯を噛み締めた。



 朝の9時の10分前。わたしは待ち合わせ場所の駅前に到着した。待ち合わせは9時だから少し早かったけど、やはりというか、そこには既に岸本くんがいた。

「おはよう、園田さん」

「お、おはよう」

 わたしに気が付いた彼は、いつもの爽やかな笑顔で手を振った。わたしの来る何分前から待っていたかは知らないけど、寒さなど全く知らぬような晴れた笑顔だった。その顔を見ると、若干、心の中に申し訳ない気持ちが湧く。

「ごめんね、また待たせちゃって」

「ううん、全然待ってないよ」

 しかし、近くで見れば彼の頬は赤みがかっている。寒い中に長時間いた証拠だ。でも、その強がりには気付かないフリをする。きっと岸本くんも、そのほうが嬉しいだろうから。

 それにしても、とあたりを見渡せば人、人、人。それも若いカップルから夫婦、子供連れまで様々。この町はそんなに大きいわけではないから、みんな外の町へクリスマスを楽しみに行くんだろう。……一体、どんなクリスマスを過ごすんだろう。

「そうだ! ねえ、今日はどんなプランを考えてきてくれたの?」

 わたしは思い出したように彼へ視線を戻す。今日一日のプランは岸本くんが全部考えてきてくれたはず。当の本人も楽しみにしててと言ってくれたので、お手並み拝見といこうじゃないか。

 と意気込むわたしの考えを知ってか知らずか、彼は、

「それは行ってからのお楽しみだよ」

 と返してきた。そんなおしゃれなセリフを一体どこで覚えたのかと、表には出さずに心の中でクスクスと笑った。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 そして、彼は一枚の切符を取り出した。その瞬間、デジャブを感じた。

「えと、きしもと――」

 わたしが口を開くのを、彼が手で止める。きょとんとするわたしに、彼は目を細めた。

「言いたいことは分かるけど、今日だけは許してくれ。今日の予定は全部俺一人で考えたんだから、その分の料金は俺が持つよ」

 そう言って差し出された切符を受け取りつつ、若干腑に落ちないような気持ちになった。でも、確かに、彼の言うことが分からないこともない。でもなぁ。

 そんなもやもやが残ったまま、じゃあ行こうか、と岸本くんは歩き出す。わたしもその後に続くが、彼は数歩歩いたところで足を止めた。どうしたんだろうと左から顔を覗き込もうとすると、彼は顔を逸らしながら左手を上着のポケットから出してわたしに手の平を向けた。

「……えっと」

「……どうしたの?」

「人が多いし、はぐれるといけないから、手、繋ごう」

 彼の顔はわたしの真反対を向いているせいで見えないけど、きっと真っ赤に違いない。それも、寒くてではなく。

「うん、そうしよっか」

 照れている岸本くんを可笑しく思いつつ、出された手を握る。大きくて、温かい。これが男の子の手なんだと、ふと思った。

 岸本くんの手。そういえば、こうして手を繋ぐことすら初めてな気がする。それなのに、こうも緊張したり、ドキドキしないものなんだなぁ。もし相手がハルちゃんだったら、きっとドキドキで寒さなんか忘れちゃうのに。

 ……ハルちゃん

 ふと、彼女の姿が目に浮かんだが、それはすぐに消え、代わりに岸本くんがわたしの顔を覗いていた。

「どうしたの?」

 そう訊く彼の声には、緊張と心配が入り混じっていた。はっとしたわたしは、首を横に大きく振った。

「ううん、なんでもない! ほら、行こう! 電車に遅れちゃうよ!」

 わたしを取り巻くものを振り切るように、声を張り、彼の手を引く。

 そう、今日は岸本くんとのデート。余計なことを考えてたら、折角のクリスマスが台無しだ。

 だから、この一日は他の事は全部忘れよう。今日は岸本くんとのデートに集中。だってわたし、岸本くんの彼女なんだから。



 電車に揺られて辿り着いたのは、隣町のデパートだった。

 ここもやっぱりというか、わたしの町と同じくクリスマス一色に染まっているけれど、その規模がウチとは段違いだった。

「わああぁぁ……」

 四階建ての白くて巨大な建造物に入れば、これまた広々としたエントランス。そして、わたしの目を引いて止まないのは、最上階まで続く吹き抜けにこれ見よがしに建てられた巨大なクリスマスツリー。太い幹に三角形のシルエットの枝葉を伸ばし、それらはオーナメントやその他の装飾できらびやかに彩られていた。

 さすがにこんなおっきいツリーは屋内に運び込めないだろうからツリー自体は本物ではないんだろうけど、それでもこれは感動を覚えるほど。さすが隣町のデパートだ。

「ほら見て、天辺に星が光ってるよ」

 岸本くんが指差すように、見れば確かにツリーの天辺にこれまた大きな星がわたしたちを見下ろしている。しかし、足元のここからじゃあまり良く見えない。

「う~ん、でもここからじゃあんまりよく見えないよ」

 と素直に言えば、分かっていると言わんばかりの余裕の表情を浮かべる岸本くん。なら、最上階まで上がって、それからいろんなお店を見て回ろうか、と岸本くんが提案し、それい従い二人でエレベーターに乗り込む。

 程なくしてエレベーターは止まり、四階に着いた。そこから少し歩けば、先ほどの吹き抜けの最上階。さっきまで遠くから見下ろしてきた星が、今では手を伸ばせば届きそうな距離で輝いている。

「すごぉい! 見てよハル――」

 夢中になり、思わずハルちゃんの名前を呼ぼうとする自分に気付き、はっと口を噤む。そっと振り返れば、岸本くんもまたキラキラ光るツリーに目を奪われている様子だった。あたりは人も多く騒がしい。わたしの声も、きっと掻き消してくれたんだろう。

「園田さん、一緒に写真撮らない?」

 ほっと胸を撫で下ろすわたしの肩をとんとたたき、岸本くんがスマホを片手に訊いてきた。わたしは笑顔を取り戻し、うんと頷いた。

 大きなツリーの天辺をバックに記念撮影。自撮りは意外と難しく、スマホとの距離も近いために、わたしたち二人とツリーを画面に収めるのに中々苦労していた。

「園田さん、もっと寄って」

「う、うん……」

 仕方ないので、人前にも関わらず二人で身を寄せ合う。肩が密着し、お互いの息遣いも聞こえるくらいの距離。そして、ようやくわたしたちが画面の中で落ち着いたところで、

「はい、チーズ」

 の掛け声とともにシャッターが切られた。カシャリという音と共に、画面の中にわたしたちが取り込まれた。岸本くんにそれを見せてもらうと、何と言うか、二人とも表情が硬かった。それがなんだか面白く、クリスマスデートで最初の写真がこれか、とお互い笑いあった。

 ひとしきり笑った後、じゃあ行こうか、どこか気になるお店とかある? と訊いてきたので、ぐるりと見回してみる。すると、数あるお店の中でも一番目に付いたのは、カラフルな店構えが特徴的なケーキショップ。そのお店の前には、カップル限定のスイーツバイキングの文字が。

 わたしは岸本くんの袖をくいくいと引き、そのお店を指差す。

「ねぇ、あそこ! スイーツバイキングだって! しかも、カップル限定!」

 そして彼の顔を見上げれば、若干苦笑いを浮かべていた。もしかしたら、ああいうお店は男の子は入りにくいのかもしれない。それとも、甘いのが苦手とか?

「もしかして、ああいうのは苦手?」

 と訊けば、彼ははっとしたようにぶんぶんと顔を横に振った。

「いやいや、そんなことないよ! ケーキとか大好物! じゃあ、時間ももったいないし、早く入ろうか!」

 そして、わたしは彼に手を引かれるようにして後に続いた。



 それからのことは、本当にあっという間だった。

 スイーツバイキングで満足するまでケーキを味わった後は、ゲームセンターで遊んだり、服屋さんで洋服を見たり、ランジェリーショップ……はスキップして、隣のアクセサリーショップ内を見て回ったり。お昼の時間になれば、ケーキを食べ過ぎたことを後悔したり。その後も、わたしの気になったお店を順々に回り、これ可愛いとか、君に似合うんじゃないとか、二人で他愛無い言葉を交わした。

 きっと、『普通』のカップルがするような、そんなデートだったと思う。岸本くんはずっと笑顔だったし、わたしも本当に楽しかった。わたしたちは、周りと同じ普通の恋人同士なんだって思えた。

 でも、時々だけど、わたしの脳裏にハルちゃんの影が浮かんでしまう。せめて今日一日だけはハルちゃんのことは忘れようと心に誓ったはずなのに、無意識に、岸本くんではなくハルちゃんの姿を探してしまう。求めてしまう。


 このケーキ、ハルちゃんが好きそうだなぁ。こんな沢山のスイーツに囲まれたら、ハルちゃんどんな顔をするのかな。

 このUFOキャッチャーの景品の大きなぬいぐるみ、ハルちゃんにお土産であげたいなぁ。こんなゾンビが出てくるゲームなんかやったら、ハルちゃんなら絶対泣いて抱きついてくるよ。

 あ、このニット可愛い。ハルちゃんに似合うんじゃないかな。このアクセも素敵。ハルちゃんて、普段からアクセとか付けないけど、絶対可愛いと思うんだよね。


 岸本くんとの二人だけのデート。それなのに、わたしの心の中にはハルちゃんが時々顔を出し、わたしを現実に引き戻す。ハルちゃんがいないという現実に。その度に言葉を失い、やるせなくなって、それを隠そうと笑顔を作る。折角岸本くんが連れてきてくれたデートなんだもの。台無しになんかしたくなかった。

 それから、気付けば日は傾き、西の空がオレンジ色に染まる頃。

「そろそろ帰ろっか。遅くなるのもいけないから」

 わたしたちは電車に乗って、わたしたちの町へと戻ることにした。

 電車は空いていて、二人並んで座席に座る。時々、窓から差し込む西日が目に染みた。

「今日は、どうだった?」

 電車の雑音に消え入りそうな声で、岸本くんが訊く。

「楽しかったよ? 多分、これまでのデートで一番」

 これは本心だ。これまでで一番楽しかったし、一番カップルしてたと思う。

 なのに、横から覗く彼の顔は、少し曇っていたような気がしたが、その原因はこの忌々しい西日のせいではないと、直感的に思った。

 やがて、電車はわたしたちの町に到着した。電車を降り、駅を出る頃には、西日は大分穏かになり、紺色の空が夜の訪れを知らせていた。

 夜が近い。親のいないわたしはともかく、彼は夜遅くに帰るわけにはいかない。今日の所は、もうすぐで岸本くんとはお別れだ。

「最後に、家まで送るよ」

 岸本くんの提案に、わたしはこくりと頷いた。

 二人並んで歩く。住宅街に入ると、より一層暗さが増した。

 彼が何も言わずにわたしの手に触れる。わたしも何も言わず、彼と手を繋ぐ。弱い街頭の光の下、無言のまま歩く。

 その途中、彼が足を止めた。何かと思って隣へ振り向けば、彼は指でその先の公園を指していた。

「この公園で、少しゆっくりしていかない?」

 その言葉に促され、わたしたちは公園へと入っていく。滑り台、ブランコ、シーソー。どこか懐かしい遊具たち。それらで遊ぶ子供の影はない。

 わたしたちは公園の端のベンチに並んで腰掛けた。頭上の街灯が、二人を照らす。

 風の音も聞こえない、静かな夜だ。

「俺……」

 白い息と共に、彼が言葉を紡ぐ。

「園田さんのこと、好きだ。心の底から、本気でそう思ってる」

 彼がわたしを見つめていた。わたしだけを、見つめていた。

「君は……? 俺のこと、どう思ってる……?」

 彼の問いかけが、わたしの胸を打った。答えなきゃいけないって分かってるのに、わたしはふと目を逸らしてしまう。

「わたしは……」

 答えられなかった。目を合わせられなかった。

 どうしてだろう。岸本くんの気持ちを、受け取ることができなかった。

「園田さん……」

 彼が再びわたしの名前を呼ぶ。そして次の瞬間、わたしは肩を抱かれ、彼が顔を寄せる。吐息がかかり、鼻をかすめ、唇が触れようとする。

 あぁ、わたし、キスしちゃうんだ。初めてを、彼としちゃうんだ。

 そうだ、それでいい。そうすれば、きっともう後戻りはできない。後悔も未練も捨てて、わたしはこれから……

 ……しかし、結局唇同士が触れ合うことは無かった。わたしが、彼を突き放していたから。

「……はは、やっぱりダメだったか」

 気付いたときにはもう遅かった。彼の声が夜空にこだまする。それはとても、哀しそうな声。

「ち、違うの! これは――」

「いや、いいんだ。最初から分かっていたことだから」

 慌てて取り繕うとするも、彼がわたしの言葉を塞ぐ。

 彼は立ち上がり、わたしに背を向ける。

「実は初めから何となく分かってたんだ。君には、他に好きな人がいるんじゃないかって。俺は君しか見ていなかったのに、君は俺ではない誰かのことをいつも見てたから」

 彼は悲しみを湛えた瞳で振り返る。

「なあ、本当のことを教えてくれ。君の、園田さん自身の、本当の気持ちを」

 小さい風が吹き、頬を撫でる。その時、わたしは涙を流している自分に気付いた。これが一体何の涙なのかは分からない。次から次へと流れ出るそれを、わたしは拭うこともせず、彼と目を合わせる。今度は逸らすことなく。

 自然と言葉が浮かぶ。これまで隠してきた、秘密にしてきた、わたしの思いが。

「ごめんなさい……わたし、他に好きな人がいるの」

「……」

「その人、わたしの幼馴染で、ずっと昔から一緒だった。ずっと昔から……好きだった」

「……」

「本当にごめんなさい。わたし、あなたとは友達以上の関係にはなれない。わたし……その人のことを、愛してるから」

「……そうか」

 いつしか、彼も涙を流していた。それを見て、わたしは大切な友達の一人を傷付けてしまったのだと、はっきりと自覚した。その瞬間から、涙が一層溢れた。

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……ッ」

 両手で顔を覆い、俯いて泣き崩れる。謝って済むことではないと分かっているのに、それ以外の言葉が浮かばない。わたしは自分の身勝手さに絶望し、ただただ謝罪の言葉を並べた。それ以外どうしたらいいか、今のわたしには分からなかった。

「……園田さん」

 それなのに、彼は優しくわたしの名を呼ぶ。酷いことをしたのに、ずっと騙していたのに、それでも、彼の声は優しかった、温かかった。

「本当のことを話してくれて、ありがとう。君の本当の気持ち、聞けてよかった」

 顔を恐る恐る上げると、彼は笑顔を浮かべていた。瞳からは大粒の涙を流しながら、わたしに笑顔を向けてくれた。本人はもっと辛いはずなのに。

 その笑顔のまま、彼は再び口を開く。

「それなら、君には行かなきゃいけないところがあるんじゃない?」

「行かなきゃ、いけないところ……」

 彼の言葉を繰り返す。

 行かなきゃいけないところ。クリスマスの夜。

『今日の夜、ちょっと出かけるね』

 今朝の、ハルちゃんの言葉。

 はっと立ち上がる。そんなわたしを見て、彼は一度頷いた。

「さあ、行ってあげて。その人のところへ!」

 彼は叫ぶ。わたしの心を奮い立たせるように。そして、わたしと彼との距離を離すように。

「岸本くん、ありがとうッ……!」

 わたしは駆け出す。しかし、数歩走ったところで立ち止まり、彼へと振り返る。まだ、言い残したことがああったから。

「岸本くん! わたし、これからもずっと、あなたと友達でいたい! どうかな!」

 叫ぶ。すると、彼は涙に濡れた顔を背け、夜空を仰ぐ。

「はは、君は、つくづく残酷だよ」

 かろうじて聞こえた彼の声には、笑い声が混じっていた。



 走る。脇目も振らず、夜の住宅街を走る。

 日はすっかり落ち、町は静けさに包まれている。もしかしたら、ハルちゃんはもう家を出てしまったかもしれない。もしそうだとしても、わたしは足を止めない。この思いをもう一度、ハルちゃんに伝えるまでは。だってこれは、岸本くんがくれた勇気だから。

「着いたッ!」

 アパートに辿り着いたわたしは、急いで階段を駆け上がり、自宅のドアの前まで走る。そして、

「ただいま!」

 勢い良く玄関のドアを開けば、家の中は真っ暗。電気一つ点いていない。もう、ハルちゃんは家を出てしまっていた。

 いや、まだだ。もしかしたら、ハルちゃんがどこに行ったか分かる手がかりがどこかにあるかもしれない。わたしは急いで家に上がり、電気を付けて辺りを探す。

 すると、それはすぐに見つかった。

『あの場所で待ってる』

 ハルちゃんの字でそう書かれた紙切れが、テーブルの上に置かれていた。

 ハルちゃんが何故この手紙を残したのか、そんなことを考える余裕など今のわたしには無かった。その置手紙を引っ掴み、わたしは家を飛び出した。

「待ってて! 春香ちゃん!」

 手紙に書いてあった『あの場所』について、はっきりと確信していたわけではない。ただ、体が自然とそこへ向かっていった。

 わたしとハルちゃんの、約束の場所へと。


 息を切らし、辿り着いたそこは一つの影。たった一本の街灯が照らす丘の上で、その人は大きな木の根元にしゃがみ込んでいた。

「春香ちゃん!」

 叫ぶと、彼女はゆっくりと立ち上がり、わたしへと振り向く。その表情は木の陰に隠れて読めないけれど、その人は確かに、わたしの大好きなハルちゃんだった。

「はあ、はあ、はあ……」

 両膝に手をつき、肩で息をする。ずっと走っていたせいでまともに話すこともできない。そんなわたしの前に、ハルちゃんが歩み寄る。

「……来て、くれたんだ」

 木の陰から抜け出し、街頭に淡く照らされる彼女の表情には、うっすらと笑みが浮かんでいた。

 何故、誰かと一緒じゃないのかとか、どうして置手紙なんか残したのかとか、一人でここで何をしていたのかとか、いろんな疑問があったけれど、それらについて訊く余裕など無かった。わたしはいち早く、彼女にわたしの本当の気持ちを伝えたかったから。伝えなければいけなかったから。

「は、春香ちゃん、はあ、はあ、き、聞いて……」

「……なぁに?」

 ハルちゃんの前に立って、ハルちゃんの声を聞いて、落ち着きかけたわたしの鼓動が再び早さを増す。それを実感して、わたしは思った。

 あぁ、やっぱり、わたしは春香ちゃんのことが、どうしようもなく好きなんだ。

 だから、あなたに伝えます。これまでずっと胸に抱えていたこの気持ちを、十年前と同じこの場所で、十年前と変わらぬ思いを、もう一度。

 断られるかもしれない。もしかしたら、元の関係には戻れないかもしれない。けれど、今のわたしはもう恐れない。かつて岸本くんがそうであったように、今のわたしは、かつての臆病者なんかじゃない!

「春香ちゃん! わたし、子供の頃からずっとずっと! 貴女のことが好きでした! わたしと! 付き合って下さい!」

 愛の告白だなんて、そんな詩的な表現は似合わない。ただ単純に、わたしの思いを叫んだだけ。ロマンの欠片もない。

 それでも、これがわたしの精一杯だった。飾り立てず、わたしの全てを彼女にぶつけた。

 頭を下げ、返事を待つ。どんな返事が返ってくるか。断られるのか、受け入れてくれるのか。わたしの脳内で、思考が絡まる。

 しかし、沈黙の末に返って来た返事は、わたしの想像を外れていた。

「……付き合うだけ、なの?」

「……へ?」

 思わず間抜けな声を出してしまった。一方のハルちゃんは、ツンとわたしに背を向けてしまう。

「わたし、ずっと待ってたのに。約束のこと、忘れちゃったのかなって」

 約束。わたしとハルちゃんの婚約。そんなの、

「忘れるわけないよ! わたしだって! ずっと春香ちゃんのことだけを考えてきたもん!」

 けれど、ハルちゃんはわたしに背を向けたまま。

「ふんっ、そんなの全然信じられないなぁ。これまで散々わたしのアピールを無視しておいて、今更そんなこと言って。……わたし、怒ってるんだから」

 そ、そんな……。わたし、どうしたら……。

 目の前が黒色に染まる錯覚を思える。しかし、俯くわたしに、彼女は言葉を続ける。

「……もし、許して欲しいなら、もう言葉なんか要らない。行動で示して」

 そして彼女は振り返り、手を後ろに回して目を閉じる。じっと、わたしのことを待ってくれている。

「……」

 口を開きかけ、はっとする。そう、ハルちゃんの言う通り、もう言葉は要らない。もう、子供だった十年前とは違うんだから。

 春香ちゃん、わたしのこの気持ち、受け取って下さい。

 冷たい風が優しく吹く。わたしは静かに彼女の元へ歩み寄り、肩にそっと手を添えて、彼女の唇に、わたしの唇を重ねる。

「……」

「……」

 ほんの一秒。初めてのキスは、仄かに、甘いとも酸っぱいとも分からない味がした。

 ゆっくりと顔を離す。彼女の唇は艶やかに色めき、薄く開いた彼女の瞳は何かで潤んでいた。彼女の表情に、わたしは心臓が掴まれる錯覚を覚えた。

「ど、どうかな……春香ちゃ――」

 その時、わたしの言葉は唐突に遮られた。ハルちゃんが、わたしの唇を彼女の唇で塞いでいた。今度は一秒なんかじゃない。腰と頭に腕を回され、彼女から逃れられない。

「ん……ちゅぷ……はむ、ちゅっ……ぷはっ……はぁ、はぁ、はぁ」

 気付けば、わたしたち二人は地面の芝生の上で横になっていた。息が切れ、涙目になるわたしに、ハルちゃんが妖しい笑みを浮かべて言う。

「これが、わたしの気持ち。どうだった……?」

 すごく、気持ち良かった。脳が痺れて、何も考えられなくなるくらい。

「そうでしょ? 鈴のわたしへの想いより、わたしの鈴への思いの方がずっとずっと強いんだから」

 分かってる。これはいつもの挑発だ。いつだってわたしは、ハルちゃんの言葉によって手の平の上で踊らされていた。

 分かってる。でも、そんなことを言われたら、やり返さないわけにはいかない。わたしはのそっと芝生から体を起こす。

「わたしの想いだって、負けてないんだから」

 そして、寝そべったままのハルちゃんの上から覆い被さる。彼女は抵抗もせず、逃げもしない。むしろ、彼女は両腕をわたしの首の後ろに回してくる。

「じゃあ、わたしに見せて? 貴女の想いを」

 彼女の力に従うまま、わたしたちは長い長いキスを交わす。



 クリスマスの夜。冷たいはずの外の風も、不思議と心地よく感じる。きっとそれは、側に春香ちゃんがいてくれるから。

「じゃあ、帰ろっか、春香ちゃん」

 すっかり眠ってしまった彼女を抱っこする。所謂、お姫様抱っこ。彼女の体温も、重みも、吐息も、寝顔も、すべてが愛おしい。今すぐにでも、春香ちゃんを求めてしまう。

 でも、今は我慢がまん。大丈夫。冬の夜は長いもの。時間は沢山あるから。

 だから続きは、家に帰ってから、ね? 春香ちゃん。

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